P.D.A. -Passing Dimension Assistant-
ハイド
プロローグ-1
携帯端末のディスプレイが放つ鈍い光が、ある廃ビルの一室だけを、全てを真っ黒に塗りつぶすような午前二時の暗闇の中から綺麗に切り取っていた。部屋の中央あたりの空中に浮かんだディスプレイの力を借りて、黒の代わりに今この部屋を支配しているのは灰色だった。瓦礫、積もり積もった埃、鉄骨がむきだしの壁、パイプの伝う天井。そして壁によりかかって座る男。何もかもがぼうっと灰色に光っている。
くすんだ灰色の部屋に埋没した男、リューはただじっとディスプレイを眺め続けていた。画面には、一人のニュースキャスターが映し出されている。中肉中背の中年男性だった。目立った特徴はまるでない。もしこの男と路傍で立ち話でもしたならば、別れて十秒で顔を思い出せなくなってしまうだろう。
「地球環境は悪化の一途をたどり、自然の自己修復と人間の環境保全とによって環境を改善できる時代は遠い過去のものとなりました。人間社会もまた、環境の悪化と同調するかのように荒廃し、このままでは近い将来に破局が待つだろうということは今更言うまでもないでしょう……」
男は単調な声で、滔々と語り続けていた。リューが知る限り、このニュースキャスターはこれまで少なくとも四時間のあいだ、休みを取ることもなく何度も同じ放送を繰り返している。その間リューもまた画面を注視し続けていたのだから、男がどこまで話したら取って付けたようなエコロジーの主張をやめて本題に入るかということも、リューは既に見極めていた。
「ですがご安心ください。我々PDAコーポレーションは、全てを丸く収めるための解決策を提示することができます」
リューはとりわけ真剣にディスプレイを見つめ始めた。ここからが大事なのだ。勿論、ニュースキャスターはこれまでの四時間で何度もその解決策について語ってくれはしたが、いまだPDAコーポレーションの意図の全貌を理解したわけではない。彼としては是が非でもこの放送だけは暗記するほど聞き込まなければならなかった。
「PDAコーポレーションは皆さんにサイバースペース《Pネット》を提供することができます。これが、現在皆さんが直面している史上最大の問題に対する解決策の鍵となるのです」
史上最大の問題に対する解決策の鍵について語る男の口調は、水道料金が十月から値上げするとか、万引きの中学生を逮捕したとか、そんな生まれては消えていく価値のないニュースを語るときのそれとどこか似ていた。だが、今重要なのはニュースキャスターの態度などではない。
「ここでPネットをよくご存じない方のためにご説明致しましょう。さて、Pネットを語るためにはまず、《Dゲート》についての知識が必要です。Dゲートは皆さんのPDAにも本来標準装備されている、PDAの拡張パネルのことを指します。実際に見てみた方が早いでしょう。ということで、Dゲートの起動方法を説明します。まず、全画面表示を行っている方は、設定を解除して、PDAのホーム画面を表示してみてください」
リューは立ち上がり、服についた埃を軽くはたくと、数歩進んで、宙に浮かぶ携帯端末――PDA――を手に取った。PDAの縦三十センチ、横五十センチの画面いっぱいに表示されたニュースキャスターは、どんな視聴者でも今説明したことを確実に実行できるように余裕をもって待っている。リューはふわりと軽いPDAを左手の甲に乗せて固定すると、右手の人差し指で画面上の男の鼻の辺りに触れ、すっと左上に向けてスワイプした。すると、男の映像は縮んでディスプレイ左上の一角に収まり、残りの空間には、ニュースキャスターが表示するよう言ったところのホーム画面が登場した。質素な青の背景の上に丸いアイコンがずらりと並んでいる。ここからおよそ携帯端末が備えうるあらゆる機能を瞬時にして立ち上げることができるのだが、その中でもリューは、左下にある、赤くて最も大きいアイコンのみを凝視していた。
「やるのか」
リューが振り向くと、部屋の入り口付近に立つ、二十代半ばに見える青年が目に入った。
「戻っていたか、シャーク」
「さっきからずっといたぜ。今頃気付くとは。鈍くなったんじゃないか」
「無視していただけだ」
リューは素っ気なく言った。彼は長い人生経験を経て手にした老獪さのためか、あるいは生まれつきの慎重な性格のためか、人の気配というものにはひどく敏感なのだ。相棒のシャークが少し前に入ってきたとき、リューは確かに部屋の空気が揺らいだのを感じ取っていた。灰色に満ちた部屋は、地味な白衣を身に纏って、そのまま埃だらけの壁に寄りかかるほど格好に無頓着で、なおかつ若白髪の目立つリューを埋没させることはできた。しかし、髪を暗い緑に染め、紫のウインドブレーカーとチェーンをじゃらじゃら下げたジーンズを身につけたシャークは、この部屋にとって異質に過ぎたのだ。
「流石に危険なんじゃないか。こんなところでうっかり……なんてことになったら、こりゃ冗談じゃ済まないぜ」
「わかってる。だからこれまではやらなかった。だが、ぎりぎりまで行って初めてわかることもないとは限るまい」
「ったく、勘弁してくれよ。まあ、おまえなら滅多なこともない、か」
リューはアイコンに指を近づけたまま、慎重にニュースキャスターが説明を再開するのを待った。どこかで半ば睨み付けるような視線が自分に注がれていることを知ってというわけではないだろうが、それから十秒と経たないうちにニュースキャスターはこれまで通り単調に話し始めた。
「PDAのホーム画面の左下のアイコンに触れてみましょう。Dゲートを起動することができます。Dゲートとは、この現実世界とサイバースペース《Pネット》をつなぐ、いわば《次元の門》です。この門は、物質を構成する全ての原子とそのベクトル、及びエネルギーをデータとして記憶し、Pネット上で完全な物理法則の下、それを再現するという機能を持っています」
リューは男の言う通りにした。PDAより僅かに大きな、半透明で淡いピンク色のパネルがPDAの上に現れた。
「使い方は簡単です。起動したPDAの中に物を放り込むだけで、それはPネットへと送られるのです」
リューは近くに落ちていたガラスの破片をひとつ拾い上げると、パネルの上に軽く落としてみた。このDゲートなどというものがどういう原理で出現し、存在し、機能しているのかリューは知らない。だが、確かにそれは機能する。破片はパネルに触れると、小さな波紋だけを残してあっけなく虚空に消えた。
「おい、リュー。もういいだろ」薄暗い光に照らされながらシニカルに笑うリューを気味悪げに見ながら、シャークは言った。「もうDゲートをしまえ」
確かに、現実世界に今しばらく居続けたいと願う者にとって、Dゲートはぞんざいに扱うには危険すぎる代物だ。リューは素直にPDAを操作してDゲートの機能を停止させ、放送を全画面表示に戻した。半透明のパネルが消えたとき、肩の荷がおりたような安心感を覚えて、リューは情けなく思うのだった。やはり、目の前にDゲートがあるという緊張感にはいっこうに慣れることができなかった。
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