第二章-21



 アルカは食事の後片付けのために家の中に入った。手伝う必要はないというので、タイマは手持ち無沙汰になった。PDAでゲームなどする気にもなれず、ログテーブルに肘をついて、黒っぽく変色した木目をぼんやりと眺めていたが、ふと思い立って湖にまで下りてみることにした。斜面に茂った草むらをかきわけて進む。たいした坂ではないが、蔓が足にからまってしばしば転びそうになる。下草を刈って木製の階段でも作ればだいぶましになるだろうに、と思った。もしかすると、もともと階段はあったものの、成長した雑草にすっかり覆い隠されてしまったのかもしれない。


 やっとのことで湖の前にまでたどり着くと、暗い水面には星々や月がくっきりと映し出されていた。どうやら波も立たぬ穏やかな湖であるらしかった。鳥か魚でもいるのか、ときたま見えないところで水がはねる音がする。それを除けば、全くの無音だ。


 しゃがみ込んでPDAで地面を照らし、湖の縁の位置を確認する。手を伸ばして水面に指を突っ込んでみる。Pネットでハッキングの茶番をやったときのように、指先からは波紋が広がって月や星の影を乱した。


 流石に冷たい。指を引き上げて服の裾で軽く拭き、タイマは温かい息を吹きかけた。


「アルカも連れてくればよかった」


 まあ、明日でいいか。今じゃどうせ何も見えないんだし。


 思わず出た独り言を自分で打ち消す。タイマはアルカの待つ家に戻るべく立ち上がり、下りてきた坂を見上げた。


 そのとき、ごく近くで異様な雰囲気を感じて、タイマは全身総毛立った。


 金縛りにあったように、身体を動かせなくなる。


 どこだ。かろうじて動かすことのできる目をきょろきょろさせて辺りの様子を探る。右にも左にも針葉樹林があって、身を隠すには最適だ。


 誰だ。この感じはミハイルによく似ている。まさか、もうここを突き止めたのか。だとしたら、まだのんきに食器洗いでもしているであろうアルカが危ない。一刻も早くこの場を脱して、警告しなければ。


 いやいや、冷静になれ。どんな状況でも理性を働かせて最善の一手を探るデイタのように。


 二度深呼吸をすると、固まっていた全身の筋肉が弛緩した。よし、動かせる。


 用心のためベルトに差しておいたハンドガンを取り出す。トレーラーから持ち出したバックパックのひとつに入っていたものだ。たいして上手くはなかったとはいえ、扱い方は国連のサイバー犯罪対策本部にいたとき教わったので知っている。弾を装填して、安全装置に指をかけた。


「おい、誰かいるのか。いるのなら姿を現せ。PDAで自分の顔を照らしながら、両手を頭の後ろで組んで出てこい。こちらには銃があるぞ」


 これは前述の機関で教わったうろ覚えの文言である。言っていることはこのように強気なのだが、内心ではかなりびくついていた。仮にこれがミハイルなら、こんな要求に簡単に応じてくるわけがない。むしろ声で位置がばれてしまったので、下手すればこちらが一瞬でお陀仏である。


 ところが、ここで想定外のことが起きた。


「あら怖い。どうか撃たないで」


 女の声が聞こえたかと思うと、雑草を踏みつけるカサカサという音がして、少し離れた木の後ろから誰かが出てきたのである。


「おい、PDAで自分を照らすように言ってるだろう」


 ミハイルでないことは声でわかったが、向こうはこちらの要求を無視して光源を用意せずに出てきたので、タイマは狼狽した。こちらのPDAで照らそうとするが、この距離では光が十分届かず、シルエットが女のものであることくらいしか確認できない。


「早く命令に従うんだ。さもなくば撃つぞ」


「ごめんなさい、PDAは家に置き忘れちゃったのよ。だから、気の毒だけどご期待には沿えないわ」


 そんなことがあるものか。PDAは、ある程度離れたらひとりでに浮き上がり、自動で持ち主のもとへ戻るようにできている。原理は誰も知らないが、とにかくそうなっているのだ。


