第三章-26



 その言葉が終わる前に。


 リューは右手を伸ばし、その口を塞いでいた。ナギサはとっさのことに眼を見開く。リューはすぐに手を離すと、静かに、と口の動きで伝えた。


「……何だ、そんなことでしたか。それくらい、気にすることはありませんよ」


 のんびりとした口調でそう言いながら、リューはPDAのメモ帳アプリを起動し、その上に指で文字を殴り書きした。


(外を歩いていた誰かの足音が、ちょうどこの部屋の前で止まりました。盗み聞きの恐れがあります。気をつけてください)


 ナギサはそれを見て、冷静に頷いた。リューは慎重に身体を起こし、足音を立てないようにゆっくりと部屋の扉へ向かった。ある程度近づいてから、扉に飛びつく。大きな音を立てて開いた扉の向こうには、髭を美麗に整えた青年が中腰で立っていた。


「内密な話をするから、この時間帯は来ないよう伝えたはずだが」


 文句を言いながら、違和感に気付く。


 何かが、おかしい。


 青年は突然のリューの行動に驚くこともなく、ニコニコ笑いながら、後ろに手を組んだまま立っている。


 その刹那、凄まじい殺気が放たれ――青年の後ろから現れた短剣が一閃された。リューが飛びすさった一瞬後に、その場をぎらりと光る刃が通り過ぎる。


 青年の笑みが消えた。およそその柔和な外見に似つかわしくない獰猛な叫びを上げると、リューの喉元めがけて短剣が突き出される。


 武器はないか武器はないか武器はないか――。リューは周りを見回しながら、青年の短剣を避けつつ辺りを見回す。暖炉の上に乗った蝋燭と皿をとっさに手に取り、思い切り投げつける。青年が左腕で顔をかばっている隙に、リューの体重をかけた跳び蹴りが炸裂した。青年はたまらず床に倒れる。


「急いで! ナギサさん、外へ!」


「はい!」


 ナギサは走って外へ向かった。リューは青年の短剣を握った手を踏みつけると、馬乗りになって顔を何度も殴りつけた。三発目で青年のDゲートが自動起動し、薄いピンクのパネルはCTスキャナーのように青年の身体を飲み込んでいった。後には途中で手から離れた短剣のみが残された。リューは呼吸を落ち着けると、それを慎重に拾い上げた。立ち上がってナギサの後を追う。


 外では既に騒ぎが起こっていた。廊下を出てロビーに向かうと、そこでは何カ国もの首脳たちが肩を寄せ合っていた。誰もが恐怖に怯えて縮こまっている様子だ。その中で、ナギサだけは冷静に行動できているようだった。周りの男たちに、何があったのか情報を求めているらしい。


「ナギサさん」リューは安心してナギサに駆け寄った。「大丈夫でしたか」


 ナギサより先に、彼女の周りに群がっていた男たちが振り返ってリューを見た。黒いサングラスで顔を隠した彼らに見覚えはなかった。誰だこいつらは、と怪訝な顔をしたところで、ナギサが振り向いた。


「貴方こそ、無事だったのですね」


「ええ、なんとか」


 リューは青年から取り上げた短剣を持ち上げて、顔の横で軽く振ってみせた。ナギサがその様子を見て息をつく。


「それはよかった」


「ところで、この騒ぎは?」


「どうやら、あのような刺客が同時に多くの部屋を襲撃したようです。聞くところによれば、ロシア大統領ステパンもその刃にかかったとか」


「ステパンが? まさか! 本当なのですか」


 リューが目を丸くして訊き返した瞬間、奥の方から連続的な銃声が轟いた。そこに立っていた大柄な男が、どこからかマシンガンを取り出して撃ち始めたのだ。


「ちょ、ちょっと待ってください。何故私が……落ち着いて!」


 叫んだのは宿泊施設のマネージャーのようだった。ロビーの奥の部屋から出てきた彼は、紛れもなくさっきリューがPネット送りにした青年と同じ服を着ていた。つまり、この施設のスタッフの制服である。


「ちょっと。私はこの騒ぎには関係ない。撃たないで――」


 ピンク色をしたDゲートの出現と同時に、絶叫が突然止んだ。つい数秒前にはそこに確かに存在したはずのマネージャーの姿は、もはやどこにもなくなっていた。満足げにマシンガンを撃つのをやめた大柄の男は、脅すようにそれを肩の上に持ち上げて構えると、表情を変えないまま、ロビーの至る所に目を光らせた。


