プロローグ-3

「誰だ」リューは動揺を隠して女を睨み付けた。バックパックの中をまさぐり、武器になりそうなものを探す。女はそんなリューをのんびりと見ている。リューは思わず叫んだ。「いつからそこにいた」


「扉を開けてどうどうと入ってきたのに、気付かなかったようね。本当に鈍くなったんじゃない? それとも無視していただけなのかしら?」


 リューは護身用の警棒を探し当て、それを構えて威嚇したが、なおも女は憎まれ口を叩き続けた。リューはその間、女が何者であるのか必死に思索を巡らしていた。リューにさえ気付かせぬほどに気配を消して忍び込むとは、ただものではあるまい。反乱分子を潰しに来たPDAコーポレーションの刺客……そんな可能性すら考慮できないこともない。


 女は二十かそこらのように見えた。PDAの発する薄暗い光ではぼんやりとしか見えないが、長く伸ばした髪や瞳の色がひどく薄く見えることから判断するに、日本人ではないのだろう。リューは服装にも違和感というか、どことなく引っかかる感じを覚えた。確かに、ひどく古風なレースで縁取られた半袖のチュニックからレギンス、ブーツに至るまで黒一色で固めるというファッションは、日本どころか全世界のどこであれ少しも市民権を得ていない。違和感の正体はこの時代錯誤ぶりだろう、とリューは結論づけたのだが。


「やめておきなさい。警棒なんて構えても無意味よ」


 透き通るようではあるが冷たい、氷のような声で話す女だった。リューは漠然とした不安を感じ、警棒を握り直す。もしかするとこの女は……。


「最初の質問に対する答えを聞いていないぞ。どこの誰で何のために来たか、さっさと言え」


「そんな質問されたかしら」


「黙って答えろ」


「えーっとね」女はわざと困ったような顔をしてリューの神経を逆撫でした。「どこから来たかは言えないわ。名前は、そうね、イサよ。何のために来たかといえば……あなたと少しお喋りをしに来たと言ったらどう思う?」


「どこの馬の骨とも知れん女と無駄話をしている暇はない」


「そう? 残念ね。せっかくタイマについての話ができる人が見つかったと思ったのに」


 イサと名乗った女はため息をついて踵を返し、立ち去る雰囲気を醸し出した。リューは慌てて呼び止めた。ここでタイマの名が出てくるとは。完全に不意を突かれた。


「タイマを知っているのか」


 リューの目は真剣だった。イサは再びリューの方に身体を向けた。予想通り餌に食いついたな、と言わんばかりの余裕が、その顔には刻まれていた。


「ええ。もうすぐあなたの連れも戻ってきそうだし、手短に話そうかしらね」


「俺の連れが戻ってきたら困るのか? もう一度訊く。おまえは何者なんだ」


「人が手短に話そうと言ったのが聞こえなかったの? 黙って聞きなさいよ」


 タイマ。


 その名前を聞くだけでも、リューの心の中に静かな興奮が巻き起こる。


 リューの心の中で最も大きな位置を占め続ける、偉大な人物だった。


 六十七年前、あるテロリスト集団がDゲートを悪用してロシアの核施設に忍び込み、世界各地に向けて核ミサイルを発射しようとした事件があった。これを阻止したのが、当時国連のサイバー犯罪対策本部に在籍し、リューの部下として働いていたタイマだった。タイマは独自技術を駆使してPDAの連絡システムにクラッキングを仕掛けることで、テロリスト同士の行動を詳細に把握したばかりか、特別に編成された対策チームに籍を移すと、自ら核施設に乗り込んでいったのだ。結局、核ミサイルの発射はぎりぎりのところで阻止されたが、タイマがいなければ、この世界は今頃どうなっていたことか。


 だが、タイマの行動で最も称賛されるべきところはそこではない。タイマは結局、この功績で国連のサミットに招待され、栄誉ある賞を授与されたのだが、そのときに彼は全ての国家の首脳たちを前にして、ひとつの伝説的な演説を行っている。


 核兵器を廃絶せよ。


 Dゲートをうまく利用すれば、核施設に忍び込みミサイルを発射することも決して不可能ではないということは、この事件がまざまざと語っている。


 今後もDゲートが存在し続ける限り、もはや核は戦争の抑止力になるどころか、滅亡と崩壊の火種となることは明白である。


 このような演説をきっかけにして、しばらくの間なりを潜めていた全世界的な反核運動は再び盛んになり、結局それから一ヶ月もたたないうちに包括的核放棄条約の締結が実現した。


 ほとんどの核保有国は、自国内の核兵器、及び放射性廃棄物を残らず集め尽くすのに全く躊躇せず、必ずや国家間の醜い牽制のしあいが見られるだろうと危惧していた反核運動家たちが逆にしらけてしまうほどだった。マスコミの取材を受けた心理学者たちは、核テロの恐ろしさを実際に経験したことで人類誰もが持つ種の防衛本能が発現されたのだ、などと口々に言い張ったのだが、彼らの言葉が正しいとするなら、この防衛本能とやらは思いの外強烈に作用したようだった。核兵器を隠し持つことで軍事的首位に躍り出ることを画策したいくつかの政府は、国内外から猛反発を受けてさんざんの目に遭うこととなり、それらの目論見はことごとく失敗に終わった。


 さて、そういうわけで集められた核兵器やその類の物質は以下の要領で始末された。


 まず、大量のPDAのDゲートを起動し、Pネットの《個人領域》の容量がいっぱいになるまで、核弾頭だろうが放射性廃棄物を満載したガラス製キャニスターだろうがお構いなしに放り込む。


 次に、それらのPDAを万単位で船に積み込み、シンガポール付近の海上にそびえ立っている軌道エレベータまで輸送する。


 軌道エレベータのかごにPDAと労働者を乗せて、地球の静止軌道の遙か上空、高度二十万キロの地点へ。


 最後に労働者がPDAのDゲートを再起動して、中のものを洗いざらい宇宙空間へ、十分な初速度を与えつつ放り出す。


 この方法によって、人類はたった二週間で全ての核兵器を廃することに成功したのである。


 これほどの成果を招いたタイマという男は、それからというものずっと世界のトップリーダーの一人として活躍し続けるだろうと皆に思われていた。そうであるにも関わらず、タイマはそれから数日後に、リューを含めた友人たちとささやかな祝宴を開いた後、ひっそりと自分の財産をまとめて、Dゲートを使ってPネットへ移住してしまった。何と残念なことだと歯がみして悔しがったのを、リューは昨日のことのように覚えている。


 タイマがこの場にいてくれたら、とリューは願った。彼が力を貸してくれれば、PDAコーポレーションの稚拙な野望など、きっと打ち砕けるというのに。


 顔を上げると、そんなリューの心を見透かしたように、イサは悪戯っぽく微笑んでいた。


「タイマをあなたのもとに連れ戻すとっておきの方法。ひとつだけ、教えてあげようか?」

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