 こいつ、人をおちょくりやがって、と、普段なら怒りが湧いてくるはずだった。それなのに、銃を持つ手が震え出す。


 冗談を、これほどまでに冷え切った口調で言えるこの女が、怖かった。


 いっそ脅しの言葉でも受けた方が、まだましだったかもしれない。


 このまま何もしなければ、心さえ凍りついてしまう気がして、タイマは思わず叫んでいた。


「ふざけるな。自分の立場がわかっているのか」


 そのようなこけおどしに、この女が心動かされるはずもなく。


「うるさいわね、何様のつもりなのよ。そんなに撃ちたいなら撃ってみればいいじゃない」


 タイマはあっけにとられて固まった。何せエアガンならともかく、本物の銃を人に向けるのは生まれて初めてなのだ、こんなイレギュラーな事態にあってどうすればいいかなど簡単に判断できるわけがない。緊張が高じて、とっさに変なことを口走ってしまう。


「何言ってるんだ、本当に撃ってもし当たったらどうする」


 それなら何で自分は銃を構えたりしているのか、という疑問が湧いてしまい、タイマはひとまず銃を下ろした。安全装置がかかったままかどうか念入りに確認してから腰に差す。それを見て女は落胆したような声を漏らした。


「なあんだ、撃たないのか」


 それを聞いて、もしや彼女は自殺希望者ではないかと思いついた。ただDゲートを使うだけでは飽き足らず、首吊りでもしようかと思ってこんな山奥をうろついているのだとすると辻褄が合う。流石にロシアのこんな山奥にまで来る必要はないと思うが。


「おい、君。生きていればきっといいこともあるぞ。わざわざ死に急ぐほどPネットはいいところじゃない。この世界で寿命が来るまで、この仮の浮世を楽しめばいいじゃないか」


「は? 何を言ってるの」


 タイマの真剣な言葉に対する返答は馬鹿にしたような笑いだった。見当違いだったのか。最近こんなのばっかりだな。しかし、こちらの早とちりとはいえ、一々癇に障る女だ、とタイマは思った。本当に威嚇射撃でもしてやればもう少ししおらしくなるだろうか。しかし、今から改めて銃を取り出すというのも馬鹿らしい。タイマはため息をついた。


「いいから。とにかく、どこの誰でどうしてここに隠れていたのか教えろよ」


「教えてくださいって言ったら教えてあげる」


「チッ。教えてください」


「意外と素直ね。私はイサ。帰り際にあなたを捕まえて話をするために隠れていたのだけれど」イサと名乗った女は少し間を置いて、ふっと笑った。「先に見つかってしまうなんて、流石はOS1の持ち主」


 やはり、この女はただものではないようだ、とタイマは判断する。何のことだ、などととぼけても、おそらく無駄だろう。


「そんなことを何故知ってる?」


「私は大抵のことは知ってるのよ、坊や」


 イサはそう言うと、タイマの方に向かって歩いてきた。思わず腰に差した銃のグリップを握るが、イサはPDAの光が届くところまで来ると立ち止まった。


 外見的特徴としてまず目にとまったのは相手のシルバーブロンドの髪だった。一本一本の髪が川の流れのように秩序立っていてつややかだ。リューの髪にそこそこの頻度で混じっているパサパサの若白髪とは大違いである。


 顔の造形は整っていて大人らしい雰囲気を醸し出してはいるものの実際はまだ若々しい。こちらを坊やなどと言うのだから内面は相当老熟していそうにも思えるが、外見年齢はせいぜい二十歳前後といったところだ。


 シルバーの髪と対比的に、服装は黒ずくめだった。半袖のレースブラウスに、短めのレースティアードスカート。スカートの下にはぴっちりしたレギンスを穿いている。


 服装にあまり詳しくないタイマでも、二十世紀風のゴシックファッションであろうと判断がついた。近頃滅多に目にしないような格好であるせいか、その姿にタイマは妙な違和感を覚えた。

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