プロローグ-2
「さて、私たちPDAコーポレーションが提示する解決策はこのDゲートに深くかかわってきます。そうです。この世界全体を、Dゲートによってデータ化すればよいのです。このアイデアが実現した場合、我々はPネット内で暮らすこととなります。想像してみてください。Pネット内では、地球環境はもはや決して悪化することがありません。社会問題も、そのほとんどが解決されます。Pネットの世界は、飢餓とも貧困とも無縁なのです。労働さえも、Pネットは必要としません。あなたがたは、ただ好きなことを好きなように行いながら、永遠の命を享受するだけでよいのです。
この放送をご覧になっている皆さんは、自分がデータになるのには抵抗があると思っている方がほとんどではないかと考えます。しかし、それはPネットの莫大なメリットと比べると、あまりにも些末な事柄に過ぎません。
私たちは世界のデータ化を一ヶ月後の六月十五日に予定しています。その際、PDAコーポレーションは莫大なリソースを割く必要がありますので、負担軽減のためにも、皆さんにはそれより前にDゲートを利用し、自主的にPネットに入っていただければと考えています。なお、Pネットへ行く際に利用するDゲートは、当人のPDAに所属するものである必要がありますので、ご注意ください」
データ化、データ化。リューは苦虫を噛みつぶしたような顔で、その言葉を反芻する。
なるほどデータ化は理屈の上では可能かもしれない。しかし、意識の連続性はその方法で保たれるのだろうか。データ化を受けた途端、今こうして思考している自分は消失し、自分のように考え、自分のように行動するスワンプマンが誕生するのではないか。データ化とはつまるところそういうことなのではないか。
PDAコーポレーションは、過去にも何度となくその指摘を受けて、自社の技術をもってすればそのような問題は絶対に起こりえないと主張してきたが、それは要するにクローン人間にオリジナルの意識を乗り移らせることが可能だと言っているようなもので、まるっきり人間業ではなく、むしろ神の所業に等しい。故にリューのような論理的な人間は、もともとはPネットを便利に利用していた過去があるとはいえ、どうしてもPDAコーポレーションに対する疑念を捨てきれないのである。
それにしても、何が解決策の提示か、はなから実行に移すつもりではないか。こんな重大な事項について決定を下すつもりなら、せめて世界人口の過半数、四十五億の賛成票を集めてから言ってもらいたい。リューは頭の中でそう愚痴る。
「そういえばシャーク。おまえはそろそろ、外に出た方がいいんじゃないか」
リューはふと相棒に話しかける。シャークはそれには答えず、立ったまま腕を組んで、PDAの画面の男を注視している。男はPネットがいかに素晴らしいものであるかということについて、例の口調で滔々と語っていた。
「……皆さんはご存じでしょうが、PDAには、ユーザーの生体反応を感知し、その生命に致命的な危機が迫った瞬間にDゲートを起動させることで、意識を保ったまま無事にPネットへ誘うという機能があります。すなわち、皆さんがPネットに移動するということは、死に別れた人々に再会することが可能になるということでもあるのです」
リューは横目でシャークを見た。無表情だったが、その目からは憎悪の炎が迸るようであったし、拳を作った手が小刻みに震えていることもリューは見逃さなかった。一瞬、彼が激昂してPDAに拳を叩き込むつもりではないかと身構えたが、シャークはすんでのところでそれから目を反らした。
「悪い」シャークは感情を抑えた声でそう言うと、リューの顔を見ることなく歩き出した。「気分悪くなった。やっぱ、屋上でちょっと風浴びてくるわ」
だから言ったのに、などといった野暮な言葉はかけなかった。シャークが出て行ってから、これで何度目かになる放送が終わりを迎えるまでそう長くはなかった。男は締めくくりの言葉を口にすると、ダ・カーポ記号にでもぶち当たったかのように、再び最初から放送を繰り返し始めた。
