第三章-33
それからどれだけの時間が経っただろうか。
実際には数分しか経っていまい。だが、タイマやアルカにとっては、それは一時のショックから回復し、ミハイルがPDAを付けていなかったためにDゲートが発動しなかったことに納得するとともに、これまで長きに亘って一行に恐怖を与え続けてきたミハイルの死に安堵する心境に達するのに十分な時間だった。
ともかくそれくらいの時間が経った頃。
飛行機の乗降口が空気の抜けるような音を立てながら開き、自動的にエアステア――飛行機備え付けの階段――が下りてきた。
飛行機の中から姿を現し、階段を数歩下りてきたのは、なんとタイマの親友兼ライバルだった。その鋭い目や自信に溢れた表情、中途半端に伸ばした、若白髪の混じるぼさぼさの髪や、一国の代表に似合わない、ひたすら機能性のみを追求した服装(具体的に言えば紺色のジャージ。個人ジェットから颯爽と現れた男が、紺色のジャージ姿なのである)を見るのが、これほど安心できる日は他になかった。
エアステアの中段に立って一行を見回すリューの姿には、流石に大統領らしい威厳が備わっている。
「おい、みんな。無事か」
今の気分を表現するために階段の踊り場に立って小躍りでもしたいという気持ちを抑えて、タイマはリューに軽く手を上げる。
「リューじゃないか。おいおい、いくら趣味だからって、飛行機で核施設に突っ込んでる場合じゃないだろ。国連会議はどうしたんだよ。第一、どうやってここがわかったんだ」
「後で説明する。それにしても、デイタは気の毒だったな。しかし、他は全員無事のようだ」
不意を突かれた。まさかリューの口からデイタの名が出てくるとは思わなかったのだ。彼の敵を討ったところで、デイタが帰ってくるわけではないと思うと、喜ばしい気分が急激にしぼんでしまう。それが顔に出たのか、リューは慌てて話しかけてきた。
「おい、タイマ。気を確かにもてよ」それから目を細めて辺りを見回す。「ところで、ミハイルはどこだ? 近くに奴の気配はないようだが……」
「それは……」
「まあいい、今近くにいないのなら好都合だ。みんな、奴が来る前に早く乗れ。すぐに飛行機を再離陸させる」
「待ってくれ。だから……」
「何をためらうことがある。言っておくがな、もしミハイルが対空誘導弾を撃ってきたとしても、この飛行機は一発や二発では墜ちないぞ」
「話を聞け、リュー」強い口調でリューの言葉を遮ると、タイマは飛行機の頭の近くをぴしっと指さした。そちらに目を向けるや否や、リューの目が点になった。「ミハイルのことなら、すぐ近くでぐしゃぐしゃになってるよ。おまえが飛行機で轢いちまったせいでな」
タイマやアルカは、ミハイルの目と鼻の先で、リューと何か喋っている。
「今までミハイルをあれほど恐れていたくせに。実におめでたい奴らだ」
苦々しげに、シャークは独り言を言った。
タイマとリューの間で交わされる話など、シャークは少しも聞いてはいなかった。
彼はただミハイルだけを見ていた。シャークにとって、飛行機はミハイルを倒すための助けとなる突然の僥倖に過ぎなかった。
ミハイルは果たして本当に死んでいるだろうか。シャークは目を細めて、その動かない身体を観察する。
ミハイルの下半身は、車輪のひとつによって完全に押しつぶされている。今立っている場所からはよく見えないが、車輪の下にはさぞや凄惨な光景が広がっていると思われた。もはや足は足の形をしていないだろうし、内臓は悉く原型をとどめていないだろう。シャークはそんなミハイルの姿を見てもいい気味だとしか思えなかった。
だが安心するにはまだ早い。
最後に飛行機をよけようとして身を投げ出したのか、ミハイルは俯せになって地面に顔を押しつけていた。そして、その両腕は前方に放り出されており、その右手には例のアサルトライフルが握られたままだ。これがミハイルの手にある限り、シャークの性格上、油断することはできなかった。
銃を構えたまま、ライフルの弾道を避けつつ、慎重に近づく。ミハイルの傍らに跪くと、暴発をおそれたシャークはいったん自分の銃を地面に置き、両手でミハイルの腕とライフルを掴み、銃口をあさっての方向へ向けさせた。それから、ミハイルの指を銃から引きはがそうとする。だが、ミハイルの華奢に見える手は、この状況においてもなお固くグリップを握りしめており、シャークがどれだけ力をこめても外すことはできなかった。
