第33トイレ いつまでも幸せに。ですよ?

「座りなさい。そこに」

「はい」

「はい」


俺たち二人は、運ちゃんの命令に大人しく従うことにした。

二人とも、自然と正座の形になったあたり、反省が表れてると思う。


「ふざけてるんですか本当に。拗らせすぎです!さっさとキスしてくださいよもう!」

「ごめんって運ちゃん。そんなに怒らないでよ」

「そうよ運ちゃん。怒ることでは何も生まれないわ」

「うるさいですねぇ!あなたたち、私に運ちゃんだなんて変なあだ名をつけていた時の勢いはどうしたんですか!いつのまにそんなへっぴり腰になったんです?私と出会ったころのお二人は、すぐにでもベロチューしちゃいそうなくらい、イカれた勢いを感じさせましたよ!」

「そう言ってもなぁ」

「そうよねぇ」


なんて言いながら、顔を見合わせる俺たち。

こうして隣で、目を合わせることすらも、恥ずかしくなってくる。


「な~んですかその初々しい反応は!もう!意味が分かりません!お互いに好き同士なんですから、さっさとキスしちゃえばいいじゃないですか!だって、付き合ったら、何回だってキスしますよ?結婚したら、もっともっと……」

「そんなことはわかってるのよ。あの本に書いてあったんだから」

「こんなことはあんな本に書いてなくても知っててくださいよ!全く!あのですね!二人があまりに情けないので、今日はもうゲストをお呼びしました!どうぞ!入ってください!」

「どうも~!三十代目前!だけど合コンでの釣果は全然!完全無欠の独身女子、阿岸島母で~~す!今日はお招きいただき、ありがとうございま~す!」


ドアが開き、酔っぱらいという言葉の語源になったとも言われている先生が、千鳥足で入場してきた。


「聞きましたよ綾ちゃんさん。今回の件、先生には色々相談に乗ってもらってたらしいじゃないですか」

「そうらよ~。先生ね?生徒のために働くのが生きがいだから、ちょっと頑張っちゃ、おえええ」

「いや、吐くのだけはやめてくださいねマジで」

「大丈夫!今朝の占い一位だったから、多分吐かない!」

「いや、一位だったら彼氏できてるんじゃないですか?効果ないですよそれ」

「そうだね。占いには何の効果もないと先生も思ってるよ。でも、独身で一人暮らしだとさ、朝見る占いの結果が良かったとか、しょうもない理由で、気分を上げていくしかないの。この苦しみは、ラブラブカップル日本代表の針岡くんにはわからないと思う」

