第3話 ストップボタン

今は昔の出勤時のはなし。

駅までのバスに乗るとき決まって仲のよい父と娘が乗り合わせる。

娘は制服姿で丘の上にある有名な私立の女子学園に通っているのが解る。

父親の方はラフな格好をしたり、背広ネクタイであったりで、正体不明であるが、中流以上の収入であることは推測できる。

それはとにかく、この二人は仲が良い。

そのうえ、バスの停留所までは毎朝お祖父さんが孫のために荷物を持って見送りに来る。

さて、この父と娘だが、バスの中で毎朝ひとつの楽しみがある。

それは、駅前で停車するということを示すためにバスの停車ボタンあるいは、ストップボタンというのか、正確な呼び名は知らないけれど、とにかくそのボタンを押すのが楽しみであるらしいのだ。

駅までは乗車してから四番目なのだが、三番目の停車場を通過すると間髪を入れずにボタンを押しては今朝も自分たちが押せたことの満足感に浸って、思わず二人は見つめ合い、そして頷き合うのだ。

詳しく説明すると、乗って一番目が警察署前、二番目が八幡(やわた)橋(ばし)、三番目がプールセンター前、そして四番目が根岸駅前である。

プールセンター前を通り過ぎるとすぐにボタンを押すのが楽しみなのだ。

大袈裟に言えば二人は生きている証を確認しあっている風であった。

私は通勤で同じバスに乗るたびに必ず目にすることができていた。

ところが、である。

この父娘にとってささやかな幸せが奪われる事態がある朝起きた。

いつものように三番目の停車場をバスが通り過ぎようとして、娘がボタンを押そうとした瞬間、バスの中の他の誰かがそれより数十分の一秒差でボタンを押してしまったのだ。

ピンポーンという音とともにストップボタンは赤く点灯してしまった。

父と娘は残念そうに互いを見合った。

娘は右手の中指の爪を噛んでいた。

翌朝、いつもの時間のバスに父と娘は乗ってきた。

一番目の停車場が過ぎ、二番目も通過した。

ところが珍しく三番目プールセンター前で停車のリクエストがされた。

ピンポーンと鳴ってしまった。

こんなところでいったい誰が降りるのだろうかとバスの外を見たところ、例の父娘が降りた。

そして二人は足早に駅の方に歩いて行った。

娘が焦って三番目の停車場を過ぎる前にボタンを押してしまったのだ。

間違えたことを運転手に言えば良かったのに二人はボタンを押した責任を取った。

その朝は雨が降っていて父親が娘の傘と荷物を持ちながら自分の傘に娘を入れて歩く姿がそこにあった。

二人の入った傘に降っている雨の粒、ひとつひとつが優しく踊っていた。

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