第三章-34
シャークはもう一度ミハイルが倒れている辺りを見回した。飛行機が通過した床には、十メートル近くの幅のある跡が残っている。ただでさえ幅のある車輪が、列をなしてたくさん並んでいるせいだ。確かに《ラプラスの悪魔》といえど、これを避けるよう指示を出すことはほぼ不可能だったはずだ。
「おまえはただ自分の手でデイタの復讐をしたいというだけなんだろう。気持ちはわかるが、既に死んでいるものをいたぶるのはよせ。そんな非生産的なことより、今はこいつを役立てることを考えよう」
リューの言葉は、正しかった。
感情を殺してただひたすら理性的に考えた場合限定だが。
問題は、リューはそれができる人間であり、シャークはそれができない人間であるということだ。
シャークの直感はミハイルが死ぬわけがない、一刻も早く、二度と復活できないようにしてやるべきだとひっきりなしに警告している。
一方で、ミハイルに対して復讐したいという個人的欲望にも、次第に抑えがきかなくなり始めていた。
シャークの心には、どす黒い感情が渦を巻いている。
ミハイルは、シャークから仲間を奪ったのだ。だからその報いを受けさせてやらなくては気が済まない。
それを邪魔するのは、例えリューであっても、決して許されることではない。
「うるせえな……」シャークは怒りを込めた声で、ゆっくりと言った。今感情を噴火させてしまったら、リューさえ撃ってしまうような気さえする。シャークは最低限の理性を働かせ、グリップを握る右手を緩めて、銃を地面に落とした。火炎放射器もいったんバックパックに戻した。「ミハイルを役立てる、だと? ああ、ミハイルの身体を持ち帰れば英雄にはなれるだろうよ。だが、それではPDAコーポレーションとミハイルが無関係だったという認識を固定させてしまう。ミハイルがPDAコーポレーションに属していたという証拠がないからだ。ミハイルを使って大量殺人と環境汚染をやっていたPDAコーポレーションの悪行が、単なる都市伝説のまま終わることになるくらいなら、ミハイルにはずっと《生きて》いてもらった方がましだ」
だから俺に奴をやらせろ。奴の死が誰にも知られないように。
そういう思いのこもった視線をリューにぶつけようとするが、彼は目を合わせてこなかった。顎に手を当てて何か考えている。
「なるほど? その証拠とやらを得るための手段として、PDAの電源を切ったというわけだな」リューは声に感情を込めることなく続けた。電源を切ったPDAを付けた左手に視線を感じる。「……シャーク。ひとつ訊かせてもらう。おまえは、ミハイルと結託して皆にPDAの電源を切らせ、故意にここへと誘導したというわけではないんだな?」
リューの問いを聞いて、シャークは舌打ちした。ミハイルと結託? 冗談じゃない。
「あまりバカなことを訊くと、いくら俺でもキレるぜ。ミハイルが俺と結託しているんなら、どうして俺が奴に復讐する必要があるんだ?
