第2話 お世辞のつもり
或る場末の小料理屋。ママは夕立後、暇な時間を持て余して頬杖を突いていた。
そこへ多少くたびれた感じのサラリーマンが入って来た。
今日初めての客だった。
その客、年の頃は四十半ばの一メートル六十センチそこそこの小柄で太り気味の体はいかにも暑苦しそうに見え、肩で息をしながら入ってきた。
それでもこの暑いさなかにも背広を着、ネクタイは緩めながらもちゃんと着けているのは真面目な性格と小心なところを窺(うかが)わせた。
このサラリーマン風のおっさんはカウンター席に腰を下ろし、先ずはビールをと右手を上げて頼んだ。
おしぼりを受け取ると、このおっさんも例に洩れず、誰に急かされるのでもないのに、忙しい動作で、先ずは顔を拭(ふ)き、首筋を拭(ぬぐ)い、両腕を拭(ぬぐ)った。
肴に箸を運び、ビールを一息に飲んでから、この店にはまだ自分とママさんしかいないのにふと、気がついた。
チラッとママさんの方を見て、ここは話し掛けるきっかけか、お世辞のひとつも言わなければと思った。
ママさんは四十を過ぎたばかりのチョッと見のいい女だった。
このおっさんは女の人それも初対面の相手に話しかけるのに可なりの勇気が要るタイプらしかった。
カラオケを一人で歌うのも気恥ずかしいし、それに未だ陽が高かった。
それでもこの場の雰囲気から、何かお世辞のひとつでも言わなければという強迫観念に追い込まれた。
ほんのお世辞のつもりにも拘らず勇気を振り絞って生唾(なまつば)を飲み込むようにして話しかけた。
「ママさん。」(ゴックン)
「えっ。何でしょう。」ママさんは聞き返した。
このママさんは常連には「相変わらず綺麗だね」とか、一見の客の助平ったらしいのには「若い時から随分男を泣かせたんじゃないの」、くらいは言われた経験が少しはあった。
今回もそんなところだと思っていたが妙に緊迫した雰囲気だ。
おっさんはビールを飲んだばかりというのに乾いた感じで焦って言った。
「ママさん。昔は若かったん(・ ・ ・ ・)だろう(・・・)ねえ。」
それを聞いたママさん、少し照れたようにして品をつくり、半身に構えて片手を振りながら言った。
「お客さん。いやですよ。お上手ばっかり。」
すぐにおっさんは変なことを言ったなと、気がついた。
しばらく沈黙の時間が過ぎた。
ママさんの方もまた言われたことが何か間違っていて、それに対して間違った反応をしたことに気がついた。重苦しく、気まずい空気がカウンター越しに二人の間に流れた。
しばらくは互いを見合っていたが、このおっさんはやがて何かを思い出したようにして、お絞りで顔をせわしなく拭った。
そして、急いで勘定を払い、転びそうになるほど躓(つまづ)きながら出て行った。
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