第二章-14



「ねえシャーク、地球温暖化といえば、ホッキョクグマはどうなったの? 無事?」


 会話が途切れたのを見計らったかのように、アルカがシャークに話しかけた。シャークは呆れたように「そうきたか」と呟きながらも、にこやかにアルカの方に向き直った。


「一応、無事だよ。もはやホッキョクグマというよりカナダグマと言った方がいいようなもんだけどな。相変わらず絶滅が危惧されてはいるが、今の所個体数は持ち直している。暑がっているだろうことを除けば、小康状態と言ってよさそうだ」


 アルカはそれを聞いて、安心したように頷いた。その手には何故か折り紙の鶴が何羽か握られている。リューが散らかしていたメモ用紙の余りを使ったものであるらしい。相当暇をもてあましていたらしかった。


「ホッキョクグマが暑がっているというのは、ないんじゃないかしら」


「ほう、どうして」


「だって、北極は寒いじゃない」


 シャークに対し、真顔でそう言うアルカに、タイマは少々呆れた。


「ホッキョクグマには、あのふさふさした体毛があるじゃないか」


 そう言うと、眼鏡を外し、机に突っ伏して昼寝していたデイタが、その状態のまま口を出してきた。


「いや、アルカの言う通り、ホッキョクグマが本当はいつも寒さを感じているというのはありうるよ。彼らの体毛は厚いとはいえ、温帯にも多く暮らしているヒグマとそこまで変わらないというし、当然ながら、いくら気温が低かったって、クマはロシア人やイヌイットのように上にうんと着込むこともできない」


 起き上がって眼鏡をかけたデイタは、ちなみにホッキョクグマの毛を剃ったら実は黒いんだ、などとどうでもいい知識を披露してくれた。アルカはどうやらホッキョクグマが大好きであるらしく、デイタの言葉に大げさな反応を示した。


「うんうん、そうよね。だいたい、北極に住んでいるホッキョクグマが温暖化によって暑がっているのなら、温帯や亜熱帯の動物園で、真夏にプールにも入らずにうろうろしているホッキョクグマは何なんだって話だもの」


 タイミングを見計らったように、二人がどっと笑い出した。何が面白いのかわからなかったタイマは、ひとまずまだまだ続きそうなホッキョクグマ談義を放っておいて、シャークとの学術的、学問的かつ学究的な会話を再開しようと考えた。デイタとアルカが自分を蚊帳の外にして盛り上がるのを許すのはあまり気持ちのよいことではないが、この際仕方ない。


「ところで飢餓とかは? 温暖化によって、起きていないのか」


 そう問うと、シャークはなにやら考え込んだ。それから何か合点がいった様子で、にやにやしながらこう言った。


「おまえ、温暖化を過大評価してるんじゃないのか? そういえば、昔は社会全体にそういう傾向があったっけな。温暖化のせいで地球が滅ぶなんて本気で言っていた奴さえいた。だけど、そんな時代はもう過去のものになったんだから、あんまり温暖化に期待してやるなよ。がっかりするぞ」


「そ、そんな」


「それに今は、国連の専門家の間で、もう二百年もすれば温暖化も止まって寒冷化に切り替わるという説が広く認められているしな」


 そうだったのか。温暖化と寒冷化の繰り返し、という言葉が頭をよぎる。それが本当だとすると、あまりに振れ幅が大きくならない限り、地球生命は安泰ということだろうか。


 しかし、それにしても、人間は温暖化にダイナミックに適応したものだ。かつて温暖化によって深刻化すると言われてきた飢餓についても、シャークによるとそんな事態は起こっていないらしい。


「ロシアやカナダは今や世界の穀物庫なのは言うまでもないし、それに」シャークはいったん言葉を切ると、PDAを起動して画面を大きく広げ、旅先で撮ったらしい写真をたくさん見せてくれた。「砂漠化して地味が薄くなった地域でだって、移民やらPネットへの移動やらでうまい具合に人口のフィードバックが起きているから、割と普通に食っていけてるみたいだったな。食料生産の効率も、もう先進国に追いついてきてるし。少なくとも、俺がここ数年で行った南西アジアやアフリカの国々ではどこでもそうだった。ほら、このへんの写真見てみな。どの料理も贅沢で、スゲー旨かったぜ」


 その土地で出会ったらしい人々と一緒に食卓を囲みながら写真に写っていたシャークは、いつも満面の笑みを浮かべる好青年だった。髪が緑なのは相変わらずだが、服装は現地の人々と変わらないものを着ている。


