第二章-13



「にしても、フェリーっていうのは本当に昔と変わらないな」


 ウラジオストクに着いて、いざトレーラーが極東ロシアの大地に降り立った頃、ようやくベッドから離れてテーブルに着くことができたタイマはそう言った。


「なら、どんなふうに変わっているかもしれないと思っていたんだ?」


 シャークがオレンジジュースを飲みながら、興味本位に聞いてきた。タイマは少し首をひねってから、こう答えた。


「せめて、船酔いくらいなくなってるんじゃないかと思ったけどな」


「ううむ。一応数十年もあれば船の構造あたり、地味なところでいろんな改善もなされているんじゃないかと思うがな。知らないけど」


「そうだとしても、未来って感じはしないよ。発着所の様子だってそうだ。何だ、あのボロい車の群れは」


「極東ロシアには、国土の半分近くが砂漠化したインドを初めとする多くの国々から、何億人もの移民が来ているからな。まだまだ日本の中古車にも需要があるんだろうよ」


「砂漠化? 温暖化のせいで? そうか、俺たちがいない間、確かに温暖化だって深刻化しているんだよな」


「そうでもないけどな」


「え? でも、インドが砂漠化だなんて」


「あの頃はまだ移住が進んでなかったってだけで、六十七年前の頃とたいして変わってねーよ。世界の平均気温も然り」


「でも、最初現実世界に出たとき、真夏かと思ったくらい暑かったぜ。後でまだ五月だと聞かされて衝撃を受けたよ」


「気のせいだろ。俺は百年前と比べたって、今の方が暑くなってるなんてつゆほども感じない。おまえたちは年中快適なPネットに慣れすぎていたってだけさ。結局、温暖化なんて大した問題じゃなかったんだよ」


「でも、故郷を捨てたインド人たちにとっては、大した問題じゃないか」


「ん。まあ、そうかもな。でも、連中の多くは、アメリカに渡るヨーロッパ人と同じ精神でロシアを目指したんだぜ」


「どういうことだ」


「温暖化で暑いところに住めなくなるのなら、寒いところには逆に住めるようになるのが道理だろう。東ヨーロッパ平原にもシベリアにも極東ロシアにも、今まで寒さのせいで誰も住み着こうとしなかった土地はいくらでもあるからな、利用しない手はない。世界中の地球工学者や移民の手を借りて、ロシアは何百万平方キロメートルという亜寒帯の土地を温帯の豊かな土地へと変えていったのさ」


 そんなことがあったのか。六十七年という年月は、短いようで長い。ある世代に生まれた名も無き一人の人間さえ、世界の何十分の一かが砂漠化し、同時に世界の何十分の一かが寒冷地から豊かな大地へと変わるのを見届けることができるのだ。


 しかし、とタイマは考えた。亜寒帯を温帯に変えるなどということを簡単にやってよかったのだろうか。シベリアなどの一帯を豊かな耕地にしようなどと思ったら、雪解けの後に沼沢地ができるのを阻止しなくてはならない。どんな方法を取ったのか想像もつかないが、そのプロセスによって、その地にもともとあった生態系は壊滅的なダメージを受けたことだろう。


 まあ、大方の人々にとってはそれは些細なことなのだろう。いや、むしろ、「黒い塊」とすら形容される凄まじい蚊柱で悪名高い沼沢地など、消えた方が世界のためになるのかもしれない。


 それに、憂うべき地球温暖化にしっかりと対処できていることは確かだ。


「海はどうだ。北極なんて、もうほとんどなくなってしまったんだろ。やっぱり、これだけ時間が経てば、海面上昇だって馬鹿にならないんじゃないのか?」


「ふむ。もしかしたら勘違いしているのかもしれないから言っておくが」シャークは神妙な顔になると、手に持ったオレンジジュースのグラスを指さした。三分の一くらい残ったジュースの上に、大分小さくなった氷が一個だけ浮いている。


「水に浮かんでいる氷が溶けても水面が上がったりしないのと同じで、北極がなくなったところで海面上昇が起こることはないぞ」


「こっちだって百年生きてるんだ。それくらい知ってるよ、馬鹿にしやがって」


「そうか、悪かったな。まあしかし、おまえの言う通り、海面上昇は結構進んでいる。この半世紀で、五十センチメートル前後上がったそうだ」


 そ、そんなに……。


 この状況で「たかが五十センチ」などと言う馬鹿とは関わり合いになりたくない。地球の七割を占める海全体が、五十センチも上昇するのだ。そして世の中の大都市というものは往々にして海岸に作られるものであるし、太平洋には平均海抜が一メートル程度しかない国もごろごろある。海面上昇、実に憂慮すべき事態ではないか……。


「そ、それじゃ。太平洋の島嶼国の住民たちなんて、皆溺れちまったんじゃないのか」


 それを聞いたシャークは口に含んだジュースを吹き出しかけ、それをやっとのことで押しとどめて凄い形相で飲み下してから、大声で笑い始めた。


「海面上昇で溺れるだって。おまえ、太平洋の人なめすぎ。何も気にせずゆるーく暮らしてたらいつの間にか、足下に陸地がなくなっていましたってか? バーカ、その前に財産まとめて高台やら他国やらに引っ越すに決まってるじゃねーか!」


 笑われているのに、不思議と嫌な気分はしなかった。一人ツボに入ったらしく、豪快に笑うシャークの顔を見ていると、何だか彼を相棒にしているリューが羨ましくなった。


「一昔前は、先祖代々伝わる土地での暮らしを手放したくないって奴も多かったが、今となっては話が別だ。日本の事件で例えると、二百年くらい前の福島での事故で、原発の周囲数十キロ圏内からほぼ全員が退避したろ。それと同じだ。ある場所で暮らしていけないなら、その場所を離れるより他にない。そこでの暮らしがどんなに幸せだったとしても、それにしがみついて離れようとしないのは、ただの阿呆だ。……可哀相だけどな」


 シャークはそこで一端言葉を切った。いつになく表情が真剣であるような気がした。


「……知ってるか。太平洋にあるのは、別に海抜一メートルの島ばっかりって訳じゃない。ナウル島は旧・新宿くらいの大きさの島だが、その面積の八割は標高七十メートルの台地だ。もし今のペースで海面上昇が続いたとしても、まだまだ七千年は水没せずにもちこたえるわけだ。ましてフィジー諸島のビティレブ島なんて、こっちは四国の半分くらいの大きさなんだが、最高峰は標高千三百メートル。こっちは十三万年ももつ。どうだ、海面上昇なんてたいしたことないような気がしてくるだろう?


 ちなみに、海面上昇のあおりを受けた難民たちは、大抵こういう同じ島国に移住するんだよな。意外だろ、豊かな先進国に率先して行くのなんてごく少数派なんだよ」


 話をしながらPDAのデータベースを参照していない辺り、シャークは前々から一連の知識を持っていたらしい。いろいろとこじらせてしまった二十世紀の売れないミュージシャンみたいな格好をしているにもかかわらず、リューの片腕としてやっていけている理由は、案外こういうところにあるのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る