第2話 祈りと落胆のはざまで

その地震が起きてから数日は、とにかく毎日テレビを見ていた。ニュースを見るたびに増えていく、亡くなった方の数字。なすすべもなく、ただ祈ることしかできなかった。当時はインターネットの環境すらなかったので、SNSに何かを投稿することすらできなかった。情報はテレビと新聞頼りだった。

時間が経つにつれて震災の悲惨さが伝わってきた。ただリモコンを持ったまま私は呆然としていた。家族はといえば、何事もなかったかのように日常生活を送っていた。呆然としている私にも気づいていないようだった。

1週間が経った頃、これ以上の情報もなくなったのか、その地震についてのテレビでの報道は減っていった。それでも私は当時に見たテレビの映像の悲惨さを忘れることは決してできなかった。忘れないこと。覚えていること。それくらいしかできることがなかった。忘れていないだけでもそれは何もしていないこととは違うと、私は非力な自分に必死に言い聞かせていた。傍観者にだけはなりたくなかった。


9月になり、夏季休暇が終わった。私の通っていた中学校では、毎年夏季休暇が明けるとすぐに、合唱祭への練習が始まるのが慣例だった。学校の合唱部は強豪で、全国大会にも出場することもよくあった。そのためか音楽を担当する教師はとても真剣で、特に合唱部の生徒は本当に熱心だった。私も音楽は好きで、合唱にはそれなりに取り組んでいた。

目に見える異変が現れるようになったのは、その頃からだった。合唱は基本的に立ったまま練習するため、授業中ずっと立っていることが多かった。その「立っている」ということが難しくなっていた。目眩や動悸がするので、その場にしゃがみこんでしまうこともあった。先生は優しい方だったので、座ったまま練習に参加することを許可してくれた。それはおそらく、同じクラスによく失神してしまう子がいたからだろう。彼女は5分と立っていられず、意識を失ってしまうようだった。体育館で練習するときなどは、私は彼女の隣にいた。そこにしか椅子がなかったからだ。ちなみに私と彼女は幼稚園のときからの付き合いで、親子ともどもに仲が良かった。彼女の病名は、今でも知らないし知ろうとも思わない。


合唱祭が近づき、級友たちもより熱心になっていた。日が経つにつれて私のその症状は悪化していき、やがて教室を移動する際に時間が無くなったとしても走ることすらできなくなっていた。だから私は授業が終わると一番に教室を出て、次の授業に合わせてゆっくり廊下を歩いていた。学校側も理解をしてくれていたので、少し授業に遅刻しても寛大に扱ってくれた。


10月も終わろうとしているある日、その国でまた地震が起きたと知った。亡くなった方はいなかったようだが、夏の地震で被害が少なかった街にも大きな被害が出てしまったようだ。


合唱祭は無事に終わった。彼女は本番の舞台で用意された椅子に座って歌った。私はそこまででもないと自分で判断し、先生の勧めを断って立ったまま歌った。私達のクラスは金賞だった。みんな喜んでいた。

合唱祭が終わるとすぐに受験モードになった。私は集中できない頭を抱えたまま、受験勉強を続けた。効率が落ちる分は勉強時間を増やして対処した。午前4時に起きる日もあった。布団に入るのが深夜になることもあった。そうやって私は何とか受験勉強を続けていた。


結局、私はその志望校に合格することができた。しかし、私を待ち受けていた高校生活は、順風満帆なものではなかった。

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