第三章-32
ひょっとして少し前の轟音や地響きは自分たちをおびき出すための罠だったのではないかという考えが今更浮かんでも、もう遅い。
ミハイルの姿がその場から消えた。こちらに向かって走り出したのだ。目で追いきれないほどのスピードで、タイマにまっすぐ迫ってくる。慌てて前に突き出した足を、ミハイルは軍靴のような茶色のブーツでぐしゃりと踏みつけた。足を踏み台にして飛び上がったミハイルはそのまま目の前で宙返りをし、その弾みで銃を持っていない方の手を伸ばすと、タイマの左手を掴んでねじり上げてきた。あまりの痛みにタイマはうめき声を上げる。その間にミハイルはタイマの横を走り抜けていた。激痛の中、半開きの目で追った先にはアルカとシャークの姿があった。警告を発するより早く、ミハイルは二人の間をすり抜けるようにして駆け抜ける。一瞬遅れて、二人は苦悶の表情を浮かべ、それぞれ利き手でもう片方の手を押さえた。
ミハイルは銃を撃ってこなかった。痛みにもうろうとする頭でも、ここはミハイルにとっても何らかの理由で重要な場所であり、銃弾によって放射能汚染を起こすわけにはいかないのだろうという想像はついた。それならひょっとして好機ではないのかと思いかけて、考え直す。ミハイルが銃を使わなかったところで、こちらが三人がかりで銃撃したとしてもやはり勝てる相手ではないはずだ。なにしろ数秒のうちに三人が三人とも、地味に、しかし効果的に痛めつけられているのだ。ミハイルのさっきの俊敏さを見るに、ここまで接近された状況ではもはや逃げることも不可能であろう。
賭けに、負けた。
危険を冒してでもミハイルの謎を探ろうとしたのだ。それに失敗したのだから、覚悟を決めてミハイルの制裁を受けるしかない。そう思ったものの、とっさに口をついて出たのはこんな言葉だった。
「待て待て! ここには俺たちの他に誰もいない。時間はいくらでもあるんだ。だからちょっと話さないか。とにかく、銃を向けたりするのはなしだ。オーライ?」
どうやらタイマは深層心理ではどんな手段を使っても生き残りたいらしい。少しでも早くPネットに戻りたいと考えていた頃とは随分と変わったものである。たしかに、タイマたちが生き残る方法は、あとはミハイルと対話して慈悲を請うことくらいしかない。しかし、話が通じる相手である可能性はかなり低いようにも思われる。ミハイルの答えを待ちつつ、タイマはおどおどしながら髪を伝う汗をぬぐった。
ミハイルが振り返る。タイマはそんなちょっとした仕草にも全身の毛を逆立てた。
「のわっ! 驚かせてしまってすみません! 今のは汗を手で拭いただけです! 断じて銃に手を伸ばしたりしてたわけでは……」
「いいよ」
「それは恐悦至極……って、えっ?」
「僕は構わない。対話をしよう」
タイマは耳を疑ったが、ミハイルはどうやら本気であるらしい。案外簡単に了解を得られたものである。
「ここではなんだから、倉庫に入ろうか」
まるで商談かデートの誘いででもあるかのように気軽に、そう言ってミハイルは歩き出す。彼と一定の距離を保ちながら、タイマたちもそれに続いた。その間、タイマは慌てて対話の内容を考えた。やはりミハイルに「こいつは話せる奴だ」と思わせないことには、慈悲などかけてはもらえないだろう。しかし共通の話題など皆無である。
それより、とりあえず対話にこぎつけることには成功したのだから、せっかくだし世界中で暴れ回る理由でも聞いてみたらどうだろうか、という考えが思い浮かぶ。我ながら調子に乗りすぎだと思って考え直す。いきなり問題の核心に迫るようなことを聞いたりすれば、ミハイルは警戒して攻撃態勢に入りかねない。
そこで、タイマは仲間に対話を丸投げすることにした。とはいってもシャークに話させたら最後、ミハイルに喧嘩を売り始めるような嫌な予感がする。というわけで、アルカにこっそりと耳打ちする。
「おい、アルカ。なんとかしてくれ」
