第三章-27
緊張が緩んだ瞬間にこんな大事件が起こったのだからたまらない。先程のボディーガードはマシンガンを拾い上げて手早くリロードを行うと、手榴弾が飛んできた方向に向けて再び乱射を始めた。その他の人々は、我先にとリューの立っている方向へと走り始めた。
「ナギサさんっ」
リューは人の波にもまれながら、部屋の中央に立ち尽くしているナギサの元へたどり着き、後ろからその腕を取った。ナギサは一瞬、それを振り払おうとするそぶりを見せたが、すぐに考え直したか、振り返るとリューの目を見て頷いた。ナギサの目は虐待された子供のそれのように虚ろだった。
人の波が去ってから、ロビーに残っていたのはリューとナギサ、いまだに地面に突っ伏しているどこかの女大統領とそのボディーガード、そしてサングラスの男たちだけだった。
「このサングラスの彼らは貴女のボディーガードですか?」
奥から手榴弾が飛んできた扉を警戒しながら、リューはナギサに尋ねた。
「いいえ、それとは少し違います。彼らは《チルドレン》。私の子供たちです」
予想もしなかった言葉に、リューは思わず口をあんぐり開けた。
「そ……そうなんですか? 結婚されてらしたんでしたっけ? 差し支えなければ、誰との子供なのか聞いても……?」
あまりに気が動転していたので、気が付けばやたら失礼なことを口走っていた。サングラスの男たちが舌打ちしてリューの方を睨む。だが、とうのナギサはリューの言葉に、怒るどころか微笑して首を振った。
「嫌だわ、リューくん、そんな質問をしては。私は非婚の身だってご存じでしょう。本当の意味での子供というわけではありません。彼らは、私の援助で貧困と飢餓から救われた方々。今もなお、私のために尽くしてくださるのですよ」
「そ、そうですよね」
リューは慌てたのをごまかすように、頭を掻いて微笑み返してみせた。
そのとき、女大統領のボディーガードがこちらに罵声を浴びせてきた。
「おい、おまえら雑談してる場合か。いい加減に逃げやがれ」
「あなたは大丈夫なのか」
「俺はこのクソ馬鹿の面倒を見なきゃならん」彼はマシンガンを奥の扉の向こうに向けたまま、いまだに茫然自失している女の脇腹を軽く蹴りつけた。「こういうときのためだけに、俺みてえなクズが税金で雇われてるんだからな」
「そうか。それならせいぜい、頑張るといいさ」
一緒に逃げるぞ、とは言えない。この場では自分とナギサの命の方が、自らをクズと称したこの男より、主観的にも客観的にも遥かに重要だからだ。
そういう結論を頭の中で出した以上、中身のない優しい言葉など、とてもではないがかけられやしなかった。だが、リューの素っ気ない言葉にも、彼は振り向いてにっと笑い「互いにな」と返してくれた。
「それと、そこのグラサン」
「何だ?」
「クソ馬鹿を止めてやれなくて、悪かったな」
「ああ」
主人を守る者同士の、飾り気のない短い会話だった。そしてその数秒後には既に、マシンガンの轟音と手榴弾の爆発音が混じり合って、部屋の中の空気を揺るがしていた。そのときにはリューはナギサの手を引いてロビーを出て、廊下に入っている。どこからか火が出ているらしく、消火栓の音が激しく鳴り響いていた。遠くで何度か銃声が聞こえる。騒ぎはまだ収まっていないらしい。なるべく銃声から離れる方向を目指して走り出す。
「ナギサさんには、何か逃げるあてはありますか?」
階段を駆け下りながら、リューはナギサに聞いてみた。
「そうですね。私の個人用ジェット機は、一応、宮殿の敷地内に駐めてあります。たどり着けさえすれば、私一人でも動かせるのですが……」
言ってみたのはいいものの、ナギサは全く自信がない様子で、すぐに自分で否定してしまう。
「いえ、やはり、駄目ですよね」
「ええ、残念ながら。あの刺客たちが、無造作に駐めてあるジェット機を放っておくわけありませんよ。ガチガチに占拠されているか、あるいは既に火でも放たれているか……」
二人同時に、ため息をつく。
「同じ理由で、私のトレーラーにも近づかないほうがよさそうですね。今は、どうにかして徒歩で宮殿の外へ出るしかありませんよ」
