第三章-25
ソビエト宮殿というのは、モスクワの新市街中心にそびえ立つ国連本部ビルの正式名称である。勿論厳密には宮殿ではなく、その名の由来は、二十世紀にヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・スターリンが建てようとして断念した同名の宮殿にあるらしい。四十年前に、国連本部が東京からモスクワに遷った際、その記念としてステパンがオイルマネーで作らせたというのだが、故郷の壊滅がきっかけで作られた建物であるという理由で、リューにとっては少し居心地が悪い場所だった。
そのソビエト宮殿の南西端に、ナギサの部屋は用意されていた。白塗りの石壁に、ロマノフ王朝時代を思わせる美麗な調度品の数々。精緻なモザイク模様が刻まれ、金箔貼りのシャンデリアの吊り下がった天井。だだっ広い室内の中心には、豪奢な天蓋付きのベッドがどっしりと構えている。国家の首脳でもなしにこれほどの待遇が受けられるのは、世界広しといえどもナギサくらいのものだろう。
ナギサの会社、フェニックス・コーポレーションはPDAコーポレーションに次ぎ、日本で第二の大企業だ。この会社は昔Pネット向けにフライトシミュレーターのアプリをリリースして社会現象を巻き起こし、さらにそれによって得た資本により土地購入と建築会社への投資を繰り返すことで、現在一本しかない軌道エレベータを独占所有するに至り、そこから何十年にも亘って収益を吸い上げ続けるという経緯を辿って今の地位を得ている。確かに最初から富豪の家に生まれたという幸運はあるが、それでもその家業を世界的大企業にまでのし上げた功績はひとえに、何十年もトップに立ち続け、天才的な戦略眼を駆使して大立ち回りを繰り広げてきたナギサにある。
そのナギサは今、純白のバスローブ姿でソファに深く腰掛け、黒檀のテーブルを挟んでリューと向かい合っていた。
テーブルには白薔薇を象った紅茶のカップが二つ置かれている。リューはそれに全く手を付けようとしなかった。反対に、ナギサは頻繁にそれを手に取り、なめらかな手つきでゆっくりと口に運ぶのだった。その動作には一点の曇りもなく、まさに彼女の生まれもっての崇高さを思わせた。世界最高級の装飾品を取りそろえたこの部屋でさえ色あせるほどだった。
ナギサの容姿は、リューがほんの十歳だった頃からほとんど変わっていない。Dゲートが一方通行になって四十一年、この現実世界の年月にその身をさらしてきたにもかかわらず、その雪のような肌は齢二十五の輝きを失わなかったのだ。射干玉のような髪は腰までゆったりと垂れていて、バスローブと上品なコントラストを醸し出している。朴念仁を自覚しているリューですらほれぼれしてしまいそうなほどの美しさだ。
だが、容姿の美しさだけをみるならば、世界は広いのだからナギサに匹敵する女も探せばいるだろう。真にナギサの存在を特別なものとしているのは、その瞳だった。百年の時を経てナギサの瞳にはいつしか憂いが宿り、それが完全に消えることは決してなかったのだ。これまで、その瞳を覗き込んだ何人もの貴人たちが一目で恋に落ち、その悲しみを癒やそうと苦心惨憺してきたのだが、リューの知るところではナギサは一度も結婚していない。非業の死を遂げた初恋の相手の喪に、今もなお服しているのだというもっぱらの噂だった。
リューはその魔性の瞳を見つめないよう、紅茶の水面を見つめ続けていた。ステパンでさえ手玉に取るリューも、ナギサには頭が上がらない。子供の頃、タイマたちと一緒にナギサの家によく遊びに行っていた頃の記憶が頭にしみついているのだ。小さな子供に過ぎなかったあのときのリューは、慈愛に満ちていたナギサに恋に近い憧憬を抱いていた。
いや、だが、あれから既に九十年が経っている。リューもナギサも、あのときとはまるっきり違うのだ。リューはそう自分に言い聞かせると、カップを持ち上げ、紅茶を一気に半分ほど飲んだ。紅茶は既に冷え切っていた。音を立ててカップを置く。思い切った一連の行動が、リューに自信を与えた。
