第四章-39
イサがシャークをかばう理由は不明だが、そうだとしたら確かに辻褄が合う。嘘だとしたら、かなり巧妙な嘘だ。
「そういうことか。諸手を挙げて信じる気はないが、一応納得はした。続けてくれ」
「ええ。とにかく、この世界にはOS1がふたつ存在した。あなたの分とシャークの分」
イサは電源の入ったタイマのPDAをちらちらと見ながら、ことさらに単語ひとつひとつを強調して話し始めた。ここは重要な部分だと強調されているようで、タイマの背筋が自然と伸びる。
「OS1とは、いわば世界の代表者たる資格。ふたつ揃ってはじめて、この世界そのもののありかたを決定することができる。故に、OS1のひとつが永遠に失われた現在、ある意味では、この世界は既に《詰み》かけている。
だから、PDAコーポレーションによる世界のデータ化という《大きな流れ》を押しとどめるには、力によって抗うのではなく、この流れを作り出している《元凶》を説得するしかない。そのためには、まずその《元凶》に話を聞いてもらえるような下地を用意する必要がある。その下地というのは、微視的な意味でのこの世界、つまり国際社会の《総意》。ここまでは理解した?」
「OS1が具体的にどういう存在なのかは、話を聞く限りではさっぱりなんだが」何だ世界の代表者たる資格って。「ともかく、PDAコーポレーションに計画を見直させるために、できるだけたくさんの人にデータ化に反対してもらうことが必要だってことだろ。それはもうリューから嫌になるほど聞いたさ」
「そうよね。幸い、あなたにはシャークの力を借りることもなく、世界をして核兵器を廃絶せしめたという前例がある。このことから、OS1がひとつしかなくとも、国際社会に影響を及ぼし、《総意》を誘導することは可能だということがわかる。だから、あとはあなたがもう一度それをやりさえすればいい」
あなたが、この世界の人間にとっての最後の希望。
イサははっきりと、そう言った。
しかし……。そう言われても、どうすればいいというのか。
「そんなに難しく考えなくても。あなたは既に、正解にたどり着いているじゃない。さっき独り言で言った通り。あらゆる人に、同時にメッセージを届ければいいのよ。あなた自身の心が綴る、世界を激しく揺さぶるようなメッセージを」
イサはソファから立ち上がって、タイマに右手を差し伸べた。上目遣いに、イサを見上げる。少し迷いながらも、その手を取って立ち上がる。
「現時点において、PDAどうしを結ぶネットワークはPDAコーポレーションによって意図的に大幅な機能制限を受けている。したがって、このままでは当然ながらそれを実行に移すことはできないわ。だから、まずは存在しうる全てのPDAにアクセスして、そのシステムを私たちに都合のいいように組み替える」
そんな大それたことが本当に可能なのか、と驚くタイマ。私がサポートするのだから心配するな、と自信たっぷりに頷くイサ。
イサはタイマの手を掴んだまま壁際に歩いていき、眼下の地球をびしっと指さす。
「OS1を使って、PDAに……いや、世界そのものにハッキングをかけるのよ、タイマ」
アルカは自分の価値を自覚している。
アルカにはOS1も権力もなく、会議室のテーブルでリューや各国の首脳が交わし合う高次的会話についていけるだけの教養もなければ、《チルドレン》のようなプロフェッショナルな職業意識もない。
誇れる才といえば料理くらいのものだが、それも大富豪ナギサに何十年ものあいだ愛顧を受けているという《チルドレン》の料理人にはとてもじゃないが適うものではない。それでもアルカは調理室へと向かった。あまりにおこがましく思えるので、料理の手伝いを申し出るつもりはないが、せめて皿を運ぶくらいならアルカにもできるだろう。
