STELLA HITEN

渡利

紅龍王善女

 むかしむかし、東のとある小さな里村で語り継がれてきた伝説があった。


―――時は大正。東京からかなり東の奥地に、ひっそりとトビタツ村はあった。

 トビタツ村は自然豊かな環境にあり、村は田畑が広がっているなか、村人の住居が十数件。村の周りは円状に、守られているかのように森で囲まれており、辰子川が南から穏やかに流れていた。

 その辰子川の水源をたどると、村から見て、だいたい南東の方角にトビタツ村の象徴でもあるタツノウ山が聳え立っていた。このタツノウ山の中腹には、樹齢千年にも及ぶとされる、古い紅梅の大木があった。

 古木といえども、その幹回りは村の男衆が腕を広げても五人は必要なほどで、枝は天を覆うかのごとく伸びやかで、その根は山全体に張り巡らされていると言われるほど。とにかくこの梅の木は立派な荘厳さをたたえていて、毎年春を迎えるとたいへん美しい紅の花を咲かせた。

 この村は規模こそ小さいが、村人はたいへん真面目な人柄で、田畑を耕し、馬を育て、山で伐った薪木を売るなどして生計をたて、村の自然に寄り添った、堅実な暮らしを送っていた。


―――季節は春。

 タツノウ山の中腹が紅色に染まり始めた頃、中央から商人が山を越えてやってきた。長旅で疲弊していると言う商人に、村長は一晩だけ村に一泊させることにした。

 村長は商人を自分の家に招き入れ、村人とともに彼を少ない蓄えでもてなしたおかげか、ずいぶんと気分が良くなった商人は商談を持ち掛けた。

「この村へやって来る際に、あの山を越えたんだがなぁ、いやはやとても苦労したよ。しかし中腹あたりだったかねぇ。見事な紅梅があったじゃあないか。ありゃあ、たいへん良い木だ。東京の材木屋が土下座してでも大金をはらってくるよ。いい値で買うから、あたしに売ってやくれませんかねえ。」

 村長たちはもちろん断った。あの紅梅を中心に農耕を営んできた村人たちにとって、なくてはならぬものであり、満開時には花の下で祭りを開いたり、とても親しまれてきた。


 商人はその答えをのんだが、一応胸にとどめておいてほしい、とのことだった。


 皆が寝静まった同じ夜、とつぜん村長宅を訪ねてきた者がいた。最初、村長は村人の誰かと思い戸を開けた。

 しかし、訪問者は見知らぬ女性だった。

その女性は息を飲むほどに美しく、おそらく高貴な身分の者なのだろうか。艶やかな黒い髪を簪でまとめており、立派な紅色の着物を召していた。射干玉の瞳を湛えた彼女は厳かな雰囲気を醸し出し、それはもう薄暗い月明かりの中でも光り輝くような存在感であった。

 村長が美女に見惚れてしばらく呆けていると、彼女は困ったように口を開いた。

「ここに中央から来た商人が泊まっていると聞きました。くわえて、タツノウ山の梅の木を売ってくれと頼んだと…」

 雲雀のような美しく、しかし悲しそうな声で、女性は村長に梅の木をこのままそっとしておいてほしいと嘆願した。あまりのことに夢うつつの中だと思った村長は女性の願いを受けた。それを聞いた女性はどこか安心したような顔をして、山へ去って行った。


 次の年、トビタツ村には春が訪れたが、タツノウ山の梅は花を咲かせることはなかった。村人は少し不安に感じたが、樹齢千年の梅。

 こんなこともあるさ、と特に心配はせず、村長も美女のことなどすっかり忘れてしまっていた。


 夏を迎えたある日、トビタツ村にまたあの商人が部下を引き連れ、山を越えてやってきた。何でも商人は東京で商売を大成功させたそうで、去年訪れたこの村の梅の古木のことが諦めきれず、わざわざ大金を持って買いに来たのであった。

 今年の猛暑で作物の塩梅が落ち込み気味の村にとってこの話は非常に美味しいものではあったが、やはり梅の木は村の財産。はっきりとは断れず、今年の秋の収穫期が終わるまで、しばらく考えさせてもらえるよう村長は商人に話した。商人は嬉しそうに東京へ戻って行った。

 その日の夜、また村長宅のもとに例の美女が訪れた。村長は驚きを隠せないまま美女を家へ招き入れた。女性はまた憂いを帯びた表情をしていたが、前の年に出会った時の見事な紅色のものではなく、新緑を思わせる青い着物姿であった。

