第三章-29
あれは数日前のことである。
デイタはシャークのバイクで一人、ほの暗い明け方の道を走っていた。
高速道路ではなく、一般道である。だだっ広い小麦畑を突っ切る一本道だった。近いうちにハバロフスクの国連軍とミハイルとの激突があるということで、地元の交通管制官から通信が入り、高速道路を出て一般道を通るよう指示されたのだ。
タイマからは幾度となく電話が来ていた。バイクを止めてPDAを取る時間が惜しかったので、それに出ることはしなかったが、電話とともに送られてきた位置情報によって二人の居場所だけはわかった。走っている道は違うにしても、そこまで遠く離れているわけではなかった。
そのまま何時間走っただろうか。心身ともに疲労困憊していたところに、後方上空から騒々しい風切り音が聞こえてきた。振り返ってみると、地平線の近くからヘリコプターが飛んできていた。本物のヘリコプターを見るのは中学時代以来、実に八十六年ぶりだったので、デイタは走りながら何度か振り返ってそれを眺めた。
ヘリコプターはバイクより遥かに速かった。最初はどこへ行くのだろう、などと思いながら見ていたのだが、それはみるみるうちにこちらへ近づいてきた。ヘリコプターの前方に機銃がついている、と気付いたときは、もはや手遅れに近かった。自分が狙いだ、という確信がデイタの胸に浮かんだ。アクセルを限界まで踏み込むが、それ以上のスピードは出ない。
「そこのバイク、止まれ」
拡声器によって、厳格な男の声がデイタの耳に届く。随分とアナログな方法だと思ったが、取ってもらえないかもしれないPDAの電話を使うよりはましかもしれなかった。デイタは一瞬迷ったが、無視しているといきなり機銃で撃たれないとも限らないので、徐々にブレーキをかけた。バイクを停めると、ヘリコプターは器用にそのすぐ近くに着陸した。
側面の扉を開けて出てきたのは、四十代に見えるロシア人兵士だった。デイタをじろじろと見ると、ヘリコプターの後部座席を覗き込んで誰かと何かを話し始めた。まさか中からミハイルが出てくるのでは、とデイタは緊張したが、実際にその兵士に続いて出てきたのは思いもよらない人物だった。
「よう、無事だったか」
「シャークさんこそ、無事……だったんですか」
デイタが信じられないものを見たというような口調で言うと、シャークは苦笑した。
「俺があの程度の危機を乗り越えられないと思ったか? ミハイルくらい、俺にかかればちょちょいのちょいよ」
シャークは自慢げにそう言った。デイタはそれを本気にしなかった。シャークの扱い方は、トレーラーで生活していた頃にだいたい心得ている。
「それで、本当はどうやって助かったんです」
「ミハイルと格闘を続けていたら、うまい具合に国連軍が助けにかけつけてくれたんだ。ヘリコプターや戦車が続々と集まってきてな。ミハイルがそちらに気を向けた隙に、俺はまんまと逃げおおせることができた」
「それで、ミハイルはどうなったんですか」
「おまえの予想通りだよ。逃げる途中で振り返ったとき、ミハイルは凄まじい集中砲火を受けていた。硝煙と舞い上がった砂埃で前が見えないくらいだったよ。だが、三十秒後には既に攻守が入れ替わっていた。遥か上空を目まぐるしく移動していたヘリコプターまでが次々と爆散していくのを見て、俺は鳥肌が立ったね。
戦いは三分で終わった。戦車は全滅、ヘリコプターは三台だけ何とか離脱して、そのうち一台が逃げる途中の俺を拾ってくれた。それだけでは飽き足らず、この親切な兄ちゃんは、おまえのところまで俺を乗せてきてくれたんだ」
撃ち落とされる危険を承知で、逃げ出す前にわざわざ地面に下りてシャークを救うとは、勲章を授与しても称えきれないほどの勇気だと思った。デイタからも礼を言うと、そのロシア人兵士は無愛想に頷いてみせた。
