第三章-31



 電源の切れたPDAの画面をじっと眺めていたタイマは、急に顔を上げた。そばに身を潜めていたアルカとシャークが、黙ったままこちらを見る。


「何か、嫌な予感がする」


 そうはいっても、別に何かビビッときたものがあるわけではない。ただ、今まで感じていた不安や緊張がこれ以上我慢できないレベルまで蓄積され、いてもたってもいられなくなったというだけのことだ。


「冷静になれ、タイマ」シャークはぴりぴりした様子でそう言った。「デイタならきっと大丈夫だ。あいつは俺が見込んだ男だからな」


「相手はあのミハイルなんだぞ。これが冷静でいられるか」


「そりゃ、戦ったら万にひとつも勝ち目はないだろうよ。だが、今日は戦いに来たんじゃない。奴の秘密を探りに来たんだ。思い返してみろ、これまでだってPDAの電源さえ切っていれば、ミハイルはちっともこっちに気付かなかっただろう。絶対、大丈夫だって。親友のデイタを見くびってるのか?」


「そういう問題じゃねえよ。あいつにだけ危険を押しつけるのは、やっぱりどうかと思うし……」


「それなら俺たち全員でデイタの応援に行くのか? 四人でミハイルを監視したところで、得られる情報に変化はないが、見つかる確率は四倍だぜ」


 結局、タイマは「それくらいわかってるよ」と愚痴っぽく呟いて黙り込むしかなかった。


 じっとしていると、狭苦しさに息が詰まりそうだ。


 施設の入口から少し入ったところにある、作業員用の倉庫である。作業服や放射線防護服が詰まったハンガーボックスがたくさん並んでいて、扉を開けただけではそれらの裏手にいるタイマたちの姿は見えないようになっている。ここに隠れていれば、ミハイルに見つかることはまずないだろう。この場所を見つけたとき、デイタはタイマたちにここに隠れているようにと告げたのだ。もし一時間経っても戻ってこなければ、そのときは自分がミハイルに始末されたということだと判断して、この核施設から出て散り散りに逃げるように、としっかり念を押されていた。


 PDAの電源を切っているために時間が確認できず、仕方ないのでタイマは頭の中で延々と歌をうたっている。ちょうど今、五分の歌を四回歌い終えたところだ。一時間にはまだまだ時間があるが、デイタのことが心配で動悸が収まらない。PDAで連絡を取ることができないことが、これほど辛いことだとは思ってもみなかった。


 そのとき、轟音とともに地響きが起こり、部屋の壁も床もぐらぐらと揺れた。ハンガーボックスのひとつが倒れ、騒々しい音を立てた。床に置かれていた工具箱などがポルターガイストのようにガタガタ震えて床を滑る。タイマは頭を抱えて丸くなった。とっさの出来事に、アルカを守ろうと動くこともできなかった。


 揺れが収まると、三人はおずおずと立ち上がった。ひとつを除いて意外とタフだったハンガーボックスを除いては、全てのものがエントロピー増大方向に移動していた。窓から差し込む光が宙に舞う埃をきらきらと照らし、まるでダイヤモンドダストのようになっている。それを見て、タイマは慌てて服の袖を顔に当てて肺を守った。


 この揺れは何なのかと思った瞬間、タイマははっとして他の二人と顔を見合わせた。


「デイタが危ない」


 それだけ言って、扉の方へ駆け出そうとすると、アルカがその腕を掴んだ。


「待って。何かあったら逃げるようにデイタに言われていたでしょ。ミハイルに感づかれてしまったのよ。今更どうしようもないよ」


 タイマはそれを強引に引き離す。


「何でそんなに冷静でいられるんだよ! デイタは俺たちの仲間じゃないのかよ!」


「デイタだって、タイマまで巻き添えになって欲しくないって思ってるよ」


「何でおまえにデイタの気持ちがわかるっていうんだよ!」


 アルカのわかったような口の利き方に表現しがたいいらだちを感じ、タイマは思わず怒鳴っていた。アルカの目に、大粒の涙が浮かぶ。それを見たシャークの顔に、突然激しい怒りが浮かんだ。


「おいっ」


 何かが勢いよく飛んできて、何が何だかわからないうちに視界が九十度回転した。発火しているんじゃないかと思うほど、右頬が熱くなる。東京でリューに殴られたときとは比べものにならない。タイマはあまりの痛みに、その場でのたうち回った。