俺がここに皆を連れてきたのは、どうにかしてミハイルがPDAコーポレーションに所属するという証拠を得る、ただそれだけのためだ。結果的に、その試みは随分と高くつくことになってしまったがな」
「……やはりそうか。嘘をついている様子はないな。安心したよ」
ただ、ミハイルの方は俺と結託したがっているようなそぶりを見せてはいたが。
安堵の息をついたリューを横目でちらりと見ながら、シャークはそのように頭の中で付け加えた。
デイタを逃がした後、路上で戦ったときの話だ。単に「PDAをつけている限りどこまで逃げても同じこと」などとヒントになるようなことを口走っただけではない。戦闘中、彼はかなり手加減をしていた。そうでなければ、国連軍が応援に駆けつけるまで生き残ることなど到底叶わなかっただろう。
このことは、リューには言わないことにした。ミハイルがPDAの電源を切った人間ばかりを集めて何を企んでいたにせよ、もはやそれには何の意味もないからだ。PDAの電源付けっぱの新キャラが想定外の登場をカマしたあげく、自身が蚊トンボのように叩き潰されてしまった今となっては。
それに、リューにだって隠し事はあるではないか。例えばリューにOS1のことを教えた女の協力者が誰なのか、とか。ならば、こちらとて同じように隠し事を持って何が悪い。
そんなことを考えていたところ、リューは突然一歩前に踏み出した。
「シャーク。ともかく、死体を運ぶぞ」
リューはミハイルの身体を引っ張って、どうにか飛行機の下から胴体と足を抜こうとする。もしちぎれるならちぎれてもいいというような投げやりな思いが感じられた。彼にしても、流石に死体を扱うのには慣れていないのだろう。
「おい! ちょっと待て!」
シャークは思わず止めに入った。リューの肩を掴んで強く揺する。リューはため息をつくと、こちらに顔を向けて、幼子に言い聞かせるような調子で言った。
「おまえの自尊心を害するだろうと思って黙っていたが、ミハイルがPDAコーポレーションの社員だという証拠は既にこちらで手に入れている。後はそのことをミハイルの死とともに発表するだけだ。そうすれば世論は『ミハイルを差し向けて安寧を脅かした、憎むべきPDAコーポレーションに鉄槌を』という方向に動くことは必至なんだ」
それを聞いて、シャークは思わずうなり声を上げてしまった。何となく胡散臭い感じもするが、それが本当なのであれば話は変わってくる。
リューの言葉を信じるなら、シャークの何日もにわたるミハイルの追跡は、はなはだ不本意な形でとはいえ、一応の成功をみたということになるだろう。
ミハイルの身体を持ち帰ることで、PDAコーポレーションに煮え湯を飲ませてやることができるのなら……。
「今手伝ってくれるのなら」リューは更に条件を付け加えた。「ミハイルに関する何もかもが終わったとき、あるいは、万が一ミハイルが途中で生き返ったとき、即座に奴の身柄をおまえに引き渡すことを約束しよう。そのときは煮るなり焼くなり好きにするがいい」
最後の言葉は胸糞悪さをこらえて無理して絞り出したものであるらしく、リューは苦虫を噛みつぶすような表情を浮かべていた。しかしシャークはその権利に心が躍る自分を感じていた。
多分自分の頭はどこか壊れちまってるんだろうな、と、かすかに自嘲する。そんな想いを、首を振って打ち消した。
復讐のためだけに生きてきたのだ。そのためには何もかもを犠牲にしてきた。今更そんな些細なことを気にして立ち止まることなんてできはしない。流星のように一直線に燃え尽きるのみだ。
シャークは「よっしゃ」と気合いを入れると、リューの横で膝立ちになって、ミハイルの首を引っ張り始めた。だが、二人がかりで思い切りミハイルの腕を引っ張っても、ミハイルの胴体は車輪の下から少しも動きはしない。童話の「大きなかぶ」のようにアルカとタイマも加えて皆で引っ張ればどうか、と一瞬思ったが、体感的には四人どころか百人いても無理であろうと思われた。すぐにリューが音を上げる。
「駄目だな。先に飛行機を動かさないことにはどうしようもない。シャーク、少し離れて待っていてくれ」
やがてリューはそう言い残すと、エアステアを上っていった。それからしばらくして、飛行機の後方のブースターから数本の噴射炎が上がり、それとともに飛行機は耳障りな低い音を発しながらゆっくりと地面を滑り始めた。車輪が回転し、哀れなミハイルの上半身がガタガタとせわしなく揺れる。
やがてミハイルの下半身は車輪から解放された。
さっきまで車輪があった場所に、どんなひどい光景が広がっていようが笑顔を崩さず見届けてやる、と思っていたのだが、実際はてんでたいしたことがなかった。
確かに、ミハイルの着ていた服はほとんど原型を留めていなかった。ミハイルはAスーツを着ていなかったらしく、もとは茶色のスラックスだったらしいボロ布の隙間から生白い足が見えている。
だが、ミハイルの足と胴体には、傷ひとつなかった。
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