第16話 虚無討伐 その7
カミュらも交代で森へと出発しようとしていた矢先のことだった。
「カミュ、急げ。今すぐイリーナと出発し、回り込んですぐにこちらに来い」
ソルウェインの動きは速い。報せにきた者がテントを出るやいなや、椅子を蹴るように立ち上がった。
サル=イージャをひっ掴み、扉代わりの布を払いのけながら、後ろを振り返ることなくまだ中にいるカミュとイリーナに指示を出す。彼の体はすでに薄い緑色の気に包まれており、その額には風の紋章が浮かんでいた。現地まで全力移動する構えだ。
「分かった。すぐ行く。気をつけて」
そう答えて、カミュもイリーナも剣だけを掴む。
もう探索のための荷物は必要ない。ただ、二人はそれでも偽装する必要があった。一度陣から出て森へと入り、そこから紋章を発動させて追わなければならないのである。もどかしいが、やむを得なかった。
「ちょ、ちょっと待って」
イリーナが先を行くカミュに向かって、大声で呼びかける。
カミュたちは一度陣を出て森に入ると、すぐに紋章を発動させた。そして、地を駆けるのももどかしいとばかりに大木の枝を飛び渡り、駆けに駆けていた。その様は猿か何かのようだった。
イリーナも必死で追っているのだが、カミュの動きに追いつけないのだ。彼女も紋章を発動させて、同様に木々の上を駆けている。しかし、それでもカミュが気を抜くと置き去りにされそうになっていた。
「イリーナっ、急げっ」
「急いでいるわよっ。あんたが速すぎるのよっ!」
「そんなこと言ってる元気があるなら、足を動かせ」
「分かってるってばっ!」
木々の上を走り、崖を飛び降り二人はひた走る。
すると、二人の耳に剣撃の音や爆発音が小さく届き始めた。時間的には陣を出てから大して掛かってはいない。
しかし、それはあくまでも時間で考えているからであった。もし、当たり前に普通に探索に出ていたら、ここまで到着するのに多くの時間を費やすことになった筈である。そこを二人は、本来の十分の一の時間も掛けずに走破してきたのだ。
カミュは立ち止まり、闇の紋章の力を抑えにかかる。
前方で火の手が上がった。見れば、すでに到着しているソルウェインが虚無と切り結んでいた。単純な力ではやや分が悪いようで、すぐにその力を逸らしているが、まるで剣舞でも踊っているかのような動作で即座に斬撃を返し、大きく後ろに飛ぶという戦い方をしている。
「さすがソル兄。相変わらずの剣捌きだな」
虚無が狙っているのがソルウェインであることを確認したカミュは、ほっと一息をついていた。対面の戦闘で彼が敗れるなどと考えたこともなかったからだ。
「あっ。カミュ、見て」
イリーナが空を指差す。
巨大な蜻蛉がものすごい速度で近づいてくるのが見える。
ハスだった。彼女の蟲である。
飛蟲隊が騎乗する蟲は、基本的に牛ほどの大きさの甲虫である。しかし、彼女は違う。体長だけで言うならば、その五倍はありそうな尾に針を持つ巨大な蜻蛉を使役していた。
「ハス姐も来たか。よし、イリーナ。お前はソル兄の援護に入ってくれ。ほっといても勝てるだろうが、安全にこしたことはないからな。俺は、周りの隊員に交じって虚無の動きを牽制する方にまわる」
最初に虚無を発見した捜索隊の者たちが、ソルウェインと虚無を囲うようにして戦場の確保に努めている。闇の紋章を使えない以上、カミュはそちらの支援を担当しようと考えていた。
「分かったわ。でも、調子に乗って無茶をしては駄目よ?」
「分かってる。だけど、出来れば俺の方に来てくれた方がいいだろう。あの虚無の動きを見る限り、たいがいの奴では一撃を耐えるだけでも荷が重い」
カミュは再び戦場に目を戻す。
囲んでいる者たちは遠巻きに包囲しているだけで精一杯だ。
とてもではないが、ソルウェインの邪魔をしないように加勢するなどという芸当は期待できない。ハスが上空から投げ槍を投げつけているが、それすらもまったく当てられていない有様なのだから。
虚無が彼女の投げやりを躱しているわけではなかった。ただ、虚無とソルウェインの動きが速すぎるのである。
その目まぐるしい動きに、ソルウェインへの誤射に気を遣うハスは必殺の一撃を諦めざるをえずにいた。やむなく彼女も虚無の牽制にまわっているのである。
そんな状況下で、ソルウェインは力任せに突っ込んでくる虚無をいなしながら立ち回っている。
余程の者でなければ、少し離れて見ていても何がどうなっているのか分からない速度で剣が振るわれ続け、体が捌かれていた。
援護に駆けつけていたイリーナもすでに戦闘に加わっているが、紋章を発動させているのにも関わらず、ソルウェインと虚無の動きについていけずにいた。適切な機に援護を挟めずに、躊躇いを見せている。
カミュは、枝や蔦をかき分けながらソルウェインらの方へと向かった。
苔むし滑りやすくなっている岩を注意深く飛び進み、ソルウェインらを遠巻きに包囲している戦士たちの下へと躍り出る。
「もう少し下がれっ。この位置じゃあ、巻き込まれるぞっ」
近くにいた仲間の一人に言った。
彼らは、洞穴の入り口を弧を描くようにして囲んでいる。
