第三章-30



「僕とシャークが結託? 何故そんなことを言うのか、理由を聞いてもいいかな」


 ミハイルが近づいてきて、デイタの前に立った。そのときになって初めてわかったことだが、ミハイルはデイタよりずっと背が低くて童顔だった。冷たい目と声さえなければ、天使のように可愛らしい十二歳の子供に見えたことだろう。


「いいだろう。まず、シャークさんは、君との格闘中に運良く国連軍が来て助かったと言ったが、それは嘘だ」


 ミハイルは微笑みのようなものを浮かべながら、デイタの言説を黙って聞いている。なるべく時間を稼ごうと、ミハイルの顔を見上げながら、ゆっくりと話を進める。


「僕がシャークさんをその場に残し、バイクで全速力で逃げてから、次のインターチェンジで高速道路を下りるまで二十分かかった。仮に僕が高速道路を下りたのと同時にそこを国連軍が通過したのだとしても、彼らが君とシャークのいる場所までたどり着くのにはさらに二十分以上かかるはずだ。そして、さっき弾を避けられたとき確信したんだが、君を相手にして四十分も格闘するのは明らかに不可能だ。つまり、シャークさんは僕が去って以降、君と格闘してなどいなかった」


「なかなか興味深いことを言うね。それで?」


「君がシャークさんにPDAの電源の切り方を教えたんだな。そして、PDAの電源を切っているからなんて馬鹿げた理由で安心していた僕たちを、わざと放置した。僕たちは、PDAの電源を切った状態で、まんまとこんなところまで誘導されてしまったわけだ」


 デイタはそう吐き捨てた。今となっては言っても仕方がないが、シャークに騙されていたことにもっと早く気が付いていれば、と思った。


「さっさと僕を始末すればいいさ。だが、せめてもの情けに、最後に君が何者かを教えてくれ」


 ミハイルはそれを聞くと、こらえきれなくなったように笑い出した。快楽殺人者が人を殺す前に笑うとしたら、このような笑いではあるような気がして、デイタは戦慄した。


「君は随分と自分を過大評価しているようだね」ミハイルが言った。「君を始末する必要がどこにあるというんだい」


「何を言ってるんだ……。ということは、やはり」


「ああそうさ。僕の狙いは、はなからOS1にしかない」


 タイマの顔が思い浮かんだ。OS1。世界中の全てのPDAのうち、たった一台にしか搭載されていないという、特別なOS。PDA全体を統括するために作られたOS。Pネットから出る直前に、リューが教えてくれたことだ。


「……OS1を、いったいどうするつもりだ」


「それは今から説明するから、とりあえず立つことだね。気にしていないのかもしれないけど、床は埃っぽいよ」


 ミハイルはそう言うと、デイタの腕を踏んでいた足をどかした。デイタは拍子抜けして、その場に立ち上がって腹についた埃を払った。この隙に乗じてミハイルを撃とうとか、そういう考えはとうに捨てていた。