調理室は意外にも広々としていた。Aスーツのデザインを純白に変え、白いコック帽をかぶった料理人が二人、せわしくもプロらしく余裕の表情を浮かべながら動き回っている。どちらもナギサの財力の恩恵にあずかって延齢処置を受けているらしく、外見上は三十代半ばに見えた。確か白人の方はクロードという名のフランス人で、黒人の方はジョンというエジプト人だったはずだ。アルカが入っていくと、二人は同時にこちらを見た。
「あ、あの。何かお手伝いできることはありませんか」
遠慮がちに声をかける。料理人クロードは透明な鍋蓋を覗き込んで中の蒸し焼きの様子を確認しながら、「そうだな」と呟いた。その様子があまりに無愛想だったので、アルカは気に障ったのではないかと慌てた。
「ごめんなさい。手伝いと言っても料理を手伝うってわけじゃなくて、その……」
「おや? 料理は手伝ってくれないんですか」
料理人ジョンが優しい口調で言った。アルカはびっくりしてそちらを見て首を振った。
「手伝わせてくださるんでしたら……」
ジョンは歯を見せてアルカに笑いかけた。その様子にアルカは少し安心した。ジョンはほんの一瞬だけ煮込みスープの様子を見てから、人差し指を立ててアルカに提案した。
「頭を使うとお腹が減るものです。これだけ熱心に働いている皆さんは、私どもが作っている料理だけでは満足なさらないでしょう。よければ皆さんの脳にブドウ糖を補給するため、チョコレートケーキを作っていただけませんか」
「え、いいんですか? 私なんかが」
「私にはわかりますよ」ジョンは悪戯っぽく笑った。「貴女はチョコレートケーキを作るのが大変に上手なはずだ。何故なら以前は毎年、二月になると欠かさずに作っていたから」
「確かにそうです」どうしてわかったんだろう、とアルカは目を丸くする。「その、毎回……義理でしたけど」
「ふーん、義理ですか。本当に、本命チョコレートを渡したことはないんですかな?」
そう言うと、クロードが通り際にジョンを肘で小突いた。
「料理中にくだらん冗談はよせ」クロードはアルカの方に軽く目をやると、顎をしゃくって調理室の隅のフードプリザーバーを指し示した。「《ショコラ》はあの中だ。くれぐれも残念な《ガトー》にならんよう頼むぞ。それと、Aスーツのデザインは白一色に変えておくようにな」
そういうわけで、アルカは二時間ほどかけて現在の宇宙ステーションの住民全員分のチョコレートケーキを完成させた。人数が人数なので一人分の分量は少なくなってしまったが、ケーキは他の料理やデザートと比べても、誰の目にも遜色なく見えた。
ジョンはひとつ味見をすると、アルカをひとしきり褒めた後にこう言った。
「よし、それなら、ナギサ様の部屋へ持って行っていただこうかな」
またも、悪戯っぽい笑み。肯定も否定もしないうちに、ジョンは数え切れないほどの料理皿が乗ったお盆を受け渡してきた。両腕にずしりと重い。それからジョンはお盆の上のポワレの皿をずらして、そこにチョコレートケーキの皿を置いた。
「ナギサ様個人に料理をお出しするときは、わざわざ作法に則る必要はございません。お盆ごと届けて差し上げればそれで構いませんので」
お盆を持って調理室を出るとき、アルカの背中に向けてクロードが声をかけてきた。
「落とすんじゃないぞ。いや、俺たちの料理なら別に落としても構わん。だが、おまえが作ったその《ガトー・ショコラ》だけは絶対に落とすんじゃないぞ」
外に出ると、扉が自動的に閉まる。クロードの言葉の真意を測りかねて、腑に落ちない気分のまま廊下を歩いた。その途中、ナギサの身辺警護のつもりであろうか、廊下に立って辺りを睨んでいる二人の《チルドレン》に出くわした。彼らに案内され、アルカはまもなくナギサの部屋の前にまでたどり着いた。
「ナギサ様。アルカ様が夕食をお持ちしました」
《チルドレン》がPDAで連絡を行うと、少し間を置いて部屋の扉が静かに開いた。
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