第71話 ジェンゴ

 サキは絶望的な気持ちで次の攻撃を待ったが、攻撃は続かなかった。ジェンゴは踏み込んでこず、慎重に様子をうかがっているようだ。幸運。サキは態勢を立て直す。手の感覚も徐々に戻ってきた。思考も戻ってくる。


(なぜ攻撃してこなかった?)


 今攻撃されていれば、確実に負けていた。


(私が隙をみせたのを、罠かもしれないと警戒したのか)


 ジェンゴは豪快で大胆なイメージの裏で意外な慎重さも持ち合わせている。


(特にこの路地裏に誘い込まれた直後だ。罠を張ったと考えるものもっともだ)


 それはサキにとっては幸運以外の何物でもなかった。攻撃されていれば、確実に負けていたのだから。しかしサキは戦術の見直しを迫られていた。


(今ので罠でもなんでもないことは知られた。次のチャンスは絶対に逃さないだろう)


 今の一連の出来事で、サキはジェンゴとの実力差をあらためて痛感した。ジェンゴが倒れる前に今のような危機は何度も訪れる。


(ジェンゴが今のチャンスを慎重に様子見したのは合理的な判断だった。ジェンゴにとっては今のが千載一遇のチャンスというわけでもなかったんだ。これから何度でき作れるチャンスのひとつに過ぎなかった。であれば、一度目に罠かもしれないところをあせって踏み込む必要はなく、様子をみるのが合理的だ。そして様子をみて罠ではないことを確認した。次は決めに来るだろう)


 浅い攻撃を確実に加えてジェンゴの体力を奪っていくというサキの戦術は破綻した。二人の地力の差がそれを許さない。


(ならばやるしかない。浅い攻撃ではなく、深く踏み込んで致命の一撃を狙うしかない)


 サキは悲愴な思いで覚悟を決めた。


(致命傷を取りに行く。しかし、私の戦術変更を見抜かれている気もする)


 ジェンゴは戦いの中での読み合いにも強い。


(前の戦術をもう少し続けて様子を見るべきか。いや。ジェンゴは知っている私の癖を。こういうとき様子見に傾いてしまう癖を)


 サキの迷いが消えた。覚悟を決めてしまうと不思議と落ち着いてくる。この境地はジェンゴの読みを上回っている気がした。戦いの駆け引きでこの一度だけジェンゴを上回れているのでないか。気のせいだろうか?終始ジェンゴに振れていた戦いの振り子が、今このときだけは自分に振れているのではないか。雲の合間にみえた一瞬の日の光。手のしびれもなくなっている。剣を握り直す。ここだ。次の一瞬で勝負が決まる。


 ジェンゴが動いた。微妙に角度を変化させた縦斬りだ。軌道も速度も読み通りだ。これ以上ないほどに完璧に見切れる。迷いの無くなったサキは、頭で考えるより体が自然に動く。一切の無駄のない横への回避行動で剣を躱す。これ以上ない完全な回避ができた。対照的にジェンゴはこの戦いではじめて攻撃が雑になった。勝ちを確信して気を抜いたか、サキが浅い反撃しかしてこないと高を括っているのか。いずれにせよ、この戦いではじめて大きな隙が生まれた。


 サキは大きくジェンゴの懐へ踏み込む。この日はじめて侵入する致命の領域だ。もう引き返すことはできない。命を取るか取られるか。過去にジェンゴとの数え切れないほどの立ち合いの中でもこんな感覚ははじめてだ。ジェンゴを相手にこんな絶好の機会を得たことはない。ジェンゴがみせた隙をつき、いま、その領域に意外なほどあっさりと入っていける。その刹那、サキは強烈な違和感を覚えた。


(これは罠か?)


 手がサキの剣を押さえようと伸びている。この手は大剣を握っていたはずのジェンゴの手だ。ジェンゴは大剣を手放していた。ジェンゴはサキの戦術変更もすべて読んでいた。わざと隙をみせてサキを深く踏み込ませた。そして大剣を手放し片手でサキの剣を押さえ、もう一方の手で短剣を抜いて勝負を決めるつもりだ。


 気付いたサキは惜しげもなく剣を手放した。そして反対の手で短剣を抜きさらにもう一歩踏み込んだ。サキがこのタイミングで剣を手放すのはジェンゴも予想外だったはずだ。しかしジェンゴもすでに短剣を抜いている。どちらが速いか。すでに短剣で致命傷を与える間合いだ。互いの命を互いの手で握りあっているのだ。サキが短剣をジェンゴの腹部を狙って突き出す。


 次の瞬間、衝撃が手を伝わる。サキの短剣はジェンゴの腹を深く突き刺した。サキの背後でジェンゴが手放した大剣が地面に突き刺さる。サキの剣はジェンゴが抜き身を握っている。その刃先には血が滴っている。


そしてジェンゴの短剣は、サキの喉元寸前で止まっていた。サキの攻撃が速かったのか?いや。ジェンゴがサキの剣から手を離し、剣が落ちる。


「なぜ寸前で止めた?」


 サキの問いにジェンゴは答えない。


「私の喉を掻っ切ることができたはずだ」


 ジェンゴは答えない。


「もっと言えば、わざと隙を見せて誘い込むようなことをせず、順当に戦っていれば確実にお前が勝っていた」


 ジェンゴが崩れ落ち膝をつく。それから唸り声をあげ、大儀そうに仰向けになった。これまで傷は数え切れないほど負ってきたが、今後の傷の深さはこれまでになかった。もう長くないことがわかった。言うべきことを言ってしまわなければ。


 「北へ行く女と子供の二人連れに剣を持たせた。目撃者も大勢いるから、追手はそちらをお前たちだと考えて北へ追っていくだろう。お前は目立たないように別の方角へ逃げれば、追手をまけるだろう」


 サキがジェンゴの腕を手に取る。その腕には傷がある。サキを庇ってできた傷だ。


「持っていけ。業物だぞ」


 ジェンゴが自分の短剣をサキに渡す。そしてサキの顔をみた。


「大剣を譲りたいところだが、お前には扱えんだろう」


 ジェンゴは笑ってみせた。サキの涙が顔に落ちてくる。


「さあ行けよ」


サキの腕を押す。


「絶対に逃げ切れよ。俺以外にやられるのは許さねぇぞ。それじゃあ俺が弱かったってことになっちまうからな」


 お前を殺すのは俺だ。他の人間に手は下させねえ。そう思って単独でお前を探した。もししくじったとき、他の人間が追えないように工作しながらな。


だけど、いざとなっちゃできねえもんだ。愛した女を手にかけるなんて。お前に殺されるなら悪い死に方じゃない。お前は俺のために泣いてくれた。


ならもう十分だ。先ほど頭に焼き付けたもう一度思い浮かべようとしたが、やがて意識が遠のき、静寂が彼を包んだ。


***


 北とは別の方角へ行けというのは罠だろうか。しかしサキはもはや考えなかった。赤子を抱いたクワトロが心配して声をかけてくる。


サキはクワトロを農家に残して旅に出ようとしたが、彼は一緒に行くと言って聞かず、やむなく連れて来たのだった。


「どうした?何があった?」


「馬車に乗る。東へ向かう」


 クワトロ、私はいまジェンゴを殺めてきたんだ。お前が父のように慕っているジェンゴを。しかし、それは声にならなかった。

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