リューは最後にもう一度だけ放送を聞き直そうかと少し考えたが、結局やめにした。リューは左手の甲にPDAを乗せたまま、「ディスプレイの格納」というアイコンをタッチした。するとPDAのディスプレイはたくさんの極薄パネルに分かれ、互いに移動し重なり合っていき、最後には四センチ四方の薄く柔軟なパネルとなって、手の甲に違和感なく吸い付いた。時刻などを表示したパネルはなおも発光を続けて、部屋の中を灰色に染めている。
リューはちらりと窓の方を見た。窓とはいっても、その廃ビルにおいては、窓ガラスや窓枠などといったものはとっくの昔に存在するのをやめていた。現在、本来窓があるべき場所にあるのは、灰色の世界と暗黒の世界の境界線だけだった。
外の暗黒の世界に、生命の気配は微塵も感じられなかった。リューが今いるのと同じような廃ビルがそこらじゅうにそびえているはずなのに、それらは光も音も発することがなかった。外に見えるものといえば、ただ吸い込まれるような虚無ばかりだ。
そんな暗黒の世界の中で、孤島のように光を放つ存在が、リューのPDAの他にもうひとつだけ存在した。
比較になるものが見えないので距離感を掴みづらいが、数キロ離れたところに淡いピンク色の光を放つ半球が見える。これこそが、世界最大の企業であるPDAコーポレーションの姿だ。
ここから見えている半球の正体は、特殊なDゲートである。半球の半径は約五百メートルだという話だ。この半球の内部に立派な社屋が築かれている。このDゲートでできたドームは文字通り障壁となって、既に四十年間にわたって、あらゆる手段による攻撃からPDAコーポレーションを守ってきた。
リューは窓に寄り、ドームを眺めた。やはりDゲートを障壁として使っていることについて好感を抱くことはできそうにない。PDAと大きさがそう変わらない個人用のDゲートさえ緊張感を呼び起こすのに、それの何万倍もの大きさのDゲートを少しの隙間もなく張り巡らせて、それでいったい何を守っているというのだろうか?
PネットやDゲートなどという模倣の不可能な技術を駆使したり、何の前触れもなく人々のPDAに同じ放送を繰り返し流したり、現実世界をデータ化するなどと、承認も得ずにとんでもないことを言い出したりと、PDAコーポレーションの歪で不可解な点は数限りなくある。だが、これほど近くから直接Dゲートのドームを眺めるときに感じる本能的な嫌悪感や異質感は、そういった言葉だけでは説明しきれないものがある。
PDAコーポレーションは、この世界と、この世界に生きる人間に、何らかの悪意を抱いている。
リューの脳内に、唐突にこんな考えが浮かび上がった。一瞬、理性がそれを論理的でない、感情的に過ぎるとして排斥しようとしたが、彼はそのはたらきを無理に押しとどめた。
決して感情のみに基づいた妄想などではない。何十年も昔から、うすうすわかっていたことではないか。
リューは四十一年前のことを思い出した。
四十一年前という年は、この世界の人間にとって二つの意味を持っている。まず、それは誰もがその安定性に全幅の信頼をおいていたPDAが、全世界で一斉にトラブルを起こして、それまで双方向的に作用していたDゲートが一方通行化し、生物であろうが無生物であろうが、一度Pネットに入れてしまったものは二度と現実世界に戻せなくなった年だ。同時に、それは長い間高水準を保ってきた出生率が突然ゼロになった最初の年でもある。
あの年に起こった大混乱と、翌年に起こった大破局を思った。あのときは、社会情勢の急激な変化に対して人々は為す術もなかった。そして今、PDAコーポレーションはこの世界のありようを再び根底から覆そうとしている。だが、今度はただ木の葉のように翻弄されるだけでは終わらない。
心の中の決意が次第に明確な形を取っていく。
「人々が自分のデータ化を望むなら、それは仕方ない。だが、PDAコーポレーションが人々の意向を無視してでも勝手なことをするのであれば、俺は抗おう。全身全霊をこめて」
そう宣言すると、リューは気分が晴れ渡るような高揚を感じた。
そのときだった。
パチ、パチ、パチ、パチ。
やる気のなさそうな拍手音に、リューはぎょっとして振り返る。PDAの明かりで照らして相手の顔がわかると、リューは狼狽した。
部屋の中央に立っていたのは、見たことのない女だった。
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