「この野郎、何てことしやがる」


 怒りに任せてそう言ったところに、もう一発拳が飛んできた。今度は左頬だ。


「PDAの電源が切れてるってのはいいねえ。どれだけ殴ったってDゲートが起動しないんだから気が楽だ」


 シャークは薄笑いを浮かべてそう言い、再びタイマの前で拳を固く握ってみせた。その動作に、情けないことに思わず身がすくむ。


「何で殴られたかわかってるか。アルカを泣かせたからだ。いいか、女っていうのはこの世界で最も価値のある宝だ。それを泣かせるような奴は、何度殴られたって仕方ない最低下劣のクズなんだよ、おいわかってんのかてめえ!」


 あまりに突然怒鳴られたので、いきなり何怒り出しているんだろうこの人は、という狐につままれたような思いが先行した。その次に来たのは強い反発心だった。


 ふざけるな理不尽だそれはおまえ固有のカビが生えたような価値観であって俺に押しつけるな――


 そんな思考が頭の中でぐるぐると回る。だが、そんなことを口に出しては火に油を注ぐだけだ。仁王のようなその長身で威圧するように立っているシャークを、タイマはただ反抗的に見つめることしかできなかった。


「もうやめて、シャーク」そのとき、アルカがシャークの腕にすがりついた。「それくらいのことで怒らないで。タイマ、ごめん。本当にごめん」


 シャークは困惑したような顔で、シャークの袖に顔をうずめるようにしているアルカを見ていたが、しばらくして気が抜けたように爽快に笑った。


「すまん、アルカ。二発も殴ったのはやり過ぎだったな」


 張り詰めた空気が破れた、と思った瞬間、タイマはシャークに飛びかかり、膝を曲げて腰を沈めると、飛び上がって渾身のアッパーカットを食らわせた。突然の出来事に目を丸くしているアルカの前で、よろめいたシャークが数歩下がる。


「っ痛え!?」


「おい、シャーク。後でもう一発殴るから、覚えとけよ! 必ずだぞ!」


 タイマは隙をついて扉を開き、リノリウムの廊下に出ると、そのまま全速力で駆け出した。我ながら無鉄砲だ、とタイマは走りながら苦笑した。だが、そう思っても走らないではいられない、そういう性分なのだから仕方ない。アルカやシャークに、今の自分の心がわかってたまるものか、という反骨心がわいていた。百年も生きてなおも反抗期の少年のように振る舞うなんて、雀百まで踊り忘れずとはよくいったものだ、とタイマは一人苦笑した。Pネットの中では、やはり精神的な成長は見込めないということなのかもしれない。


 地上階でありながら、まるで極秘施設の地下深くであるかのように、廊下は不気味で重苦しい雰囲気を放っている。丁字路にたどり着くと、タイマは迷わず右に曲がった。


 ここで本物の無鉄砲ならば、「とりあえず走っていればいつかは必ずミハイルとデイタのところに着くだろう」などと楽観的に構えているところである。しかし、タイマは六十七年前にここに来たことがあるため、施設のだいたいの構造は把握していた。その中でミハイルがもっともいそうな場所は、最奥の放射性物質保管庫だろう。


 そう決めつけるのには勿論十分な理屈がある。この施設はミハイルの隠れ家のひとつで、ミハイルがわざわざ来たのは、彼が放射性物質をばらまくために常用している銃弾を補給するためだというのがタイマの推理だ。そんなものを置いておくとしたら、最奥の放射性物質保管庫ではないかとタイマは考えていた。もともとそのような用途のための部屋であり、スペースが十分に存在するばかりか、放射性物質に恐怖を抱く人の本能故に、人の出入りは滅多にないだろうと想像されるからだ。


 足音を立てないよう、最後の廊下を慎重に走破する。開け放たれたシャッター型の扉から、放射性物質保管庫を覗き込んだ。


 はたしてそこにミハイルは立っていた。こちらにゴルフバッグを斜めがけした背を向けて、ただ静かに立っている。その手にはアサルトライフルが握られていたが、期待していたように、それの銃弾を補給しているような様子はなかった。そもそも、だだっ広い庫内には全く何もない。それでは何のためにここに立っているのかと訝しんだ、その瞬間。


 ミハイルは無造作に振り返った。


 まるで、こちらが来るのを待っていたようだった。

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