「ナギサさん、貴女とてデータ化には反対なのでしょう」
「ええ」
たった一言、ナギサは答える。
その言葉が嘘だとは思えなかった。まあ、当然の反応だ、とリューは思った。Pネットには貧富の差も身分の差も、存在しないも同然なのだから、そこに入ってしまえばもはや大富豪としての優越感にひたることもできなくなるわけだ。別に、上品さを絵に描いたようなナギサがそのような感情を胸の奥に秘めていたとしても、それを蔑むつもりはない。自分がこの世界で苦労に苦労を重ねてやっと手に入ったものを惜しむのは当然であって、リューとて同じ気持ちを多少は持っている。現実世界において「持つ者」がPネットに入ることには、相当な覚悟が必要なのだ。
しかし、その理屈で考えればナギサほどの大富豪が当然持っているべき、データ化を阻止しようという気概が、彼女の儚げな返答からは全く感じ取れない。
「だったら何故、協力するわけにはいかないなどと……?」
目的達成のため、とりあえず国民には現実世界のデータ化に対する反対運動を起こしてもらうことに決めた。この会議の会期中に他国の首脳も説得するつもりではあるが、それが不可能だったとしても、日本でだけでも大規模なデモを起こしてPDAコーポレーションに揺さぶりをかけたい。そのためには莫大な金が必要だ。一度水爆によって放射線にまみれ、あれから四十年経った今でさえ誰もが寄りつこうとしない東京に人を集めて、移動経路の確保、食料の配給や治安維持といった様々な問題を長期に亘って解決していかなくてはならないのだから。そのためには自分の財産を残らず財源にするくらいの覚悟はある。それに加えて、非常事態宣言でも出して国家プロジェクトを立ち上げ、国家予算から費用を捻出するという荒技も、立場上不可能というわけではない。だが、試算によるとそうしたとしてもなお足りない。ナギサの文字通り桁違いの財力を提供してもらえさえすれば、ひょっとするとうまくいくのではないかと思ったのだが。
ナギサはほんの少しだけ眉をひそめて、何かを考えている様子だった。これは説得がうまくいく徴候ではないか、とリューはほくそ笑んだ。しかし、その期待はすぐに裏切られることになった。
「ごめんなさい」
ナギサはため息をついて、小さくかぶりを振った。
「やはり、私にはできません。今度ばかりは、どれだけ説得なさっても考えを曲げる気はございません」
「そ、そんな」リューは思わず立ち上がり、テーブルに身を乗り出していた。「PDAコーポレーションは、言うならば人類の敵ですよ。今は戦うべきときではありませんか。私に、力を貸しては……いただけないのですか」
リューの言葉は、だんだん腰砕けになっていった。ナギサが本気で怯えているように見えたからだ。上目遣いでリューを見ながら、ソファに背中を押しつけてナギサは震えていた。
「……すみません。大変不躾なことを」
リューは決まり悪げに謝ると、ソファに深く座り直した。しばらくの間、気まずい沈黙が流れた。
「こちらこそ、本当に申し訳ございません。ですが、私には本当に、この件については何もできないのです」
何かよほどの事情があるらしい。ナギサの様子を見ていると、金を惜しんでいるというわけでもなさそうだった。
「……わかりました。しかし、もし良ければ、理由をお聞かせください。そうしたら、きっぱりと諦めもつくでしょうから」
そう言ってもなおナギサはためらっていたが、何度か深呼吸をした後、ようやく重い口を開いた。
「お恥ずかしながら……怖いのです」
怖い?
PDAコーポレーションのことが、だろうか?
「これまで……誰にも、お話ししていないことなのですが……」
ナギサの口調は途切れ途切れだったが、この上なく深刻なことを話そうとしているのはわかった。リューもそれに答えるべく、眉をひそめて真剣さを態度で表した。
「実は、私は――」
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