第二章-12
五月二十日。極東ロシアのとある地方都市で。
ミハイルは大通りの真ん中にぽつんと立って首をかしげていた。別に何か釈然としないことに出くわしたのではなく、レトロな携帯無線機を右肩と耳の間に挟んでいたのだった。もっとも通信は既に切れており、もはや無線機からは耳障りな騒音しか聞こえてきていはしなかったのだが。
「なるほどね、ついに現れたのか」
無線機を親指と人差し指でつまんで目の前にかざしながら、ミハイルは呟いた。無線機のマイク部分に吸い込まれていくその声は、声変わり前の少年のそれであるにもかかわらず、極北に残る永久凍土のように冷え切っている。
新潟からの通信が切れた時点で既に、ミハイルは全てを把握し、今後のことを考え始めていた。
「明日の午後一時に、ウラジオストクへ到着ねえ」
ミハイルはさっと腕時計を見た。午後三時を少し回ったところだった。ウラジオストクとの時差が一時間程度あることを考えると、その到着まで丸一日近くあるということになる。十分だ。ミハイルは満足し、天使のような微笑みを浮かべた。
ひときわ冷たい風が吹き付け、紺色のロシア帽からはみ出た金色の髪がばさばさと揺れる。ミハイルはそれらを帽子の中に押し込むと、何の気なしに風上の方に目を向けた。
次の瞬間、後方から騒々しい足音が響き渡った。ミハイルの微笑みが一瞬で消える。振り返ると、十数メートル離れた建物の影から、サブマシンガンをこちらに向けて構えた男たちが飛び出してきているところだった。
男たちは全身を灰色のアーマーで包み、強化ガラスとおぼしきフェイスシールドで頭部を守っている。襟章には数本の羽のマーク、そして胸にはAMという金文字。それに目をやった瞬間、またか、とミハイルはうんざりしてしまった。アンチ・ミハイル。ここ数年ミハイルを追い回しては攻撃してくる連中だった。おそらく国連あたりの秘密機関なのだろう。ミハイルが襲う都市が、今日もまたそうであるように、ときどきもぬけのからになっているのは、どうやら彼らがミハイルを監視してどこかに報告している結果であるらしい。それにしたって、神出鬼没を自負するミハイルをそうちょくちょくと妨害することなどできはしないのだが、それでもなかなか面倒な連中ではある。
「おや、お客さんが来たみたいだ」ミハイルは今初めて気付いたかのような口調で、のんびりと独り言を言った。「おもてなししなくちゃならないな」
静寂な空気を引き裂いて、兵士たちの銃が火を噴いた。爆音とともに弾丸の雨が降り注ぐ。ミハイルは着弾寸前で横に飛び、そのまま路地に飛び込んでいた。ああ怖い怖い、と呟いた瞬間、狭い路地を大量の弾丸が通過した。ミハイルはすぐに再び折れ曲がった。灰色のコンクリートに覆われた路地にはごみひとつ落ちていなかったため、走り抜けるのは簡単だった。
「左だ! 待て、分かれるのは危険だ! このまま全員で追う!」
後ろからリーダーのものらしいそんな声が聞こえてくる。今日の奴は少しは楽しませてくれるといいが、とミハイルは思った。
後ろを見て、兵士たちがまだ来ていないことを確かめると、丁度近くにあった四階建てのアパートの非常階段を上り始める。ところどころ錆びた階段は鉄でできており、流石にミハイルの靴の消音機能も、金音を消し去ることはできなかった。それを聞きつけて兵士たちがぞろぞろとやってくる。ミハイルはアパート四階の外廊下に膝をつくと、背中にかついでいたゴルフバッグを下ろし、無線機を無造作に放り込んで、代わりにアサルトライフルを取り出して、鉛のケース入りの弾を込めた。隙間のない頑丈な手すりから身を乗り出して見下ろす。
「いたぞ、あそこだ」
「《堕天使》め。俺たちこそが討ち取ってやる」
「突入するぞ」
「待て、早まるな、来るぞ」
僥倖を期待したのかミハイルを恐れたのか、命令を待たずに数発の銃弾が手すりをかすめて飛んでいったが、ミハイルは勿論既に手すりの影に隠れている。さっき見下ろしたとき、相手の位置は把握した。ミハイルは不敵に笑うと、中腰で手すりに隠れたまま頭の上に銃を持ち上げ、銃口のみを手すりからはみ出させて下に向けると、ためらわずに引き金を引いた。
