第一章-10



 時間が過ぎていくのが、ひどく遅く感じる。タイマは天井に向かって手を伸ばしてみた。コツンと音を立てて中指の関節が天井に当たった。途端に、その場所を中心にした長方形のパネルが現れて、空を映し出した。


 もう一度、軽く触れる。パネルはかき消えて、もとの硬質なのか軟質なのかぱっと見わからない黒壁に戻った。


 タイマは心の中でよし、と呟くと、シャークを起こさないように気をつけながら、ベッドから降りた。扉を開いてトレーラーの前の部屋に入ると、そこでは起きていた三人がテーブルでティータイムを楽しんでいた。タイマに気付くと、デイタがすぐに立ち上がって食器棚を開け、カップをひとつ取り出し、ポットの湯で丁寧にお茶を出して手渡してくれた。タイマは礼を言うと、空いていた席に腰を下ろした。


 リューは横に座ってきたタイマをじろりと見たが、しばらくしてテーブルの上に置かれていた小さな紙袋をひとつかみ取ると、タイマの前に投げてきた。タイマは苦笑した。


「おまえ、俺が辛いもの好きだって知ってるだろ」


 返事はなかった。リューは机の大部分にメモ紙をまき散らし、お茶をちびちびすすりながらボールペンで熱心に書き物をしていた。あれも、彼の昔からの癖だ。PDAに直接書き込めば紛失することもないし整理も楽なのに、リューは昔ながらのやり方にこだわる。そんな彼が、Pネットで受け取ったメールから判断するに、民衆を導いて現実世界のデータ化などという革新的な計画を推し進めようとしているらしいのだから、人は見かけだけではわからないな、とタイマは思った。


「ちょっといいか、リュー」タイマはお茶をすすりながら話しかけた。「俺さ、さっき寝っ転がりながら考えてたんだけど」


 リューは手を休めなかった。タイマはちらりとメモ紙の文字列に目を走らせた。どうやら、国連でタイマをどのようにして紹介するかについて考えているらしい。タイマの口元が自然と緩んだ。


「さっき、何も考えずに苦行主義者だとか、異常な奴だとか言って、ごめん。冷静になって考えてみたら、おまえはその真逆、なんだよな」


 リューの眉が、訝しげにぴくりと動いた。タイマはその横顔に向かって続けた。


「苦行主義者なんかじゃない。今全てを放り出してPネットへ逃げないのは、他の人々のことを考えてやってるからだ。ここぞというところで忍耐心を発揮して、地面に足をつけてしっかり踏ん張って、最大多数の最大幸福を目指している。俺なんかじゃ、とても真似できないことだ」


「頭でも打ったのか?」


 そう憎まれ口を叩きながらも、リューの口元がぴくぴくと震えたのをタイマは見逃さなかった。


「それに、俺は気付いたんだ。おまえは異常なんかじゃない。異常なのは周りの皆の方だ。Pネットのよさにも気付かず、せっかくPDAコーポレーションが現実世界をデータ化して人々の幸福を叶えようとしているのに、あろうことかそれに反対しているんだからな」


 タイマがそう言い終わると、リューはボールペンを静かにテーブルの上に置き、タイマの方を見た。そして、ことさらにはっきりとした発音で、「すまないが、なにを言っているのか、わからない」と言った。


「えっ?」タイマは当惑した。プレッシャーの強風がリューのいる方向から吹き始めたような気分がして、助けを求めるようにテーブルの反対側に目を向ける。だが、そこに座るアルカとデイタも、何故かそろって怪訝な顔をしている。仕方なく、リューに視線を戻す。「何を言ってるかって、そりゃあリューを褒めてるんじゃないか。おまえは、PDAコーポレーションの計画が、全人民の幸福に対する至上の一手であると判断した。だがしかし、PネットのよさがわからずDゲートを頑なに拒む人もいる。そのような人々を救済するためには、PDAコーポレーションの計画に対する賛成票をできるだけ増やして、確実にそれを完遂させなくてはならない、というわけだろ。リュー、おまえは本当に粉骨砕身して頑張っている」


 途中から、違和感などという生易しい言葉では表現できそうにない寒々とした何かを感じながらも、タイマは最後まで言い切った。リューはタイマの宣言が終わると、これ以上ないくらいに冷たい声でこう言った。


「おまえは、俺を虚仮にしているんだな」


 タイマは陸に揚げられた魚のように口をぱくぱくさせた。再びアルカとデイタを盗み見る。


「ちょっと待て。まさか俺、何か勘違いでもしてるのか? 話を整理しようぜ。リューは、PDAコーポレーションの計画に賛同し、それを後押しするための行動を起こすことにした。それから何をすべきか悩んだ末に、Pネットで何十年も暮らした経験をもとにして、その素晴らしさをありのままに伝えることが可能であり、なおかつ大きな影響力も持っているらしい俺に価値を見いだした。そこで俺を人々を教化するための切り札とするため、俺をPネットから連れ出した。それから……」