「ほら、さっさと説明してくれ」


「その前にひとつ確認しておこうか。本当に、PDAの電源は切れているんだろうね?」


 ミハイルが僅かに目を細める。


 一瞬遅れて、デイタは無言で頷いた。


「念のため、確認させてもらおうか」


 有無を言わせぬ口調だった。髪の合間から汗が噴き出すのがわかる。結膜炎気味の目に流れ込んで痛むが、それをぬぐうこともできない。


 どうすることもできないまましばらくそのままでいると、ミハイルはデイタの左手を軽く取ってきた。指があまりに冷たくて、思わずそれを振り払う。


「やめてくれ。だいたい、何故そんなことを気にするんだ。シャークを焚き付けて、僕たちのPDAの電源を切らせたことに、何か意味があるのか」


 それを聞いたミハイルは、今度は無言で、今度はデイタの左手首を掴んだ。


 今度は、振り払えなかった。華奢に見える左手が、がっしりとデイタの手首を押さえつけている。バケツ入りの冷水に手を突っ込んでいるかのように、デイタはぞくりとした。


 その瞬間、デイタは見た。


 ミハイルの真っ白な左手の甲には、PDAがついていない。稲妻に打たれたように、何度もそれを確認する。やはり、PDAがついていない。


 違和感の正体はこれだったのか、とデイタは思った。冷たい目や声の印象が強すぎて、すっかり見落としていた。


 PDAを持たない人間が果たして存在しうるのかと訝しむより早く、ミハイルの指がデイタのPDAの画面に触れた。同時にエラー音が鳴り、画面には「正規の所有者以外がPDAを操作することはできません」と出た。


 それを見た途端、ミハイルは、見ていて笑えてくるくらいに狼狽した。


 とたんに、身体がくの字に折れ曲がる。ミハイルに膝で蹴られたのだと気付いたときには、既にデイタは壁に叩き付けられていた。ひどく咳き込むことになったのは、埃がむわっと立ち上ったからだけではない。


「おのれ、こんなところで! よくも作戦の邪魔を!」


 混乱の中で、ミハイルの叫び声が聞こえた。デイタの襟首が両手で掴まれ、ぎりぎりと絞め上げてくる。そんな状況でもなお、デイタは痛快だと心から思っていた。


「そうさ、僕のPDAは電源を切ってなどいない。シャークさんが遠隔操作で僕のPDAの電源を切った直後、電源を入れ直して黒一色の壁紙を待機画面にセットすることで、周囲の目を欺いたのさ。これは危険と隣り合わせの賭けではあったけど、どうやら良い方向に転がったようだね。ちなみに、さっきからの会話は全てPDAで録音し、仲間の一人に転送している。君が語る企みは、外部にダダ漏れだってことだ!」


「小僧! 自分が何をしたかわかっているのか!」


 さっきまでたえず纏っていた余裕など、ミハイルからはすっかり消え失せている。デイタは声を上げて嘲笑した。喉から出た声がまさに「鶏の絞め殺されるような声」と形容されるようなものだったことが、いっそう自虐的な笑いを呼ぶ。


「もののついでに言っておこう。この録音を聞く者よ、僕は既に彼の正体がわかっている。彼は――」


 言い終えるより前に、固く握られたミハイルの拳がデイタの鼻っ柱に炸裂した。壁に頭を打ち付ける。目から火花が散る。視界が歪む。


「彼は――PDAコーポレーションの、社員だっ……」


 それでもどうにか最後まで言い切った。それを聞いて、ミハイルはデイタの襟首から手を離した。放心したように、その場でよろめく。


「な……何故わかったんだ」


「PDAコーポレーションの他に」デイタは荒い息をしながらも、不撓不屈の笑みを浮かべていた。「千二百万人もの人を殺し、放射性物質を全世界の至る所に撒き散らすようなことをする理由や手段を持つ団体があるものか。そうだろう、ミハイル」


 返事の代わりに飛んできたのは回し蹴りだった。デイタは頭を下げてそれを交わすと、踵を返した。


 全速力で、廊下を走り抜ける。殴られた痛みなど、微塵も感じない。一生分くらいのアドレナリンが、副腎髄質から一気に出まくっているのかもしれなかった。とにかく仲間たちのところへ先にたどり着いて、警告しなくてはならない。


「化け物め。この世界を、人間を、そんなに薄っぺらいデータに変えたいか!?」


 息を切らしながら、精一杯の憎まれ口を叩いた、ちょうどそのとき。


 交差していた横の廊下から何かが伸びてきて、必死で振り回していた右手が絡め取られた。全く無駄のない動きで、手際良く引きずり込まれる。とっさの出来事に対応できず、叫び声を上げようとしたところ、その寸前に冷たい手がデイタの口元を固く押さえた。


 気が付くと、見知らぬ銀髪の少女がデイタの前に立ち塞がって、無言でミハイルと対峙していた。

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