「シャークは日本大統領リューの親友なのだろう。こいつを救えたのだから、この戦いは我々が勝ったのと同じだ。もともとそのために国連軍は出動したのだからな。犠牲者たちも報われたことだろう」
本当にそれでいいのか、とデイタは思った。だが、心からそう思っているらしい彼の顔を見ていると、何も言えやしなかった。仲間を助けてもらっている分際で、命の価値がどうこうといったような綺麗事をぬかすのは、とんでもない背信行為であると感じた。
結局、デイタが十分に感謝の気持ちを伝えられないまま、その兵士は「ハバロフスクに帰って報告をしなければならない」と言ってヘリコプターで去ってしまった。二人だけになると、シャークはにやにやしながら、自分のPDAをデイタに見せてきた。左手の甲に固定されたPDAの画面は真っ黒になっている。このような状態は初めて見た。デイタが目を丸くしてシャークの顔を見る。
「まさか……PDAの電源を切ったんですか」
「そのまさかだ」
「ど、どうやって? PDAは決して電源を切れないようになっているはずでは?」
「意外と簡単だったぜ。おまえのPDAも、俺が電源を切ってやるよ」
「待ってください。何故電源を切る必要があるんです?」
デイタは自分のPDAをかばって、右手で左手を包みこんだ。すると、シャークは大きな手でそれを掴んで引きはがそうとしてくる。
「待て、デイタ。これは必要なことなんだ。早くしないとミハイルが来てしまう。これは一刻を争うんだぞ」
デイタはそれを聞いていったんは抵抗をやめた。後方を確認する。ミハイルが追ってきている様子はない。
「どういうことか、詳しく説明してください」
「……これまで、ミハイルは俺たちだけを標的に、どこまでも追ってきただろう。あれはPDAのせいだったんだ。奴はPDAのGPS機能を使って、俺たちを追尾していたんだ。つまり、奴から本当の意味で逃れるには、そのGPS機能を無効にするしかない。そうすれば、ミハイルにはもうどうしようもなくなる」
「それは、確かなんですか?」
「ああ。とうのミハイルが、格闘中にそんなことを言っていたからな。『PDAは僕の思いのままだ。それを付けている限り、どこまで逃げたところで同じことなのさ』とな。だから俺は、ヘリの中で必死に試行錯誤を繰り返し、とうとうPDAの電源を切ることに成功した。さあ、だからおまえも早くPDAを差し出せ。俺が電源を切った。おまえの後は……」
「ちょ、ちょっと待ってください」デイタはシャークの剣幕にのまれかけていたが、そこで何とか彼の言葉を遮ることに成功した。「今僕までが電源を切ったら、タイマたちの位置もわからなくなってしまいますよ。彼の位置情報が、定期的に僕のPDAに送られてきているんですから」
それを聞き、シャークはむっとした顔で考え込んだが、しばらくして不快なことを我慢するという口調で頷いた。
「わかった。しかし、タイマたちと合流したら、必ず電源を切るな? そして、タイマたちにも電源を切るように説得してくれるな?」
「……はい」
頷かざるをえなかった。そのときのシャークが、デイタには何だか恐ろしかったのだ。毒々しい緑の髪の下で、血走った目がぎらぎら輝いていた。
「いいか、デイタ。俺には考えていることがある」シャークはシャツに縫い付けられていた髑髏のボタンをがしっと握りしめながら言った。「探知さえされなければ、ミハイルを尾行することだってできる。奴の行く先を調べて、正体を見破ってやるんだ」
いくらなんでもそれは無茶です、と言おうとしたが、声が出ない。シャークが発し始めていた異様な殺気に当てられたのかもしれない。
ボタンを力任せに引きちぎって、地面に捨てる。それを踏みつけながら、そのときシャークは静かに呟いたのだった。
「必ず破滅させてやる。必ずだ」
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