 話すごとに墓穴を掘っているような気がする。とてもこれ以上続けられない、と思った頃に、アルカが席を立った。こちらに向かってゆっくりと歩いてくるアルカが、何だかひどく恐ろしかった。


「最初から全部勘違いだよ」アルカはタイマの耳元でそう囁いた。「リューは、PDAコーポレーションの計画に反対してるの。だから、リューがタイマにやってほしがっていることは、PDAの素晴らしさについて伝えることなんかじゃなくて、計画を批判し、人々の計画への盲目的な崇拝を諫めることなんだと思う」


「そ、そうだったのか?」


「本当に気付いてなかったんだね」


「そっちはいつ気付いたんだ」


「最初から」


 呆れたような顔をされた。友達ふたりがずっと以前から自分より鋭い目で事態を見ていたのだと気付かされ、タイマはげんなりした。ともかくリューに申し訳なさそうな表情を向けてみせると、彼は大きなため息をついた。


「全くおまえときたら……。もっとしっかりしてくれ」


 えらく上から目線だな、と思ったが、勘違いしていたのはこちらの方なのだから、黙って反省の態度を見せておかなくては、とそのときのタイマは思っていた。


 ただし、五秒後には既に気が変わっていた。


「いや、でもさ。最初にきちんと説明しなかったのはおまえの方だろう」


初めてリューに会った頃の嫌な思い出が脳内にフラッシュバックする。言い返さなければ、笑いものにされる。不当に格下として扱われる。リューには、絶対に負けたくないと思わせる何かがある。だからタイマは、どうしようもない奴だと自分を責めながらも、反発せずにはいられない。


「そもそも俺たちはPネットで快適な暮らしを送ってきているんだから、計画に反対するなんて正気の沙汰じゃないと知っている。リューは常識ある人間だと思っていたから、説明がなければ、まさか非常識にも計画に反対しようとしているなどとは思うはずがないじゃないか」


 タイマはリューの愚かさを笑い飛ばすような調子でそう言った。さあ、この挑発に対して、あちらはどう出てくるか。


「俺も、まさかおまえがそんな考えでいるとは思いもしなかったよ。俺たちが誘惑に打ち克ち、Dゲートを何十年も忌避し続けることで現実世界にとどまってきたということを、頼むから少しは考慮してくれ。その年月を何とも思わず、手のひらを返して計画に賛成するような者が、Pネットに一度入ったにもかかわらず、よせばいいのにわざわざ舞い戻ってきて、国連会議で茶番をやるような手間をかけると思ったのか? それこそ常識の枠から外れた発想だと言わせてもらおう」


 予想通りの反応だった。


「驚くほどすれ違っているね、君たち二人は」とデイタが言った。「そろそろ不毛な水掛け論は終わりにしたいところだな。引き分けということにしてもいいが……。いや、僕は中立だから、アルカ、君がジャッジしてくれ」


「えっ、私?」


 アルカは大役を押しつけられてまごまごした。タイマとリューを見ながら、少し考えていたが、やがておずおずと話し始めた。


「二人とも学生時代の名残なのか、わざと相手と同レベルに合わせて議論しようとしているようなところがあるから、どちらがより論理的かなんて判断はつかないかな。でも、私は、タイマの言った、計画に反対するのは正気の沙汰じゃない、なんて意見に賛成はできない。私だって確かにPネットの恩恵を受けてきて、その良さは十分過ぎるくらいに知っている。だけどね、私は……実を言うと計画に反対なの」


 タイマはこの言葉にショックを受けた。ただ面白そうだから、と何も考えずに受動的に自分についてきたのだと思ってきたアルカが、まさか自分と正反対のことを考えていたとは。自分はアルカを見くびっていたのだと気付いて、タイマは自己嫌悪に陥った。それから、自分と違う意見を頭ごなしに否定してきたこれまでの自分の態度の数々が、アルカにはどう見えていただろうかと自問した。気付けばタイマは目を伏せて頭を抱えていた。とてもじゃないがアルカの目を直視できないと思った。それでもなお、横目で顔色を伺うと、アルカはすぐにそれに気付き、にこりと笑ってみせた。


「Pネットがどれだけ快適だろうと、それを押しつけるようなことはよくないと思う。タイマは非常識だなんて言ったけど、考え方はひとりひとり違うんだから、Pネットよりも現実世界に居たいと思う人だっている、それを否定はできないよ。だって、だからこそ、今もなお九十億人もの人が、Dゲートを決して使おうとせずにこの現実世界にとどまっているんでしょう? だから、むりやり人々から現実世界を奪ってPネットを押しつけるようなことは避けるべきじゃないかな」


 確かに、冷静に考えてみれば、確かにアルカの言う通りだった。しかも、アルカの話にはまるで子供を優しく諭す母親の話のように、聞いているだけで不思議と納得してしまうようなところがあった。タイマとしては返す言葉もなかった。


 アルカのおかげで、これまでピンと来なかった、世界で起きているという混乱の本質が次第に見えてきた。

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