「ちょ、ちょっと待ってください。鍵をしめて部屋に閉じこもったり、どこか施設の隅にでも隠れたりして、騒ぎが収まるまでやり過ごしてはどうでしょう」
ナギサの言葉はもっともに聞こえたが、リューは首を振った。そして、仕方なく嫌なことを告げるといった口調で、ナギサに言った。
「国連警察のサイバー犯罪対策本部に昔務めていた経験から、言わせてもらいますが。こういう大規模な事件の犯人はたいてい、PDA同士の通信機能を悪用し、GPSで標的の居場所を確認できるようにしているものなのですよ。そうだとしたら、手際のいいのも当然だ。どうです、ふざけた話でしょう」
リューはそう言うと、左手の甲についたPDAを右の拳で殴りつけ、そこに見えない監視カメラでもあるかのように天井を睨み付けた。ナギサはその様子を見て青ざめた。
「そ、そんな。でしたら、今私たちがここにいることも、敵方にはばれている、と……?」
「その可能性が高いでしょうね。そうだとすると、今誰も襲ってきていないのは、連中にとりあえず後回しにされているだけだということですよ」
「私たちは、鳥かごのなかの鳥だったのですね」ナギサは気落ちした様子で、手の甲のPDAを眺めた。「どうにかして、探知されないようにできないのですか」
「そんな方法は、まだ見つかっていません。PDAのGPS機能を管理しているのは、PDAコーポレーションです。我々の技術で、どうこうできるわけがありませんよ」
GPS機能を停止させられないというのなら、こちらもそれを利用してやるだけだ。リューはマップを呼び出して逃げ道を探ろうと思い、その場でPDAを広げた。
同時に、雷に打たれたような衝撃を受けた。
数分前に、何らかのデータが添付されたメールが届いていたのだ。
発信者の欄には、「デイタ」の文字。
リューはそれを見た瞬間、自分がとりかえしのつかないミスをしたのではないかという不安に襲われた。
宙に向かって悪態をつく。リューは自分の愚かさを呪った。
きっと最初から、デイタとは通信ができる状態だったのだ。にもかかわらず、リューはタイマやシャークとの連絡が取れないといって、何日間も悶々とし続けていたわけだ。アルカを厄介払いしようとして「どこかの観光地に下ろしてやる」と言ったとき、タイマが彼女を引き留めたことを思い出す。あのときのタイマの顔が、リューのまぶたの裏にまざまざと浮かび上がった。タイマの目を覗き込むと、その冷ややかな瞳に、アルカやデイタを役立たずと蔑む自分の醜い姿が映っていた。
リューは急に、その場に土下座したい衝動に駆られた。
すまなかった、タイマ。すまなかった、アルカ。すまなかった、デイタ。間違いに気付くのが、あまりにも遅すぎた。今からでも間に合うだろうか。
「どうしたんですか」と聞いてくるナギサを無視し、急いでこちらから電話をかけ直す。しかし、何度コールしてもデイタが出ることはなかった。焦ってはだめだと自分に言い聞かせると、いったんコールをやめて、その着信の詳細を確認する。
発信場所は、西シベリア低地の南東端、クラスノヤルスクの郊外だった。
その場所を、リューはよく覚えていた。
六十七年前、核テロの脅威から世界を救おうとタイマが乗り込んでいった、リューにとっては因縁の核施設だった。
「前言撤回だ、ナギサさん」
リューは着信履歴の表示をじっと見ながら、静かにそう言った。ナギサはきょとんとしていたが、リューは気にしなかった。
「やはり、逃げるのにはジェット機を使うこととしましょう」
いきなり勝手なことを言い出したかと思うと、リューはこれまで下りてきた階段を逆に駆け上り始めた。身体が、やたらと軽かった。ナギサなどその片に放り出してでも急ぎたくなるような、そんな気持ちだった。
「ちょ、ちょっと待ってください。さっき話したことと噛み合わないではありませんか。いきなり何で……」
慌てて追いかけてきたナギサが、困惑した調子で聞いてくる。
その問いに、リューは興奮を隠そうともせず、澄まし顔で答えた。
「いやなに。ちょっと急に、行くべきところができたものですから」
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