 やがて男はリューを見て目を止め、吟味するようにじろじろと見てきた。リューは黙って彼を射すくめるように睨み返した。そのとき、男の隣に立っていた女がリューを指さし、金切り声で叫んだ。


「あいつが持っているナイフを見て! 彼も刺客の一人よ! 撃ちなさい!」


 あの女、見覚えがあるが、どこの国の大統領だっただろうか、などと考えていたときには、既にこちらにマシンガンの銃口が向いている。だが、引き金が引かれた瞬間、男は慌てて銃口を別の方向に反らした。たまたまそちらの方向の壁にかかっていた不運な風景画が、無惨にも銃弾に引きちぎられて床に落ちた。


「どこを狙ってるのよ! 貸してみなさい」


「お待ちください。今思い出したのですが、あれは確か日本の……」


「ふざけないで。たかがボディーガードの分際で口答えする気?」


 男はその巨体に似合わず肝が小さいらしく、マシンガンは言われるままに女の手に渡ってしまった。どこかの国の女大統領が、ふらつきながら鬼のような形相でマシンガンを構えているというのは、いささかシュールレアリスティックな光景ではあるのだが、笑っている場合ではない。数ミリ秒遅れて、マシンガンから鉛の弾が発射される。リューはそれを避けようと、横っ飛びの姿勢に入った。足に力を込めたとき、ナギサが両手を広げてリューの目の前に立ちはだかるのが見えた。


 何故?


 リューの足が、聖女のようにリューをかばうナギサの背を見ながら、鉄のように固まった。手を伸ばそうとするが届かない。ナギサの腕を取ろうと、凶弾から救おうと、むなしく手のひらが宙を掻くだけ。その間もずっと、鈍い銃声が頭の中でこだましている。そして次の瞬間。


「ナギサ様ッ」


 ナギサと先程まで話していたサングラスの男の一人が、ナギサの前に身体を投げ出した。マシンガンの弾はその身体に吸い込まれていき、それが身体を切り裂く刹那、Dゲートが現れて男を飲み込み、ついでに発射された弾の全てを吸い込んでいった。


 Dゲートが消え、全てが終わると、スローモーションのように見えていた世界が元に戻った。女大統領は金縛りにあったように固まったまま、こちらをじっと睨んでいる。その顔が青ざめているのは、勿論マシンガンの威力と反動が想像以上だったからというだけではないだろう。


 ナギサが、一歩足を踏み出した。リューの方からは、その顔色は伺えない。


 もう一歩。そして、もう一歩。


 女の顔には、玉の脂汗が浮かんでいる。引き金から一端手を離して、震える手でもう一度それを引いた。しかし、カチリという音がするだけで何も起こらない。


 ナギサがさらに一歩踏み出して、マシンガンの銃口を自分の腹に押し当てた。


「撃ってみなさい」


 リューでさえ背中がぞくりとするほど冷酷な声で、ナギサは言った。それだけのことで、女は見る影もないくらいに震えだした。


「どうしたんです? 早く私を撃ってください。この世界にも、いい加減、うんざりしているのですから」


「う、う、う、撃てないのよお」女は絞め殺される鶏のような声でそう言った。「リ、リ、リロード? リロードって奴を、し、しなくちゃならないんでしょう」


 女は僅かな救いを求めて、腕を組んで隣に立っているボディーガードの方を見た。


「し、しなさいよ」


 マシンガンをボディーガードに渡そうとする。しかし、彼は腕を組んだまま、ゆっくりと首を振った。女はとうとうマシンガンを放り捨て、顔を覆ってその場に崩れ落ちた。それによってその場を満たしていた緊張は氷解し、パニックに陥りかけていた首脳たちはいくらか落ち着いた。


 しかし、それで全てが終わったわけではなかった。


 半開きになっていた扉の向こうからいきなり何かが投げ込まれたのだ。「それ」は地面に落ちた瞬間、耳をつんざくような破裂音とともに爆散し、その付近にいた五、六人はいっぺんにDゲートに飲み込まれてその場から消滅した。

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