相当な無茶振りであることは承知の上だが、タイマはアルカの女子力を信じている。アルカは必ずやスイーツの話でもしてミハイルの機嫌を取ってくれるだろう。アルカは困惑した顔でちらりとこちらを見たが、すぐに軽く頷いた。
「ミハイル。話すのは初めてね」
「そうだね、お嬢さん」
「あなたに訊きたいことがあるのだけれど」アルカの声は、タイマが期待していたものよりもずっと陰気だった。おいおい大丈夫か。「……デイタをどうしたの?」
タイマの心臓が一拍飛び抜かした。いずれ訊かなくてはならないことではあったが、今はタイミングが悪い。ところが、今すぐフォローした方がいいだろうかと考えているうちに、ミハイルは意外にも温厚にこう答えた。
「ああ、眼鏡の坊やのことか。悪いが、彼にはPネットに出戻りしてもらったよ。僕の計画の邪魔になったものでね」
「……!」
稲妻のように、緊張感が三人の中を駆け抜けた。
アルカは敵意のこもった視線をミハイルに向けるばかり。シャークは全身に気を張り詰めて歯ぎしりしている。
タイマは意外と落ち着いていた。少し前に爆発音がしたときに覚悟はしていたからである。大丈夫だ、本当にPネットに戻ったのであれば、最悪の事態は免れているということなのだと自分に言い聞かせる。
だが……。
「嘘よ!」
アルカが叫んだ。アルカがそれほどの大声を張り上げるところを、タイマはこれまでに一度として見たことがなかった。それは咆哮とでも呼べるような、そんな叫びだった。
「デイタはPDAの電源を切っていたのよ。だから、Dゲートは起動しなかったはず。Pネットに行けるはずがない! 嘘つき!」
アルカはそう言って何度も何度もミハイルを責めた。しかし、自分の言葉に自分が耐えきれなかった。アルカの目に大粒の涙が溜まっては溢れた。そしてアルカは顔を覆ってその場に泣き崩れた。タイマは呆然としてその場に立ち尽くしたまま、少しも心動かされた様子のないミハイルの顔を見つめていた。
そうなのだ。
アルカの言った通りなのだ。
憮然として、タイマは左手の甲にくっついたPDAの画面を見つめた。真っ黒なパネルには何も表示されていない。右手で触れてみても、ぱっと電源が入ることはなかった。とりかえしのつかないことをしてしまったという絶望感で、心がぽっきりと折れそうになる。
「それが君たちが普段対話に臨むときの態度なのかい?」ミハイルは若干困惑した様子を見せた。「たかが一人の人間をPネット送りにしただけじゃないか。そこまで深刻になる必要があるとは、僕には――」
ミハイルは最後まで言えなかった。シャークが突然、腰に忍ばせていた銃を取り出して狙いも定めずに発砲したからだ。
「ぶっ殺すぞ、てめえ!」
実際には誰にもはっきりとは聞き取れなかった。ただしゃがれた大声でそれっぽいことを叫んだに過ぎない。それはある時点で爆発した感情の発露であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。ミハイルにドッジボールのような動きで銃弾をかわされると、シャークは野性味あふれるうなり声を上げた。目が血走っていて恐ろしい。倉庫でアルカを泣かせてしまったときに向けられた怒りなどとは比べものにもならない。タイマがいまだかつて目にしたことのないような怒りを、シャークは全身から放っていた。
狂犬のようになったシャークを前にして、タイマはかえって冷静になった。シャークが発砲してしまった以上、ミハイルが反撃しないわけはないのだ。うずくまっていたアルカの腕を無理矢理に掴んで、入り口に向かって走り出す。
「がああああッ」
気迫のこもった雄叫びを聞いて振り返ると、シャークは銃をガチャリと鳴らし、再び撃っていた。ミハイルはそれも難なく避けきった。もし秒速一キロもの弾丸を視認して避けているのだとしたら、これはとても人間業ではない。これこそがミハイルをして百万を超える軍人にことごとく勝たしめた最大の要因であろう、とタイマは結論づけた。とんでもない化け物に喧嘩を売ってしまったものである。そしてあの人を人とも思わぬ残酷さ! 対話が可能だと思うなんて、浅はかなことを考えた自分に、タイマは腹が立って仕様がなかった。
