第三章-35
他の誰かがそれを見ていたら、愕然としたことだろう。しかし、それを眺めるシャークにはたいした感動もなかった。
「こんなことだろうと思ったぜ」
シャークはぼそりと呟く。エアステアが再び下りてくる音が聞こえる。リューが駆け下りてきた。
「ミハイルは出てきたか?」
シャークはリューの方を見ずに答えた。
「馬鹿なことをやりやがったな」
「何?」
「ミハイルは生きているぞ」
シャークの言葉を聞いて、リューはまさか、という顔になったが、五体満足のミハイルの寝姿を見ると、血相を変えた。
「俺としたことが……。うかつだった。シャーク! 急いで機内に……」
シャークは気が進まなかった。生きているのならばまだデイタの復讐は完遂されていないということではないか。しかし、飛行機で押しつぶしても死なない奴を殺すあては、シャークにはない。ここまで頑丈なのであれば、これは多分火炎放射器でも無理だろう。シャークはためらいながらも頷き、リューに従って走り出した。
そしてエアステアの一段目に足をかけたとき、ふと顔を上げると、乗降口のところに立っている女と目が合った。
白い柔肌。完璧に整った顔つき。機内の平面素子の照明に照らされて、天使の輪が乗っているかのように神々しく光り輝く黒髪。
そして、何十年経っても消えない悲しみを宿したその黒い瞳。
俺が壊した女。
ナギサ。
底のない憂いの深淵へと吸い込まれるような気がして、たまらなくなってシャークが目を反らすと、飛行機の翼に描かれたロゴが目に入った。
赤く燃える火の鳥を象ったエンブレムの下に、こんな文字列が金文字で書かれていた。
PHOENIX CORPORATION
それを一目見た瞬間。
シャークは立ち止まっていた。俯くと、小刻みに震えている自分の膝が見えた。
衣擦れの音が聞こえる。ナギサが自分の存在に怯えて、飛行機の奥へ逃げてしまったのだろう。そうは思うが、顔を上げてそれを確認する勇気はない。再び目が合うのが怖かった。ミハイルなんかよりも、ずっと怖かった。
「俺は……行かない」
エアステアの途中で、リューが立ち止まる。それから引き返してきてシャークの前に立った。
「何を言ってる。ミハイルが目を覚ましたら、殺されるぞ」
「それでも、行かない。決めたんだ。行くわけにはいかない」
「何故だ。理由を言え」
「全ては……俺の目的のためだ」シャークは一言一句をかみしめるように、ゆっくりと言った。「ここでミハイルと決着を付ける。例え奴が不死身だとしても、俺はもう逃げない」
見上げた一段上のリューの表情が変わった。嘘を見抜かれた、と思った。
逃げない、なんて言いながら、思いっきり逃げている。
ミハイルを倒すことなんてできないと知りながらも残るというのは、単にナギサの存在から逃げたいからだ。
ナギサを、これ以上傷つけることは断じてできない。例え命にかえても。
そのとき、ちらちらと目をやってたえず確認していたミハイルの腕が、ぴくりと動いた。
「さっさと行け、リュー! 飛行機が一発でも被弾したら一巻の終わりだぞ。離陸までの間、俺がミハイルを足止めするって言ってるんだ。だから早く!」
リューの顔には、どうしたらいいかわからないという苦悩が浮かんでいた。それを見て、シャークはふっと笑った。小さな子供にやるように、頭をもみくちゃにしてやると、リューは驚きながらも真剣な顔になった。
「ひとつ聞いていいか」
「何だ?」
それはたった四文字の問いだった。だが、その四文字にはリューの全人格がこもっているかのように思えたので、シャークは可能な限り真剣に答えた。
「いいや。大丈夫だ。死ぬ気なんて毛頭ない」シャークはにっこり笑った。「今度は嘘なんてついちゃいないぜ。わかるだろ?」
「違いない」リューは微笑み返すこともなく、やれやれと言いたげな表情のまま踵を返した。「わかった。おまえを信じよう」
「ああ、頼むぜ、相棒」
その背中に声をかける。返事はない。
そのかわり、リューは数段上ってから、さっと振り向く。
「栄養剤は足りているか? 移動手段は?」
