第三章-28



 さて、ほぼ同時刻、モスクワの遥か東方、クラスノヤルスク核施設跡にて。


 この施設は八十年ほど前に建てられたもので、表向きは原子力発電所ということになっていたのだが、実際は核ミサイルの製造工場であり、発射場でもあった。当時は国境侵犯を繰り返す中国との間で緊張状態が続いていたため、ここで極秘に核兵器を製造し、万一のときに備えていたらしい。結局、核テロを狙う集団を追って国連のサイバー犯罪対策課がここに踏み込んだことで、施設の全容は世界の知るところとなったのだが。


 施設地上階の最奥部にある、放射性物質保管庫。六十七年前より昔は、この場所は核兵器の製造過程で出た副産物の詰まった箱で埋め尽くされていた。しかし、全ての放射性物質が宇宙へ廃棄処分されてしまった今、この場所はコンクリートに四方を囲まれただだっぴろい空間でしかない。


 デイタは現在、その入り口付近の、埃の積もった床に寝そべっていた。身体を覆うAスーツは、目立たないようにあらかじめ床と同じ色に変えてある。右手はスナイパーライフルの引き金にかけられ、左手はその銃身にしっかりと添えられている。


 ライフルの照準は、こちらに背を向けたまま、数十メートル先で立ち尽くしているミハイルの背中に合わせられている。


 覗き込んだスコープを通して見えるミハイルは、紺色のロシア帽を頭にかぶり、それと同じ色をしたコートを着、茶色のスラックスを穿いていた。ミニバンで目にした恐ろしげな姿と比べると違和感を覚える、若者らしいカジュアルな格好だ。近くに武器を置いている様子もない。寝癖であろうか、乱れた髪を左手でほぐすなどしている。あれほどデイタたちを苦しめた《堕天使》ミハイルは、今や全くの無防備だった。


 確実に一発で仕留められるよう、銃口の向きを慎重に調整する。


 流石のミハイルも、心臓を撃ち抜かれては生きてはいられないだろう。いける、という確信が、デイタの胸の中ではち切れんばかりに膨れ上がっているのを感じる。


 ミハイルの一件は、PDAコーポレーションによって起きている問題とは何の関係もない。しかし、ここでミハイルを始末することは、人間社会にとって大きな前進になるだろうと思われた。仲間たちの意向とは異なることをやっているという自覚はあるが、デイタとて信念に基づいた行動をしているのだから酌量の余地はあるはずだ。


 ところが、いざあとは引き金を引くだけ、という状態になって、急にデイタの心の中で逡巡が生まれ始めた。


 ミハイルがあまりに普通の少年らしく見えるせいで、情が移ってしまったのだろうか。それとも、武器を持たない相手を一方的に狙撃するのは卑怯だという想いがあるからだろうか。


 そうではない、とデイタは否定する。リューによれば、ミハイルは被害者にもPネットという受け皿があったとはいえ、千二百万人もの人々を「殺害」した、史上最悪の大量殺人犯だ。状況がどうあれ、流石にそのような人間に対してそんな想いを抱く余裕が持てるはずもない。


 やはり、本物の人間を撃つという覚悟ができていないのだ。これまでシューティング・ゲームの世界で何千万人もの人間を撃ち倒してきたデイタだが、それでも「現実」という言葉はあまりに重い。


 この引き金を引いたとしても、ミハイルはPネットに行くだけのことだ、本当の意味で死ぬわけではない。流石のミハイルも、Pネットで悪事を働くことはできないだろう。いくらそんな理屈を並べても、引き金にかかった指を動かすことができない。こんなときタイマならば、きっと造作もなく引き金を引けるだろうに――


 突然、これまで微動だにしていなかったミハイルが動いた。こちらに気付いたのではないかと動揺してデイタは身じろぎしたが、そうではないようだった。ミハイルは黒い携帯無線機を、コートのポケットから取り出しただけだった。電源を入れるような動作をしてから、すぐに耳に押し当てる。


 興味を引かれたデイタは、照準をいったん固定しておいた上で、自らの家電に関する知識を呼び起こした。あの無線機は、確か二十世紀製のものではなかったか。レトロどころか、国の文化財に指定されそうなほど古い型だ。ミハイルの小さな手には握りづらそうな大きなボディから、長いアンテナが突き出している。連絡がしたければPDAを使えばよいのに、何を好きこのんでこんな不格好で不便なものを携帯しているのだろう。


 そこまで考えたところで、ミハイルが無線機に対して何か話し始めたので、デイタはその内容に全神経を傾けた。


「こちらはこちらで、ここまでは万事上手くいっている。とはいえここからは、本来帰投分として用意されていた僕の次元移動能力も使わずには済ませられないだろう。この能力の行使については、こちらの判断に任せてもらうよ。標的をこの世界から完全に駆逐する手段は、もうそれしか残されていないだろうからね。


 ん? いや、聞かれて困るような話ではないさ。どうせPDAの電源は切れているんだ。このまますぐに作戦Bにかかる。それが済んだら、作戦Wはそちらで執り行ってもらえるね。それまでは近くで目立った行動は慎んでくれ。特に、現段階ではまだOS1’が近辺をうろついているので」


 ライフル銃を支えている手にじわりと汗がにじみ、あやうく滑り落としかけた。やっとのことで震えを抑えながら、ミハイルの言葉を反芻する。


 PDAの電源が切れている? OS1がうろついている?


