第二章-22



「あ、そうだ。リンゴでも食べる?」


 居心地の悪い沈黙を破って唐突にそう言い出したイサは、レースのひとつに隠されていたらしいポケットからリンゴをひとつ取り出し、そのまま放り投げてきた。タイマは慌てて銃から手を離し、両手で受け止める。リンゴはつやつやしていて、口の中に溢れる果汁の甘さが容易に想像できた。リンゴとイサと交互に見比べる。しばらくそうやっていると、イサはため息をついた。


「大丈夫よ。魔女じゃあるまいし、神経作用性の催眠毒が入ってるなんてことはないから安心して」


 わざとそう振る舞ってるんじゃないかと思うくらい怪しい。タイマは一瞬迷ったが、リンゴをそのまま投げ返した。無用なリスクを背負う必要はない。


「悪いが、さっきボルシチを食べたばっかりで腹が減ってないんだ」


「ふうん、そうなのね」


 イサは薄笑いして、坂の上を見上げた。家の中のアルカを透視されているかのようで、気味が悪かった。やがてイサは湖の方を向くと、軽く手首を振ってリンゴを投げ入れた。ぽちゃんと音がして、それっきりだった。石ころでも投げ込むような、そんな何気ない動作だった。自分の行動によって少しも感情を動かした様子のないイサを見ていると、背筋が凍った。


「やっぱり、毒が入ってたんだな」


「違うわよ。仮にそうなら、怪しまれないようにポケットに入れておいて後で捨てるわよ」イサはいたずらっぽい笑みを浮かべていた。「あ、そうだ。それよりも、アルカちゃんにプレゼントして、ボルシチのスープにでも入れるよう進言すればよかったかも。あの子、人を疑うことを知らなさそうだから。アルカちゃんのそういうところ、好きなんでしょ?」


 アルカのことまでやはり知られている。タイマは思わず再び銃を抜いた。イサはやはりおもしろがるような視線で見つめている。足下に銃口を向けたまま、イサを睨み付ける。


「あはは、怒っちゃった。ごめんなさいね、あなたとアルカちゃん二人きりの大切な時間を覗き見なんてしちゃって。大方仲間のことなんか忘れて、新世紀のアダムとイヴでも気取ってたのね。そうだとしたら、気分壊しちゃって、ほんとに悪いことしたわね」


 イサはそこまで言って吹き出すと、さもおかしそうに笑い出した。その笑い声を聞いていると、なんともいえない不快感で胃の中身が逆流しそうになる。実際にはAスーツが首から下の体内を管理しているのでそのようなことは起こりえないとしてもだ。


「おい」タイマは強気な態度でイサに呼びかけた。「そんなにおかしいことか」


 イサはそれを聞いて、いきなり笑い止み、小声で呟いた。


「決まっているじゃない。こんな歪んだ世界で、愛の真似事なんか……反吐が出そうなくらい、ちゃんちゃらおかしいわよ。バッカじゃないの?」


 目を伏せ、独り言のような口調でタイマを罵倒しながらゆっくりと近づいてくるイサの姿は、とても数秒前まで元気に笑っていたようには見えなかった。


 イサが目の前にまで来てわかったことだが、彼女の身長はタイマとぴったり同じだった。


 それに気付いたのとほぼ同時に、突然、怒りと気恥ずかしさとで火照っていた両頬に、イサの両手が伸びてきた。


 冷たい。


 さっき湖に指を突っ込んだときに感じた水の冷たさなんてものではない。むしろイサのそれは氷の冷たさだった。イサの亡者のような手で包まれて、タイマの頬はあっと言う間に熱を失った。顎がガタガタと震え始める。何もできないタイマにイサは顔を近づけてきた。額どうしが接触し、イサの切れ長の鋭い目が怯えきったタイマの目を覗き込む。瞳が、銀色だった。それはバイカル湖の水面のように澄み切っていたが、見つめているとその深い淵に吸い込まれそうな不思議な魔力を宿していた。抜け出そうとするが、身体がすくんで動かない。


 イサは囁くように言った。


「いつでも私はあなたを見ているのよ、だって私はあなたの影だもの。あなたが行くところには、私もついていく。今日はそのことをあなたに伝えに来たのよ」


 突然、氷のような感触が消えた。イサはタイマに背中を向けると、数歩離れた。タイマは乱れた息を整えて、それから下に構えていた銃の安全装置に指をかけた。それをイサに向けるか、それともしまうか、判断がつかない。