シャークには無事であってほしい。タイマは心からそう思った。さっきは理不尽に二発も殴られたが、彼は結局無鉄砲な自分についてきてくれたし――現在進行形で巻き込まれているような危険が容易に予測できたのだから、できればアルカは連れてこないでほしかったとはいえ――それに、それほど長いつきあいでもないデイタの死に、あれほどまでに怒ってくれた。
死――。
タイマは幼い頃に祖父を亡くしている。まだPDAもPネットもDゲートも存在しなかった頃のことだから、それは本当の意味での死だ。とはいえ、それはタイマが四歳のときの出来事だから、当時はそのことを悲しんでいたはずだが、その記憶は今やぼんやりしていてつかみどころがない。
それから九十六年、死などというものとは縁のない世界に生きてきた。
そんな中の、デイタの唐突の死。
何十年も、一緒に過ごしてきた、一番の親友だった。それなのに、今はもはやどこにもいない。自分はこの現実世界でしばらく生きたら、やがてPネットに戻り、そこで永遠に暮らしを続けていくだろう。かたやデイタは永遠に死んでいる。同じ道を歩んできたふたりは、今やねじれの位置にあり、二度と、話すことも、一緒に過ごすことも、ないということだ。
信じられない。信じられない。信じられない。
昔の人々は、本当にこんな喪失感を、当たり前のこととして受け止めてきたのか。
シャッターの扉にまでたどり着いて、ひとまずアルカを廊下に出してから再び振り返ると、ミハイルがシャークにアサルトライフルを向けていた。肩で息をしているシャークの右手には短銃、左手には電源の切れたPDA。
デイタの悲劇が、繰り返されようとしている、と思った。
タイマは彼に向かって駆け出そうとした。彼に向かって手を伸ばそうとした。彼に向かって大声を張り上げようとした。
まさにその瞬間。
メキメキ、バリバリなどという安易な擬音語では到底表せないような、凄まじい轟音を立てながら、壁と天井が粉々に崩れ落ちた。瓦礫とコンクリートの塊や欠片が宙を舞う。同時に、何かがそこから物凄い勢いで突っ込んできた。襲いくる異様なまでの風圧に、身体が浮くような感覚を抱く。タイマは無意識に仲間を守ろうとしたのかそれとも支えになるものを求めたのか、とっさにアルカの腕を掴んだ。必死に地面に踏ん張りながら、半開きになった目には灰色に光る巨大なものが映った。勢いよく接地したそれは、騒音を上げつつ進み、反対側の壁に突っ込んでようやく停止した。
風が止んでから、目をしっかり開けて見てみると、それは飛行機だった。
タイマはこれまでに奇怪な出来事を何度も体験してきているので、飛行機が核施設に突っ込むとはこれいかに、などという考えはもはや浮かばなかった。そのかわり、滅多にないこととはいえ飛行機事故が起こった場合ほとんどの乗客は助からないという客観的事実を思い出した。それでミハイルのことを一瞬忘れ、タイマは慌てて飛行機の方へ駆け出したのだが。
心配は杞憂に終わった。どんな頑丈な素材でできているのか、壁をぶち破ってきたにもかかわらず、その飛行機の外側面には傷ひとつついていなかった。それに、庫内の地面にちゃっかりと車輪で接地しているので、内部にそこまで強い衝撃が加わったということもないだろう。
そう思ったとき、隣に来たアルカがひっと息を漏らした。どうしたんだ、と聞いたが、アルカはそれには答えず、口を手で押さえてしゃがみ込む。
不審に思って、さっきまでアルカの視線が向いていたであろう場所を見てみると。
重量百トンをゆうに超えるであろう飛行機の、地面を数十メートルにわたって引っ掻いた車輪の下敷きになって、ミハイルが無惨な姿を晒していた。
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