手こずらせやがって、と舌打ちする。
いっそのことサバイバルナイフでも使って指ごと切ってやろうかと思って、近くに置いたバックパックを漁るために首を回した。そのとき、立ちすくんでいるアルカと目が合った。アルカの肩がびくりと震えた。顔が青ざめている。
それを見て、我を忘れかけていたシャークの心が僅かに揺れた。シャークはアルカから目を反らすと、できるだけ冷静に聞こえるように声を作って言った。
「タイマ。悪いが、アルカを飛行機の中に上げてやってくれ」
タイマはその声でシャークの存在を初めて思い出したような様子だった。
「あ、ああ……シャークは?」タイマの声からは、もう全てが終わったのに今更何をしているんだ、というような思考が読み取れた。「どうするつもりなんだ」
「こいつにとどめをさす」
ごくり、と唾を飲む音がした。
「しかし、ミハイルは……死んでるんじゃ……」
「おまえの常識が通用するかよ。こいつは人間じゃねえ、悪魔みたいなもんだ。そう簡単にくたばっちまうわけがねえ。だから慎重を期して、いったんこいつを引き出してから、二度と甦れないように、火炎放射器で灰になるまで焼き尽くしてやる」
シャークの淡々とした言葉に、タイマはうっとうめいて黙り込んだ。
顔を見なくても、今頃タイマがどんな表情をしているか、シャークには手に取るようにわかる。
ったく、とんでもない甘ちゃんだぜ。こいつに仲間が殺されたんだぞ。喜んで手伝いを申し出るくらいの気概を見せろよ。それでも男か。シャークはそう心の中で毒づく。
「おい、さっさと行けよ。彼女に気の利いたキャンプファイヤーでも見せようってか!」
「あ……ああ。わかった」
多少なりとも逡巡はあったらしい。だが、シャークがバックパックの中をまさぐり、様々な武器をかき分けて取り出した火炎放射器をちらつかせ、凄惨な笑みを見せると、タイマは眉をひそめながらも承諾した。衣擦れとともに、二人が階段を上り始める音がする。
タイマとアルカが機内に入ってしまうと、反対にリューが階段を下ってシャークのそばまで歩いてきた。シャークは彼の顔をちらりと見たが、すぐにミハイルに視線を戻した。
「さっきの話は聞かせてもらったが、流石にこの状態で生きているなんてことはなかろう」リューはつとめて冷静に言った。「死体を回収しよう。焼却するなどしてミハイルの存在をうやむやにしてしまうよりは、このままの形で役立てた方がいい。死体を証拠として提示すれば、世界中の人々がミハイルの死に熱狂し、我々を英雄として褒め称えてくれるだろう。まあ、相手がミハイルとはいえ人殺しを喜ぶようなクズを仲間に引き入れても嬉しくはないが、役に立つことは確かだ。PDAコーポレーションとの戦いも、一気に有利になる」
シャークはその言葉にもたいして心を動かされなかった。
「安全策をとるべきだ。もしミハイルがまだ復活の機を伺っているのだとすれば、この機を逃せば、二度と倒せる見込みはないぞ」
「馬鹿なことを。ファンタジーの世界ではあるまいし、飛行機に轢かれた死体が生き返るものか。いいか、彼が今まであたかも不死身であるかのように生き残り続けてきたのは、飛んできた銃弾をどうすれば避けられるか指示するコンピュータと、確実にその指示に従って動けるような並外れた身体能力があったからなんだ」
「《ラプラスの悪魔》か」
「知っていたのか、その通りだ」
「むしろリュー、おまえが知っていたことの方が驚きだぜ」
リューとシャークはぶっきらぼうな視線を交わし合った。先に目を反らしたのはリューの方だった。
「ともかく。これまでずっと生き延びてきたミハイルが、今日に限ってこんな有様になったのは、そのコンタクトレンズと彼の身体能力によってもなお、急に突っ込んできた飛行機の巨大な攻撃範囲から逃れることが物理的に不可能だったからなんだ。それだけの話だ」
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