「酔いが冷めたようね。さすがに家が汚れるのは嫌だったから、安心したわ」

「安心するのはキスを済ませてからにしてくださいよ!もう!」


今思うと、先生が綾ちゃんに相談していたんじゃなくて、その逆だったんだな。

そう考えると、ちゃんとした教師のように思えてくるけど、騙されちゃいけない。この人はダメな大人だ。


「先生!さきほどお伝えした通り、この初心なお二人は、全くキスをしようとしません!人生経験豊富な先生から、何か言ってあげてください」

「そうね。ここは人生の先輩として、何かアドバイスをしてあげたいところだけど……。残念なことに、先生は、生まれてから一回も、キスなんてしたことないの……」


すごい空気になってしまった。いきなり現れた二十代後半の独身女性の放つオーラは、俺たちから言語すらも奪う。


「……先生。何かはありますよね」

「ちょっと運さん?顔が怖いよ?そんなに怒らないで?先生が悪いんじゃないの。悪いのは男なんて生き物を作った神様だから」

「神を冒涜しましたね!許しません!」

「え、怒るポイントそこなの?」

「じゃあ、もう、私が手本を見せますから。お二人はそこで見ていてください」

「え」

「え」

「え」

「えいっ」


三人分の、え、が飛びだしたあと、運ちゃんは先生のあごを掴み。


なんと、キスをした。


二人の唇がぶつかり合い、柔らかく形を変える。

フリではない。間違いなくそれは、キスだった。


「……このようにですね。そっとキスをすればいいんですよ。簡単でしょう?」

「あ、あわっわ」

「先生。どうでしたか?別にキスなんて、こんな……。先生?」

「は、ひ」

「……」

「いや、運ちゃん。俺たちを見られても困るんだけど」

「そうよ。責任とりなさい。先生をあんなことにしちゃって」

「えっと、阿岸先生。このままだと私、すごく立場が弱くなるので、普通に立ち直ってくださいよ」


運ちゃんの願い虚しく、先生は顔を真っ赤にしたまま、その場に座り込んでしまった。

そんな先生を、まるでホウキで落ち葉でも払うかのように、外に追い出す運ちゃん。


「……はぁ。お二人とも。このようにですね。キスなんてのは、大した行為じゃないんです」

「いや、今明らかに誰か退場させたよね」

「そうですか?あぁきっと、綾ちゃんさんの魔法に違いないですね。もう魔力が復活したんじゃないでしょうか」

「無理ね。聖ちゃんと離れてしまったせいで、今は全く何も魔法が使えないわ。それで、さっきのアレがキスということだけど、もし好きな人としてしまったら、大変なことになるんじゃないのかしら」

「じゃあ、じゃあ!もう!どうしたいんですかお二人は!聖ちゃんさんはずっとこのままでいいんですか?追いつけ追い越せですよ!綾ちゃんさんを好きな気持ちを爆発させるんです!それから綾ちゃんさん!あなたに関しては、自分の想いを伝えてしまった以上、突っ走るしかないでしょう!何を怖気づいてるんですか!やることは一つじゃないですか!」


ついに運ちゃんが、物理的な行動をとり始めた。


俺たち二人の顔を掴み、向き合わせる。


「……そろそろ、覚悟決めようか」


ちょっとした声量で、言ってみる。


綾ちゃんは、無言で頷くだけだった。


目の前で見ると、やっぱりこの人は可愛いと思う。

真っすぐな瞳はどこまでも碧く、美しい。

白い肌は、今すぐにでも触って、自分の色に染めたいと思うほど魅力的。

お高いリップを塗ったらしいその唇は、吸い込まれそうなほど怪しい空気を放っていて……。


「覚悟?私たちは、バンジージャンプでも飛ぶのかしら」

「違う。違うけど、でも……。地に足をつけるべきだとは思うね」

「バンジーで地に足が着くってことは、死を意味すると思うのだけれど。聖ちゃんは、そういう覚悟もあるっていうのね?」

「ある、よ」

「あるのね」

「うんある」

「あるの……」

「……綾ちゃんのこと、好きだからさ」

「……」

「俺、まだ綾ちゃんに、追いつけてないのかな」

「最悪よ。好意が性欲で上書きされる時期に突入した。こんなことなら、最初の告白を受け入れておくべきだったと、今ではすごく後悔してるわ」

「そこに関しては何とも言えないところだね。でも、そう考えると、なんで綾ちゃんは、最初の告白すら断ったのかな」


最初、とは言うが、フラれナンバーを割り当てるとしたら、ナンバースリーではあるけれども。


「だって……。幸せだったのよ。好きな人に、告白されるのが。だから、もう一度告白されたいなと思った。それだけ」

「……そんなこと、だったんだ」

「そうよ、そんなことをどうにかするために、私たちは何年も無駄な時間を過ごしてしまったの。今私たちを睨んでいる運ちゃんを怒らせてしまうくらいに」

「ほんとですよ。まだ無駄話するつもりですか本当に」

「いや、さすがにもう……」

「そうね。私、とっくに聖ちゃんが欲しくなってるもの」

「……いい表情してるじゃないですか。二人とも」


確かに、目の前の綾ちゃんは、いつもより艶っぽい表情をしているように思える。

だとすると、俺はエロい顔になっているのだろうか。

それは……。嫌だな。


でも、キスはしないと。


「……俺から、する?」

「どちらでも」

「俺は、どっちのパターンも捨て難いな」

「じゃあ、同時っていうのはどう?」

「同時?」

「カウントダウンして、するの」

「……いいかもね」


俺は、綾ちゃんの肩に、手を置いた。

綾ちゃんは、そんな俺の肩に、手を添えている。


「いくよ。さん」

「に」

「い……」


いち、は、俺が発するはずだった。

だけどそれは、物理的な手段で妨害された。


物理的という言葉を使うには、あまりに柔らかすぎる。そして、優しすぎる感触。


そして、にっこりと、イタズラっぽく笑う綾ちゃん。


「不意打ちよ。こうすると良いって、本に書いてあったの」


運ちゃんよ。何てものを渡してくれたんだ。


そう抗議しようと、横を見た俺だったが。


もうそこに、運ちゃんはいなかった。


その代わりに、一枚の水色のハンカチが……。

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