次の瞬間、凄まじい爆発音が轟き、アパートの廊下は突き上げるように揺れた。それが収まってから、手すりの上から下を覗き込む。もうもうと立ち上る灰色の煙を、北東から吹き付ける強風が押し流していた。
爆発は小規模ではあったが、爆風が届いた範囲内は無惨なまでに破壊されていた。舗装されていた道路はクレーター状にえぐれ、切れた電線がその中で焼けただれていた。そして、十人いたはずの兵士のうち、その場に残っていたのは少し離れたところで伏せていた一人だけだった。早まるな、と最後に言った奴だろうとミハイルは見当をつけた。伏せたとしてもこの距離では爆風や道路の破片を浴びただろうに、まだ残っていたというのは意外だった。アーマーと強化ガラスのマスクのおかげだろうか。最近の軍事科学の技術は、やはりなかなか馬鹿にできない。
ミハイルは銃を持ったまま手すりを乗り越えると、まさに爆心地だったところに飛び降りた。四階から飛び降りたのに怪我ひとつせず立ち上がったミハイルは、頭ひとつ分以上自分より背の高い兵士に対し、何の感情もこめずに銃口を向けた。
「人殺しめが」兵士は目の前で起こった出来事にすくみ上がっていた様子ではあったが、傷だらけの強化ガラスの下の目には、なおも憎悪の炎がたぎっていた。「俺をも殺すがいい。《堕天使》め」
「君はわかってない。僕には人を殺す機能などないよ」ミハイルは諭すような調子で言った。「彼らは爆発の危険を感知して起動したDゲートによって、Pネットに向かったに過ぎない」
ミハイルはそう言って相手の出方を伺った。右手をそろそろと動かし、近くに落ちている銃を拾おうとしている。
「僕は気まぐれだからね、君にひとつ選択肢をあげようと思う」ミハイルは十二歳の無邪気な笑顔と銃を兵士に向けたまま、一歩近寄った。「ここで僕に刃向かって、皆より一足先にPネットに旅立つか、そこの銃を諦めて逃げ帰るか。さあ、選んでくれよ」
兵士の右手の指がびくっと震えた。銃に飛びつくかどうか少し迷ったようだったが、結局指を引っ込め、どうすればいいか考え込んで押し黙った。その真剣な表情がおかしくて、ミハイルは笑い声を上げそうになった。
「俺は……逃げはしない。おまえに殺された幾万の人々の仇を、必ず討つ」その兵士はやがて決心したのか、それとも諦念に達したのか、そう叫ぶと、銃に飛びついてすぐに構え、ミハイルへと突っ込んできた。「俺は……おまえを、撃つ!」
無我夢中で命がけの一射を放とうとする兵士の前で、ミハイルの心はあまりに冷めていた。
残念だけど、その銃は爆風をまともに受けてしまっているんだよ、引き金を引いたところで、弾が出るわけがない。そう心の中で呟いた。
そのことが惜しいくらいだった。
「楽しい言い回しだ。まあ、確かに此処は旧・ソビエトロシアだからね」
涼しい顔でそう言って、ミハイルは少年の小回りを生かしてさっと兵士の手元に入ると、かがんでライフルの銃身を左手で持ち上げ、顔を覆う強化ガラスに正面から銃口を押し当てた。最後の瞬間、兵士は目を見開き、口を開けて何か叫んだように見えた。
「さよなら」
ミハイルは静かに引き金を引いた。その瞬間、爆発とともにあっけなく全てが終わり、ミハイルは事件が起こる前と変わるところのないロシアの裏通りに一人取り残された。ミハイルはいつものことながら、どうしてこれほどまでに人間は弱いのだろう、と半ば呆れに近い感情を抱いていた。
左腕で日差しを遮って空を見上げながら、ミハイルは既に次の仕事のことを思っていた。それこそが、あまりにも長かった彼の人生の中で最も重要な仕事となるのは間違いない。もうすぐ、もうすぐ彼はミハイルの目の前に現れるだろう。そして、そのときこそ全ての因縁に終止符が打たれることになるのだ。アンチ・ミハイルのような小物になど、決して邪魔されるわけにはいかない。
「……楽しみだなあ」
《刈り取る者》ミハイルの口元には今や歪んだ笑みが浮かんでいた。
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