第51話 反転
すでに勝利を確信していたハンスは、余裕の表情で将軍の軍を眺めていた。そろそろオルセイの軍が敵に到達しただろう。負ける要素はみあたらない。兵力で上回り、戦術でも相手の上をいった。しかし様子がおかしい。オルセイの軍は戦っている様子が感じられない。
傍らにいるマチスとともに訝しがっていると、やがてオルセイの軍が反転しはじめた。こちらへやってくる。オルセイが敵を蹴散らし戻って来ているのであろうか。
しかしそれにしてはあまりに早い。交戦している様子も見えなかった。
「なぜ引き返してくるのだ?」
ハンスが聞くと「様子を見てきます。ここでお待ちください」とマチスはたまらず前線に出た。
前線に来るとオルセイらの軍勢がこちらに引き返してくるのがみえる。速度が異様に速い。戦いに敗れたり、怖気づいて逃げ帰ってきた気配ではない。その軍勢の眼は戦意に満ちた者の眼だ。これではまるで……敵に突撃するようだ。突撃?どこに?こちらでしかない。そう思った瞬間、「撃てぇ!」とオルセイの号令が響いた。
クロスボウを構えた騎手が一斉に攻撃を仕掛けてきた。マチスの周囲の味方が次々と倒れる。
「裏切りだ!敵に寝返りやがった!」
誰かが叫んでいる。マチスは一斉射撃の難を逃れたが、本格的な攻撃はこれからだ。マチスは剣を抜く。槍を構えた騎士の大軍が突撃体勢を取ってこちらに向かってくる。裏切り者たちの中にはオルセイがいる。あの男、なぜ裏切った。元帥になれなかった人事に不満を持っていたのか。そしてオルセイの隣にいる人物を見た。マチスは目を疑った。馬を駆っているその人物を彼はよく知っていた。
「あ、あれは、ライオネル」
生きていたのか。しかも正気に戻っているようだ。騎士の大軍は眼前まで迫っている。すでに逃げ場はない。マチスの手から剣が抜け落ちた。すでに戦意を失っていた。なぜこうなった。どこで選択を間違えたのか。マチスは突撃してきた騎兵に槍を突き刺され、吹き飛ばされた。そして地面に横になったところを無数の馬に踏みつけられ、絶命した。
ライオネル王の帰還が風のように戦場の兵士たていに知れ渡っていった。オルセイは王の帰還を確かめるとすぐさま軍に反転を命じた。彼は戦の前にレナードから手紙を受け取っていた。手紙にはライオネルが回復したこと、戦場で寝返ればこれまでのことは水に流し、恩賞を約することが書かれていた。
もちろんすぐに信じられたものではない。偽りの内容で揺さぶりをかける敵の策かもしれない。よくある手だ。しかし手紙には戦場で攻撃を仕掛けないから陛下の姿を確かめよとも書かれていた。そこで事実を確かめてから判断することにした。
オルセイの八千の兵たちは増援軍と合流して王太子の陣に襲いかかった。時を同じくして、確認したシオンが、自軍二千に攻撃命令を下した。
二方向から攻められた王太子軍はひとたまりもなかった。ハンスは呆然自失していた。
***
サキは意識を取り戻した。どれくらい気を失っていたか?
いるはずの敵がいない。いや、敵の死体は山ほど転がっている。立っている敵がいなくなったのだ。生きて立っているのは息を切らしているヴァンとジェンゴだけだ。なぜだ?敵はいくらでもいるはずだ。門の穴から恐る恐る顔を出して周囲を確認する。すると逃げていく敵の背中が見えた。サキは門から体を出す。ヴァンとジェンゴが続く。
「どういうことだ?」
「あれを」
軍勢がこちらへ向かってきている。
城壁にかけられた縄梯子に向かって這っている男がいた。足には矢が刺さっており、逃げ遅れたのであろう。サキは男を捕まえ、首に剣を突き付けて聞く。
「一体何があった?」
男が黙っているので、「しゃべりやすくしてやろうか」と、サキは剣先で首を軽く突いた。男は声をあげて傷口を抑える。血が一筋流れた。男が素直にしゃべりはじめた。
「ライオネルが生きていたんだ。しかも正気に戻っていた。それで、俺たちに味方していた王国軍の連中が寝返ったんだ。王太子軍は壊滅した。王太子も死んだって噂が流れている。戦はお前たちの勝ちだ。背後を突かれたら逃げ場はない。ここに残っていたら間違いなく殺される。だから逃げるんだ」
サキは事態を理解した。聞きたいことは聞けたので、男を城壁から落とした。男は叫び声をあげながら落下し、地面でひしゃげ、それきり静かになった。サキは城壁から顔を出し、あの男を探す。そしてみつけた。北西へ逃げていくツン族の中に。ユリヌスはまだ近くにいた。
「降りろ!」
部下を馬から引きずり降ろし、自分がその馬に乗ろうとしている。逃がすものか。お前だけは絶対に逃がさない。
「ティアナ様を頼む。私は奴を追う」
ヴァンとジェンゴにあとを託すと、サキは敵の死体から剥ぎ取った革手袋、マント、兜を身に着けてツン族に変装し、傍らに落ちていたクロスボウを担ぐと、縄梯子を掴み、城壁と崖を滑り降りた。そして近くの乗り手を失った馬を捕まえて乗り、ユリヌスの追跡をはじめる。
ユリヌスは森の中に紛れて逃げている。
サキも彼を追って森へ入った。馬を失って逃げ遅れたツン族の男たちが徒歩で逃げているが、無視する。放っておいてもやがて味方に掃討されるだろう。邪魔をする敵には容赦しないが、逃げる敵、無抵抗の敵には目もくれない。
サキの狙いはただ一人だった。
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