 冗談じゃないぞ。そいつはつまり――


「まあ、今日はこれくらいにしておこうか。冷たい床の上であまり待たせると酷だし」


 ミハイルが無線機をポケットにしまって振り返ろうとしたその瞬間、デイタの頭の中で何かがスパークした。


 そこには人間を撃つ覚悟があるとかないとか、そんな区別など存在しなかった。そこにはただ生存本能だけがあった。


 引き金を引く。


 銃声より一瞬遅れて、部屋の奥の壁で、むき出しのコンクリートが鈍い音を立てて砕け散った。急いでその方向を見やる。ミハイルが大の字になって、俯せに倒れていた。


 銃弾で吹き飛ばしたのではないか、と思いかけた。しかし、そうだとしたら確実にDゲートが発動しているはずではないか。


 避けられたのだ、と悟った瞬間、デイタは戦慄した。


 立ち上がって、ズボンについた埃を払いながら、ミハイルがゆっくりと振り返る。


 その血のように赤い目が、こちらに向く。


「君は、《ラプラスの悪魔》を知っているか?」


 ああ、ミハイルが自分に話しかけたのだと気付いた瞬間、デイタの身体は凍り付いたように固まった。


 冷静になれ。


 冷静になれ。


 冷静になれ。


 頭の中で、必死で自分に語りかける。ミハイルはといえば、今もなお銃口を向けられているにもかかわらず、自らの絶対的優位を確信しているかのような態度だった。


「周りの全ての物質の位置と運動量を知り、それらの全てを解析することができる存在のことだよ。その悪魔にちなんで名付けられたのが、このコンタクトレンズ」


 ミハイルはルビーのような色をした自分の目を指さしてみせた。眼鏡をかけてもなおタイマやアルカの裸眼視力に及ばないデイタに、角膜の上に張り付いた極薄レンズの有無などわかるはずもなかったが、ミハイルは当然そんなことは気にしていない。


「このコンタクトレンズには強力なコンピュータが内蔵されていて、あらゆる種類の物理学的波動によって周りの物質との相対的距離とその活動状態をたえず計測している。そして、もし弾丸が飛んでくるようなことがあった場合には、その弾道を瞬時に計算して、どう身体を動かせば確実に避けることができるか指示してくれる」


 デイタさえ、そんなものが存在しているだなんて少しも聞いたことがなかったが、妙に納得できる部分もあった。ミハイルが常時それを利用していたからこそ、これまで誰もミハイルを倒せなかったのだろう。ということは、デイタが自分ならやれる、などと思い込んで先走ったのはなんとも愚かな行為だったということになる。


 そして、ミハイルの言葉が正しいとすると、導かれる結論はもうひとつある。


 デイタは身震いすると、仲間たちのところへ戻って警告するため、金縛りに遭ったように硬直した筋肉に鞭打って、寝転がった体勢から身体を起こそうとした。


 ところが、その動作はいきなり妨害された。ミハイルが突如高く跳躍し、接地していたデイタの腕を、着地時に軍靴で踏みにじったのだ。ミハイルは思わず驚愕の叫びを上げていた。


 ミハイルの足はデイタの腕と変わらないくらい細いのに、地面に縫い付けられているかのように、腕を動かせない。とはいえ、Aスーツに包まれた部分が踏まれたのは幸いだった。痛覚受容器が露出している手のひらが踏まれていたら、あまりの痛みで動けなくなっていただろう。


 ここで大暴れしても、何にもならない。


 そうだ、冷静になれ。少なくとも相手は武器は持っていない。


 デイタは抵抗をやめ、屈辱的な姿勢のまま、ミハイルを上目遣いに見上げた。


「馬鹿のリミッターが豪快に外れてるんだね」呆れ果てた口調。「コンタクトレンズのことを知らなかったとしても、つい先日にハバロフスクの国連軍を一方的に全滅に追い込んだ人間に喧嘩を売ろうとなんて、普通は考えないと思うのだけれど。眼鏡をかけてるからって別に頭が良いとは限らないというわけか」


 ミハイルの視線に、敵意は感じない。あまりに実力が違いすぎるせいで、デイタを動くおもちゃ程度にしか思っていないのかもしれない。だがこの様子では、ひょっとするといきなり殺されるというのだけは回避できるかもしれない。


 ちらりちらりと、首を動かして後方を伺う。


「あ、言っておくけど、助けはこないよ」ミハイルが言った。「タイマ、アルカとシャークは、今も施設入口付近で君が《偵察》から帰ってくるのを律儀に待っている。十分前から少しも動いちゃいない」


 やはり、そうか。


 電源を切ろうが切るまいが、ミハイルには最初から全てがわかっていたのだ。《ラプラスの悪魔》などという名前のついたコンタクトレンズを持つミハイルには。


 デイタがうすうす予想していた通りだった。デイタはミハイルを睨み付け、自分の中で弾き出した推論を叩き付けた。


「シャークさんと結託して、僕たちをここに連れてきたんだな、ミハイル」

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