 女性の要求は以前と同じで、加えて梅の古木を伐採せず、売らないでほしいとのことだった。

 村長は商人に答えた旨を美女に伝えた。彼女はひどく落ち込んだが、また梅の木に何かあったら訪れると村長に一言残し、タツノウ山へと帰って行った。


 次の日から、タツノウ山の梅には葉が芽吹くことはなかった。

 

 同じ年の秋、トビタツ村は大凶作に襲われた。夏の厳しい暑さに川の水も少なくなり、土も干上がり、作物が育たなくなってしまったのだ。馬にも餌を十分与えることができず、また、蓄えも底をつき、村人も食うものに困ったばかりにその馬を潰して食べてしまい、トビタツ村の財や生活は、非常に厳しいものになってしまった。

 そんな時、約束をしていた商人が大勢の部下を引き連れて山を越え村へやってきた。夏に訪れた時とは一変したトビタツ村や村人の様子に驚いたが、梅の古木を売却するかどうかの答えを村長・村人たちに聞いた。相談せずとも、答えは決まっていた。


 村は、タツノウ山の梅の古木を商人に売ることにした。


 伐採作業にあたって、商人が連れてきた業者や村の男衆たちはその太く逞しい古木の幹に斧を振りかざした。この古木は昔から決して切り倒すことはできないと言われてきたが、このときは意外とあっさり、斧が届いた。


 トビタツ村はこの梅の古木を商人たちに売ったことにより、その巨万の富のおかげで以前にも増して栄えた。しかし、それに頼ってばかりでいたため、いつしか村人は田畑を耕すことをやめてしまった。

 また、タツノウ山の中腹には、古木の切株が、春になっても誰も訪れることがなくなったまま、ひっそりと残っていた。


 村長や村人がすっかり梅のことなど忘れてしまった頃、村人たちを集めて宴会を開いていた村長宅に、あの美女が再び訪れてきた。

村長は驚きと共に、女性に対してなぜだか罪悪感と恐怖を覚えた。その場に居合わせた村人たちも、突然の来訪者に驚きを隠せなかった。

 なにより、村長がおかしいと感じたのは、裕福になった村人たちの豪華な衣服とは対照的に、女性は前と変わらない美貌を持ちながら、着物はあの美しいものから比べてみすぼらしいものになっていたからである。

 村長や村人たちは女性を招き入れもてなしたが、彼女は悲しそうな表情のままであった。

 しばらくして、女性がしくしくと泣き崩れてしまったため、村人たちは慌てて慰めたが、泣き止まない。とうとう村長が泣く理由を問いただした。

 しかし、女性は一瞬で泣き止んだかと思うと、厳しい顔で、凛とした良く響いた声で言った。

「村の皆は、急いで村境の端まで避難するように。今すぐに!」

 その瞬間、タツノウ山の方角から獣の唸り声のようなものが聞こえてきた。やがてそれは地響きへと変わり、村長は村人をすぐさま山とは正反対の方向にある村境の端まで避難させた。

 そこで村人が見たものは、タツノウ山にもがきながら暴れ狂うおそろしい龍神の姿であった。龍神が暴れたところからは土砂が流れ、村の土地をほとんど覆いつくしてしまった。幸い、山から遠くに逃げた村人全員は皆ケガもなく、無事だった。

 龍神の動きが止まり、安心した瞬間、龍神は勢いよく山から離れ、天へと昇って行った。

 あまりの出来事に村人たちは騒然としたが、梅の化身であった女性が姿をくらませていたことに気付いたのはしばらくした後であった。


 一月後、山が落ち着いた時を見計らって、村の男衆が山の中腹まで行き、梅の古木があった場所を訪れた。

 しかしそこには、あったはずの切株から根まで跡形もなく消滅しており、その代わりに巨大な穴ができていたのであった。


 後に、トビタツ村は復興を重ね、土砂がもたらした養分のある山の土のおかげで土壌が潤い、農業を再開。村も、村人たちも、もとの堅実な生活へ戻って行った。


 村人たちは自分たちの戒めと、心優しい紅梅の精に感謝の意を忘れないため、古木があった場所に梅の木でできた天女像を祀った。

 あの山から天へ飛び立った恐ろしい龍神は、紅梅の精が切り倒された紅梅の無残な切株と根が姿を変えたものだった。紅梅の精は、さんざん酷い仕打ちをしてきた村人を責めず、憎まずに、この村を去るその時まで彼らを守ろうとしたのだ。


 その跡地である巨大な穴は、やがて時が経つと池になった。

 この池は村人たちに「紅竜ヶ池」と呼ばれ、春が来ると池の水面を美しい紅色に染めたという。

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STELLA HITEN 渡利 @wtr_rander

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