ソルウェインと虚無からある程度の距離をとって囲んではいる。しかし、カミュの目には不十分な距離に見えていた。虚無の動きが彼らの世界の外にありすぎて、予測を誤っているとしか思えなかったのである。
「臆病者がなにを分かったようなことをっ」
カミュに言われた男は反発した。
その顔はソルウェインと虚無の戦いに青ざめて引き攣っていたが、声をかけてきたのがカミュだと分かると声を荒げて怒鳴り返したのである。
「あれを見れば分かるだろっ。あの虚無は一息で、あそこからここまで飛んでくるぞっ」
もどかしい。言った人間が自分ではなかったら、おそらくこんな言い合いなどせずに済んだはず。カミュは、そう思わずにはいられなかった。
そして、そんな思いに駆られたその時、
「カミュッ!」
イリーナの切羽詰まった声が飛んだ。
「ひぃっ」
カミュと言い合いをしていた男の顔が再び恐怖に豹変し、口からは思わず悲鳴が漏れる。
カミュもイリーナの叫び声に、間髪入れず振り返っていた。そこで目に飛び込んできたものは、どす黒く輝く火の紋章と、申し訳程度に腐肉のついた髑髏。そして、唸りを上げて迫る刃だった。
「くっ」
カミュは咄嗟に体をずらす。その勢いを利用して、手にしていた剣で虚無の握る剣を払いのけようとした。
しかし――――。
虚無の剣を払いのけることはできなかった。虚無の剣はカミュの体に掠らんばかりの場所を通過し、足下の岩を割り砕いた。その剣を払いのけるべく振られたカミュの剣は容易に弾き飛ばされたのである。
剣を握ったまま手放さないだけで精一杯だった。手の平に広がる衝撃。腕を駆け上がる痛み。腕全体を例えようのない激痛が襲い、カミュは顔を顰めた。
「……つぅ」
思わずカミュの口から声が漏れる。しかしカミュには、痛いと喚く時間も与えられない。虚無の追撃が止まらなかったのだ。
意思なく振るわれる剣。その剣のなんと恐ろしいことか。
まったく予測がつかない。振るわれたものを、ただそのままに対応せざるを得なくなる。
遅ければいいのだ。だが、それが尋常ではなく速いとなれば――――その意思のなさこそが逆に恐ろしい。
カミュは全感覚を研ぎ澄まし、ただ必死にその凶刃を避けることに集中する。
一撃、二撃、三撃。ただひたすらに避け続け、攻撃に移れる瞬間が来るのを待った。そして、ようやく流れるような二撃を返す。その二撃は虚無の体を捉えた。
虚無はカミュの剣を避けることも受ける事もしなかった。それだけに綺麗に入った。もし、これが人間だったならば、当てた二撃ともに致命傷を与えられただろう。だが、虚無は動きを鈍らせない。体をカミュの剣に傷つけられるままに、圧倒的な力と速さをもって前に出て、カミュへの攻撃を繰り返してくる。
そして、ついに――――。
「ぐぅっ……」
その攻撃がカミュを捉えた。躱しきれぬ時がきてしまった。
カミュは両手で握った剣の鍔元で虚無の剣を受けざるをえなかったのだ。だが、その力に抗えずに恐ろしい勢いで吹き飛ばされた。カミュの剣はその一撃で大きく折れ曲がり、ほぼ切断されることとなった。
弾き飛ばされたカミュは、地面に叩きつけられながら死を覚悟する。
もう腕も思うように動かせそうになかった。
このまま追撃されたら、その攻撃は避けられない。今から紋章を使おうにも間に合わない。もう駄目か……と覚悟せずにはいられなかった。
だが、虚無の追撃はカミュを襲わなかった。
彼は痛む体を無理やりに起こし、顔を歪めながら虚無の確認を急ぐ。
虚無の額――紋章を、後ろから貫く切っ先が彼の目に入った。それはサル=イージャの切っ先。魔法剣特有のおぼろな光を放ちながら、虚無の紋章を貫き通していたのである。
虚無の額の紋章が微かに明滅し、急速に光が失われていく。
その様は、まるで命なき命が失われていくかのように、カミュの目に映った。紋章の輝きは程なく失われ、そこに存在しなかったがごとくかき消えてなくなっていった。
サル=イージャが引き抜かれると、虚無は糸の切れた操り人形のようにその場にくずおれた。
「ソル兄……」
「イリーナが大騒ぎするわけだ。お前凄いよ。紋章もなしで、よくこの虚無とあれだけやりあえたもんだ」
呆けたように名を呼ぶカミュに、ソルウェインは崩れ落ちた虚無の向こうから言う。周りで囲んでいた戦士たちは揃って唖然としており、二人の会話に口を挟むどころか身じろぎすることすらなく固まっていた。
そんな中、
「カミュッ!」
彼の名を呼び、イリーナもカミュの下へと駆け寄る。
「イリーナ……」
カミュは辛うじて彼女の呼び声に反応するが、未だ放心状態のままだった。
「あんた、無茶しすぎよ……」
そう言うイリーナの声は微かに震えていた。
「ごめん……」
「俺も流石に肝を冷やしたぞ。そちらにやってしまったのは俺の手落ちだが……いや、本当に無事でよかった」
ソルウェインもほうっと小さく息を吐いていた。
そんな二人を見て、カミュはようやく未だ自分が生きていることを実感した。折れかけた剣を手放し、カミュは未だ痺れたままの己が両手を見る。握ってみる。ああ、動いている……。カミュは、その事に感動を覚えた。虚無の脅威は去ったのだ。
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