第69話 別れ

 夜、ティアナはシオンとふたりで寝室にいた。シオンがティアナににじり寄ってきた。


「もう私がお前を抱くことはないと思ったか?」

 

 ティアナはすでに耐え抜く術を心得ているつもりだ。感情は薄れていたし、残ったわずかな感情を殺して人形のように時間が経つのを待てばいい。この男はもうこれ以上私を傷つけることはできない。この男が何をしようと自分を苦しめることも悲しませることもできない。


「夫婦の義務だからな。夫婦の営みはやめない。そしてお前は私の子を産まなければならない。お前の体を傷つけたりはしないさ。お前の体は私の子を産まなければならない大切な体だからな」

 

 ティアナは虚ろなままシオンの言葉は聞いていた。


「……しかし、私は受けた屈辱は必ず返さなければ気がすまない。だから今夜から話をしながらお前を抱こうと思う。……どんな話だと思う?」


 シオンは満面の笑みを浮かべた。


「お前の弟は、戦場で死んだな? 勇敢に戦って死んだと思うか? 違うぞ。お前の弟は剣を投げ捨てて敵に背を向け、必死で逃げようとした。しかし追いつかれた。弟は恐怖のあまり赤ん坊のように漏らしていたよ。そして命乞いをした。私の足にすがりつき、涙と鼻水を垂れ流した顔をくしゃくしゃにしてね。支離滅裂でね。正直言って何を喚いているかわからなかったよ」


 シオンがくくっと声を立てて笑う。


「だが、彼が父親と母親、そして君の名を喚いていたのはわかったよ。武器も持たない無抵抗の、必死で命乞いする少年を刺し殺すなんてなかなかできるものじゃない。しかしやったよ。そうだ。私がこの手で殺したのだ。そしてお前はこれからその弟を殺した手で弄られ、抱かれる。これから長い夜になる。もっと詳しく聞かせてやろう。弟がどんなふうに長く苦しんで死んだか」


 ティアナは自分がすでにすべての感情を失ったと思っていたが、胸の奥に疼きを感じた。これは悲しみだろうか。ティアナの目に涙があふれて零れ落ちた。うめき声が漏れる。シオンの顔に喜びの色が浮かぶ。


「久しぶりに泣いてくれたね。嬉しいよ」


 シオンが涙を舐めとりながら続ける。


「もうひとつとっておきの話があるぞ。お前の父は病死ではない。――私が殺したのだ」


 長く抑圧していた反動で、恐ろしい勢いで感情が溢れてくる。堰を切った悲しみと怒りと恐怖が襲い掛かってきてティアナは叫んだ。しかしその叫びは実際には声にはならず、シオンが覆いかぶさってきた。


***


 それからというもの、ティアナは正気を失いがちになる。たびたび上の空で王宮内を彷徨っているのを人々に目撃された。


 ある日、エリクが久しぶりに王宮へやってくる。近衛騎士の頃はずっと鎖帷子だったが、エリクは今や伯爵の身分なので、その服装はひと目で貴族と分かる上質なものだ。


エリクはティアナやサキらに挨拶をしようと王宮を歩いていると、ティアナとサキが中庭にいるのをみかけた。エリクは近寄って声をかけようかと思ったが、何か様子が異様なことに気付き、立ち止まってみていた。


ティアナは寝間着のまま花に向かって弟の名前を呼んでいる。一体どうしたのだと呆然としてみていると、召使いの女がやってきて教えた。


「王妃様は狂気に落ちてしまわれました。この数年の記憶がすっかり抜け落ちてしまって、まるで子供に戻ったようになってしまわれたのです」


 エリクは衝撃を受けた。よろよろとティアナに歩み寄る。


「だめです」


 召使いが気付いて止めるが、遅かった。ティアナはエリクに気付くととっさに身を退いて、サキの後ろに隠れてしまった。サキの体に隠れながらこちらを敵意に満ちた目で覗き見ている。サキが状況を説明する。


「王妃様は人間不信になり、私と一部の侍女以外には心を開かなくなってしまった。特に男はだめだ」エリクは体から力が抜けていくのを感じた。


「なぜこんなことに?」騎士の問いにサキは答えない。真実を話すことはあまりに残酷に思われた。


 エリクはティアナが陛下の子ではない双子を産んだという醜聞は耳にしていた。そのことで心を痛めていた。しかしティアナがこのような状態になっていることは知らなかった。エリクは人々が噂するのを聞く。


――父の呪われた狂気の血を受け継いだのだ


――不義密通の罪に神が罰をお与えになったのよ


――父が王位を簒奪し、娘は不義密通を働いたのだ。大罪を重ねた一族の末路だ


――ライオネルを崇拝していた諸侯たちもいい加減に見限るだろう


――不憫なのは陛下だ。王妃があんな狂女になってしまうなんて


***


 サキがかしらに呼び出され、一方的に告げられた。


「お前は王妃の護衛の任を解かれた」


「そんな。王妃様の護衛はどうなるのです?」


「今後は、別の者が警護する」


「しかし王妃様が心を開かれるのは私だけです」


「お前の仕事は王妃の心の慰みになることか? 言ったはずだ。入れ込み過ぎるなと。我々の雇い主は陛下だ。そしてこれは雇い主の意向だ」


「私はこれから何を?」


「谷へ戻れ。お前の代わりにエミリアが来る」


***


 サキはティアナに別れを告げにくる。部屋の中でティアナは子供を抱いていた。双子の弟のほうだ。


「護衛の任を解かれました。お別れです」


 ティアナは衝撃を受けたようだ。


「あなたまで失ったら、ここに私とこの子の味方はいなくなる。せめて……この子を連れていって」


「ウェンリィ様は私の恩人なのです。陛下を裏切るようなことは……」


「あの男は、嬲るためにこの子を手元に残しているの。私が味わったような地獄をこの子に経験させたくない……お願い」


***


 サキは子供を抱いて外へ出る。城門はまずいだろう。サキはあの秘密の脱出口に向かった。周囲に人がいないことを確認して中に入る。


 なぜ引き受けたのか、自分でもよくわからない。だが、もう引き返すことはできない。自分はウェンリィを裏切り、谷を裏切った。


 王都の外に出た。サキが子を抱いて歩いていると、向こうからエミリアがやってくる。


「サキ!」


 エミリアは子供に気付いて不思議がる。


「その子は一体どうしたの?」


「知り合いの子でね。頼まれて街のある家まで連れていくさ」


「そう」


「すまない。急いでいる」


 エミリアと別れ、二人は互いに反対方向に進んでいく。エミリアは王都へ。サキは反対へ。


 そのころ、王宮では窓から身を投げたティアナの遺体が発見された。

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