「か、影って何だよ。どういうことなんだ。説明してくれ」


「うふふふ……」


 イサの肩が震え出した。今にも鬼の形相で振り向いてきそうな不気味さを感じて、タイマは数歩後ずさりした。


「ごめんなさい。アルカちゃんがじきに来るわ。その前に私は去らないと。まあ私としては、アルカちゃんが他の女と一緒にいるところを見てどういう反応をするのか、見てみたい気持ちもあるのだけれど」


「そ、それは正直困る。早くどこかへ消えてくれ」


「言われなくても。でも最後にふたつ忠告するわ」


「いいからさっさと行けよ」


「まーずーだーいーいーちーに」焦るタイマを前に、イサはのんびりした口調で始めた。「私のことを、誰にも言わないこと。私の存在がばれると、あなたにとっても私にとっても非常にまずいことになる人がいるの。私を信用しないのは勝手だけど、これだけは何があっても守ってね」


 犯罪者の脅迫のようでどう考えても怪しさ全開なのだが、一々指摘していては話が進まない。タイマは坂の上をちらちら伺いつつ、イサを急かした。


「それで、第二は何だよ」


 タイマが問うたときには、イサは既に歩き出している。


「その手に握っている銃は、飾り物ではないのよ。例えば私をこの瞬間背後から撃つくらいの非情さがなくては、この先やっていけないわよ」


 それを聞いて、タイマは自分の銃を見つめ、それからむしょうに怒りが湧いて、それを地面に叩き付けて叫んだ。


「俺はおまえやミハイルとは違う! こんなもの、使うものか!」


 しかし、その言葉はイサには届かなかった。タイマの影だなどと言った女は、針葉樹林に分け入ったか湖にでも飛び込んだか、たった数秒目を離した隙にその場から消え失せていた。タイマがきょろきょろ見回しても、その姿はもはやどこにも見つけることができなかった。


 そのとき、上の方からアルカの声が聞こえてきた。急いで銃をしまうと、おーいここだ、とタイマはそちらに向かって叫ぶ。アルカは急ぎの様子だったが、坂を下りてくる途中、何度も足を蔓に引っかけて転びかけた。結局、タイマのところまでたどり着くのにはかなりの時間がかかったし、その上アルカは体中草だらけになっていた。


「そんなに慌てて、どうしたんだ」


 できる限り平静を保って、そう訊く。アルカは服を手ではたきながら、不思議そうな顔でタイマを見た。


「ところで、さっき何か騒いでたようだけど、どうかしたの?」


「い、いや。何でもないんだ」タイマはぎくりとしたが、落ち着くために一度咳払いをすると、思いついた中でもっとも信憑性の高いと思われる言い訳をぶった。「湖があまりに綺麗だったからな。男には、湖を前にして大声で叫びたくなるときがあるんだ」


 それを聞いたアルカは何故か冷ややかな目でタイマをじっと見てきたが、その途中でわざわざここまで急いで下りてきた用件を思い出したらしく、タイマの腕を掴んだ。


「そうだ、タイマ。急いで上まで行こう」


 二度目の正直でミハイルが現れたか、と思って身構えたが、そうではなかった。上からミハイルではない別の男の声が聞こえてきた。


「おーい、タイマ。君も無事だったんだな。僕もシャークも無事だ。早く上がってきてくれ」


 それはまぎれもなくデイタの声だった。


 良かった、無事だったのか。


 ここ数日心の一部を占めていた不安と緊張が溶け去って、タイマは大きく息を吐いた。同時に、自分の腕を掴んでいるアルカの後頭部を寂しげに眺める。


 デイタとシャークがいつまでたっても現れず、PDAコーポレーションがいつまでたっても現実世界のデータ化を行わず、イサのような邪魔者も現れず、アルカと一緒にいつまでもここにいられるような気が、少しだけしていたのに。


 非現実的な夢は決して叶わないというのも、現実世界の常、か。


 タイマは頭を振って幸福な幻想を振り払い、自分の手を引くアルカとともに走り出した。せめて今、この一瞬くらいはアルカと二人きりでありたい、と切に願った。

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