「心配すんな。何の不自由もないさ」
ウインクしてバックパックをぽん、と叩いてみせると、ポスッと空気が漏れる音がした。顔をしかめるリュー。
「待て。やはり……」
銃を掴んだままのミハイルの腕が、びくりと痙攣するように動き、それを見たリューの言葉が止まる。
彼はもう迷わなかった。今度こそシャークに背を向けた。
「何でもない。じゃあな」
「ああ」
乗降口から飛行機に入っていくリューの背中をゆっくりと見送りながら、シャークは静かな満足感に浸っていた。
これこそが自分とリューのあるべき関係だと思った。
ロケットブースターが再び炎を上げ、飛行機がゆっくりと発進する。倉庫内を器用にぐるりと回転した。
飛行機の窓のひとつの中に、目を丸くしてこちらを凝視しているタイマの姿が見えた。窓をガンガン叩いて何か叫んでいるようだ。天地がひっくり返ったかのような騒ぎようだった。ひょっとすると口の動きで伝わるかもしれないと思って「すまんな」と言い、それから悲しげに笑って手を振った。
ナギサに、よろしくな。
そう言おうとしたが、それだけはどうしても無理だった。そうこうしているうちに、彼の姿も見えなくなる。
願わくばもう一度ミハイルを踏んでいってくれないかと期待したが、そのようなことは起こらなかった。飛行機は庫内を数十メートル滑走し、離陸して、壁に空いた穴をくぐり抜けることに、器用にも一度で成功した。
あっけなく空の彼方へと飛び去ってしまう飛行機を見送りながら、予想以上の手際のよさに舌を巻く。今更言っても仕方ないが、どうやらミハイルを足止めするまでもなかったらしい。
そうして、シャークは再びミハイルと二人取り残された。
飛行機の音が完全に聞こえなくなってから、腕を組んでいたシャークは静かに言った。
「……起きてんだろ、ミハイル」
ぴくり、とミハイルの指が動いた。それからミハイルは地面についた左手を支えに身体を起こした。ライフルを持った右腕の服の袖で、土や埃のついた顔をぬぐう。それからまっすぐシャークの方を見た。
「……PDAは?」
「ついてねーよ」
シャークが左手の甲をミハイルに向けてやると、ミハイルはひとまず安心したらしい。
「飛行機に潰されるというのは、生まれて初めての経験だ。流石に少々、きつかったよ」
「ほー、そりゃよかったな」
シャークの軽口に、ミハイルは目をつり上げてむくれた。その表情からはいつもの冷徹な印象は受けなかった。むしろ年相応な愛らしさがあるといってもよかった。
「煽りに対する免疫がないようだな」
「そりゃ、僕を煽る奴なんて普通いないからね」
「はっ。調子に乗ってんじゃねーぞクソガキ」
ミハイルは舌打ちし、両者は無言で睨み合った。
「いつまでもこうしているつもりかい?」
先に目を反らしたのはミハイルだった。何だ、張り合いがねえ、とシャークは好ましくなく思った。ミハイルの方は、我慢比べに参加したつもりなどさらさらなかったらしく、すました顔でこう言った。
「ところで、君にPDAの電源を切らせて、ここまでおびき出した理由。知りたくはないかな?」
完全に不意打ちだった。
それでは、ミハイルの「PDAを付けている限り、どこまで逃げたところで同じこと」という言葉は、シャークにPDAの電源を切ることが可能だと知った上での発言だったということなのか。まさか、と思ったが、ミハイルにははったりをきかせている様子はない。
見事に、してやられた。
全てがミハイルの思惑によるものなのだとしたら、実感がなかったとはいえ、シャークはまさにリューが怪しんでいたような、仲間を売り渡すも同然の行為をはたらいていたということになってしまう。それも、自分がそのアイデアを考え出し、選択したという錯覚に惑わされて。
シャークは歯茎から血が出るのではないかというほど、強く歯を噛みしめた。それを先程の問いへの肯定ととったらしいミハイルは、余裕綽々といった表情で話し始めた。
「実はね、僕は君たちを仲間にしたいんだよ」
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