第36話 戦場
翌朝、ライオネルの軍は盤石の布陣をしいた。兵力差を活かして軍を一万の左翼と一万五千の右翼の二つに分け、それぞれを丘の上に配置した。ツン族が得意とする騎馬突撃を仕掛けてきたら、両翼で挟撃する。丘の斜面はなだらかだが、北方民族の騎馬突撃の速度をいくらか落とすくらいの効果はあるだろう。マッセムは左翼にいた。ライオネルは右翼にいる。左翼にはあの領地を略奪された伯爵ジグルドもいる。彼は初陣のマッセムを補佐する役目だった。マッセムは王と並んで大部隊を率いていることに得意になっていた。
ライオネルに陣中の挨拶をしようと、オルセイ、マリウス、ジョゼフ、レナードを含む右翼を担う十数人の諸侯がやってくる。諸侯にはそれぞれの旗持ちの騎士が伴っており、各家の旗印を掲げて存在を主張し合っている。マッセムのところにも左翼を担う諸侯たちが挨拶に来た。マッセムは諸侯の挨拶を受けた。悪くない気分だ。自分がこの戦で左翼を総指揮したことが歴史に刻まれるだろう。
ツン族の騎馬部隊が動き出した。
「ついに来るぞ」
マッセムは興奮を覚えた。本隊である右翼に突っ込んでくるか、それともこちらの左翼に突っ込んでくるか。おや、こちらへ向かって来ている。よし。受け止めて返り討ちにしてやろう。ツン族の騎馬突撃が来ると小便をちびるほどの恐怖に襲われると聞いていたが、まったく怖くないぞ。自分の前には一万の兵士がいる。一万の軍勢が壁になっている。この分厚い壁を破ることはさすがに無理だろう。
マッセムは余裕の表情で丘の上から騎兵がやってくるのを見物していた。こんな後方で待機していては、新しい元帥は臆病者だと思われる。戦後にどこで戦っていたか聞かれて、後方にいましたでは格好がつかない。名誉のためにもう少し前線近くへ行こう。
マッセムは貴族とともに丘の斜面を下り前方へ移動した。戦闘中に後方にいたと言われないように、だけど安全が脅かされないような位置取りだ。中央より少し前くらい。この辺か。さて、事前の作戦会議での示し合わせによれば、そろそろ右翼が敵兵を挟むために動き出すころだ。右翼が陣を張っている向かいの丘を見る。
右翼が動かない。いや、動いている。ばらばらと右翼から離れて敵の反対側に向かっている部隊がある。遠目にはよくわからないが、あの旗印はオルセイの部隊だろうか。示し合わせた動きとはまったく違う。
「なぜ離れていく?」
「わかりません」
右翼から離脱する部隊は増えていき、すでに半分くらいが離脱をはじめている。ツン族の部隊も進撃を停止し、様子を見はじめたようだ。
「あれは、退却している?」
「まさか。負ける要素の無いこの戦で、なぜ逃げるのです?」
右翼から一部隊がこちらに向かってくる。
その部隊は何かの情報を左翼の兵士たちにもたらしたようだ。そして、この左翼からも離脱する部隊が出はじめた。
「一体何か起こっている? 左翼の部隊は俺の指揮下にある。命令していないのに勝手に動くとはどういうことだ? おい、奴らに持ち場に戻れと伝えろ」
マッセムが近くの騎兵に命じる。
「はっ」
騎兵が命令を伝えにいく。しかし、離脱する部隊は増えるいっぽうだ。向かいの丘を見るとすでに三分の二ほどの軍勢が離脱しており、残った軍勢はずいぶん小さな塊になっていた。やがてその塊も動き出し、逃走をはじめ、ついに右翼が完全に消えてしまった。それを見たツン族が突撃を再開しはじめた。勢いを徐々に増しながらこちらへ向かってくる。
先ほどの騎兵があわてた様子で戻ってくる。
「ライオネル陛下がご発病! 指揮を取れる状態でなくなったそうです。それで右翼の諸侯がそれぞれ軍勢を退きはじめたそうです」
左翼も崩れかけていく。前方の壁が崩れていく。逆走する人の波がマッセムの周囲にあらわれた。逃亡兵たちだ。敵に背を向けて逃げている。ジグルドが叫ぶ。
「閣下! 敵の騎馬に弓を浴びせて勢いを殺しましょう!」
呆然としていたマッセムは我に返って命令する。
「弓兵! 構えろ! 弓兵!」
しかし喧噪でやや離れた位置にいる弓隊にその命令が通ることはなく、かき消されてしまった。人の波はより大きく速くなっていく。そして前方にはツン族の騎馬隊が迫っている。
ジグルドが再び叫ぶ。
「閣下、突撃に備えなければ! 騎馬の突撃が来る!」
マッセムは何とか声を絞り出す。
「整列して槍を構えろ!」
近くの槍兵が周囲の様子をうかがい、そして逃げ出した。マッセムが逃げようとする槍兵の腕を掴む。
「おい!逃げるな!」
しかし槍兵はマッセムの手を振り切ろうと腕を退く。マッセムは引っ張られて馬からずり落ちて地面に叩きつけられた。結局槍兵はマッセムの手を振り切って逃げて行ってしまった。マッセムが地面に這いつくばりながら顔をあげると、そこには後方の兵士たちが皆逃げている光景があった。パニックが伝染し、恐慌状態になっている。もはや総崩れだ。
マッセムが振り返るとすぐそこに敵の騎馬隊が来ていた。味方の兵たちがなぎ倒され、すれ違いざまに首をはねられ、槍で突かれている。あちこちで断末魔の叫び声や雄たけびが発せられる。一体なぜこんなことに。マッセムは自分の股間が濡れていることに気付いた。尻にも温かいものを感じる。ジグルドが一人で奮戦していたが複数の騎兵に囲まれ、馬から突き落とされる。そして地面に横になったところを無数の槍で突かれている。逃げなければ。
マッセムは目の前の出来事を信じることができなかった。
「逃げるな!戦え!」
やっとの思いで喉から声を絞り出したが、それは馬のいななきや人の悲鳴や叫び声によってかき消された。目の前で部下の頭が叩き潰されている。逃げなければ。馬を後ろに向けようとするが、背中に激痛が走る。手で確かめると矢がささっていた。人生で経験したことのない痛みに声を出すことすらできない。敵の足音が近づく。ようやく声が出る。
「待て! 殺すな! 俺を生かして捕虜にすれば多額の身代金が手に入るぞ!」
しかし敵は喧噪の中で聞こえなかったのか、殺戮を楽しんでいるのか、敵の動きが止まることはない。おそらく後者だろう、敵は口に笑みを浮かべている。マッセムは多数の敵に掴まれ、馬から引きずり降ろされる。
「待て!殺すな!」
しかし敵はお構いなしに槍が突き立てられた。俺は死ぬ。今すぐここで。なぜこんなことに。父を裏切ったからか。視界の端に、自分の体に槍やら剣やらいくつもの刃物が突き刺さるのが見えた。マッセムは自分が死に追いやった父への懺悔の言葉を口にしようとしたが、それが声になる前に暗闇が訪れた。
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