第3話 桜と青葉の下で
私は志望校に合格した。この世で一番の幸せ者だと思った。志望校の学校説明会のとき、勉強に関しては最高の環境を与えてくれるので、学習塾に通う必要もないという説明を受けた。なにより中学時代の学習塾にいた、志望校の先輩の話では、課題が多すぎて塾の勉強などする暇もないとのことだった。それは本当だった。
高校に入るとすぐに友達ができた。私を含め5人で、いつもお弁当を食べていた。みんな真面目だったので、休みの日に遊びに行ったりするようなことはなく、その関係が心地よかった。共通の趣味があるというわけでもなかったが、彼女たちの近くにいることは居心地がよかった。私ともうひとりの友達は、文芸部に入った。私は中学校でも文芸部で、人数が少なすぎて部長もやっていたので、その経験を先輩たちは頼りにしていた。
勉強ばかりの日々であることには変わりはなかったが、私は充実した生活を送っていた。そのころには震災のニュースを忘れていたわけではなかったが、記憶の片隅にある程度だった。志望校は英語に強い学校で、課題として月2冊程度の洋書を読むような学校だった。私は英語が得意で好きだったので、それを理由にその高校を選んだようなものだった。中学校であった英語のスピーチコンテストで私は準優勝だった。英語は勉強をほとんどしていないにも関わらず、成績は50番以内だった。理系科目は散々だったが、なんとかやっていた。英語の先生にはよくほめられた。「どんな勉強をしているの?」と聞かれたので、「学校の課題のほかには毎日BBCニュースを読んでいます。」と答えると、先生は嬉しそうだった。
そんな環境だったが、ひとつだけ課題があった。1年生の教室は4階にあり、そこまでの階段を上ることがとても重労働だったのだ。4月はなんとか上れていたが、5月になったころには階段の踊り場ごとに休んでいないと、教室に行くことすらできなくなっていった。6月になったころには、踊り場でしゃがみこんでしまうので、見かねた先輩たちが教室から椅子を持ってきてくれるようになった。椅子で休んでいて何とか上に上がる回数が、週1回が2回に、2回が3回になっていった。
先輩たちは優しかったが、担任はとても厳しかった。「階段すら上れないなんて、君は甘えている」とよく言われた。
毎朝なるべく早く家を出ていたが、遅刻する回数が増えていった。遅刻を繰り返し、担任には嫌な顔をされた。それでも平均すると成績はなんとか中程度を保っていたので、成績に関しては「頑張ってね」くらいで済んでいた。
朝起きられないのだ。体が動かず、目覚まし時計が鳴ってから15分は布団から出られなかった。やがてその15分は30分になっていった。
志望校に通うことは、親にとっても悲願だったようだ。そんな親の期待を背負っていたので、とにかく毎日学校に行けと言われていた。朝起きるのが間に合わなかったら、強制的に布団から引きずり出された。それはもはや日常茶飯事になっていた。私は幼少期から体力がないほうだったので、私も親もこの体調の変化は、その延長線上にあるものだと思っていた。それでも私はこれはどこかに震災の影響があるとも思っていた。
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