「こんなにたくさんの国に行ったことがあるなんて」


「ああ、俺の趣味だからな。おまえたちが何十年もの間に、Pネットで数え切れないほどのコンテンツを消費したのと同じさ。俺も何十年もかけて、休暇のたびに、数え切れないほどの国と地域を訪れたんだ」


 シャークが一枚の写真を指さした。今と同じくごてごてと飾り立てられた黒いAスーツを身につけたシャークが、土手の上でバイクにまたがってポーズをとっている。バイクは現在乗っているトレーラーの後ろで見た二台と同じ種類のものだった。荷物といえば、後ろの荷台にくくりつけられた手提げ鞄くらいのものだ。


「旅はいいぜ。いつも知らない風、知らない土、知らない水、知らない人々、知らない建物、知らない料理に包まれていられる。そこには安定感はないが、それを上回る幸福がある。知らないことがあまりに多すぎる世界を、生身で直接体感し、知っていくことができる」


 シャークはまるで少年のようにうっとりしながら語り続けた。緑髪野郎のくせにこんな表情もするんだな、と思うと少し新鮮だった。


「そんな旅の末の出会いほど素晴らしいものはない。だって、俺も相手も、互いに何億人もの人の中から、何から何まで自分と異なる人間を一人だけ選び出すんだぜ。まさしく一期一会さ。そんな人と一緒に酒を飲み、語り合い、また会うことを約束する。こんなとき、俺は一番生きているって実感できるんだ」


「何だか、《世界》に参加してるって感じがするな。そういう人生を送るのもよかったのかもしれない。ちょっとだけ、あこがれてしまうな」


「それなら、どうだ、タイマ」シャークは穏やかな微笑を浮かべて提案した。「この一件が終わって、現実世界のデータ化を阻止できたなら、その後は時間はいくらでもあるだろう。いつの日か、一緒に世界を旅してみないか」


「ああ」タイマは頷いた。まんざら建前というわけでもなかった。「いつの日か」


「そのためにも、必ずPDAコーポレーションの企みを潰さなくてはな」シャークの瞳に一瞬、憎しみの光がちらつき、すぐに消えた。「一度Pネットに行ってみてはっきりとわかった。あの場所には、感覚も、変化も、不安定さも、見知らぬ者との出会いも何ひとつ存在しない。俺は、全てを内包し、現実に存在するからこそ美しいこの世界を、心の底から愛している。だから……タイマ。PDAコーポレーションの計画こそが人間の総意だなんて考えるのは、お願いだからやめてくれ」


 シャークはタイマに向かって、うやうやしく頭を下げた。それなのに、何故かタイマには彼の姿が妙に大きく見えた。


 その夜タイマは、リューへの義理を果たした後、自分がどちらの道を取るかということについて真剣に考えた。一方はすぐにPネットに帰り、そこで生きていく道。もう一方はPネットに帰らず、もうしばらくこの現実世界を楽しむ道。以前は前者の生き方こそ絶対であると考え、後者など歯牙にもかけていなかったが、今ではどちらが正しいのか自信がなくなってきている。


 仮にどちらかの道を選んだとして、その場合のメリットとデメリットを考えてみたが、ある視点からはメリットとなることが別の視点からすればデメリットに思われたり、考慮するべきファクターを処理しきれないほど次々に思いついたりして、なかなか単純に事は進まない。考えて選ぶということはそれほどまでに難しいことなのか、と思った。Pネットにいた頃、自分がいかに考えることを怠ってきたかを痛感した。


 遠い過去、学校に通っていた頃は、難しいことを考えると眠くなっていたことを思い出した。それなのに、今はどういうわけか、考え出すと目が冴えていっこうに眠れない。


 気がつくと、手の甲にぴたりと吸い付いているPDAのパネルは、今が五月二十二日の午前四時半であることを示していた。そのパネルを除いては光るものはない。


 さて、このまま寝るか、それともいっそのこと起きてしまうか。今寝ると朝御飯を食べ損なう可能性があるし、どうせモスクワへの到着を待つだけの身、眠くなったら昼間でも何の気兼ねもすることなく寝られるのだから、と考えると、結論はすぐに出た。静かにベッドから抜け出して、前方の部屋に向かう。それだけのことだが、決断をひとつ下したことで何となく自分を肯定できるような気がした。


 寝室の扉をゆっくり閉めて、PDAを起動する。コンパクトにまとまって手の甲に吸い付いていたPDAが変形し、大型のパネルが現れた。ディスプレイはぼうっと柔らかな光を発していて、これだけでも十分に明るい。寝室に明かりが漏れることもないだろう。


 そう思ってテーブルにつくと、なんとそこには既に先客がいた。

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