第32話 壊れた偶像

 目の前で父が死んだ事で茫然自失となっていたティナだが、突如イサークが救援に現れた事、そして……ライアンが事もあろうに自らの身体に『ABCS抗体』を打ち込んだ事で、彼女の意識は完全に現実に戻ってきていた。


 『ABCS抗体』を奪い合って争っていたイサークとヴァイスが、共に素っ頓狂な驚愕の叫びを上げる。彼等の、そしてティナの視線の先には、抗体を打ち込んで痙攣するライアンの姿があった。


 ティナには何が起きたのか分からなかった。


(ラ、ライアン……一体何故!?)


 だが彼女が唖然としている間にも事態は進む。痙攣が治まったライアンは、ティナとイサークの両方に交互に視線を向ける。そしてまたあの嫌な笑いを浮かべた。



「ああ……解るぞ。僕と『マザー』が繋がってるのが。これが『ABCS』の力か。素晴らしいじゃないか」



 先程まで暴走寸前だった『マザー』や他の子蜘蛛達がいつしか落ち着きを取り戻していた。新たな『王』が誕生したからだ。


「おい、坊主……。打っちまったモンは仕方ない。お前が蜘蛛共を取りまとめてこれ以上被害が出ないようにするんだ。その間にこいつらを殲滅する方法を考える。いいな?」


 イサークが慎重な様子で語りかけるが、ライアンはそれに答える事なく薄笑いを浮かべている。不穏な様子にティナは不安に駆られる。


「ラ、ライアン……?」


 ティナの声に反応したライアンが彼女の方に顔を向ける。彼と目が合ったティナは背筋に寒い物を感じた。


「先生……いや、ティナ」

「……っ!?」


「ずっとこう呼びたかったんだ。僕は今まであなたに尽くしてきた。この旅にだって同行して……。それはいつかあなたが僕を男として意識してくれると思っていたからだ。でもあなたは……そんな僕の今までの献身を無視して、会ったばかりのどこの馬の骨とも解らないゴロツキに心を許して、惚れ込んで……」


「そ、それは……」


 ティナも自分の心に嘘を付く事は出来ない。イサークを意識している事は今では自分自身でよく解っていた。だがよもやライアンからそのような事で糾弾されるなどとは思ってもみなかった。彼がそこまで自分に懸想していると気付いていなかったのだ。



「あなたがそんな尻軽の売女だとは思わなかった。あなたには失望したよ、ティナ」



「……っ!!」

 心無い暴言にティナは衝撃を受ける。反対にイサークが怒りに眉を吊り上げる。


「おい、坊主……。言って良い事と悪い事の区別も出来ないのか?」


 だが彼の怒りを受けたライアンは、不遜な表情で鼻を鳴らした。


「お前だ。お前が全ての元凶なんだ。お前さえいなければティナが『穢れる』事は無かったんだ」


「……!」

 身勝手な言い分にイサークは目線を鋭くする。ライアンがイサーク達を指差しながら化け蜘蛛達に怒鳴る。



「さあ、『王』の言う事を聞け! 奴等を一人残らず殺して貪り食え! 外にいる奴等も全員だ! ただし『彼女』だけは殺すな。あれは僕の物だ」



「ラ、ライアン!? あなた……」


 明確な殺意を口にしたライアンの姿に衝撃を受けるティナ。そして自分を見る彼の目が今までのような思敬に満ちた物ではなく、浅ましい欲望に染まった醜いそれになっていた事にも。


 しかしそんな彼女を嘲笑うように、ライアンの命令を受けた化け蜘蛛達が叫び声を挙げつつ迫ってくる。



「くそ、あの坊主……完全にイカれたか! いや、押さえつけてた箍が外れたと言うべきか。とにかくもう説得は不可能だ! 一旦逃げるぞ、ティナ!」


「あ……!」


 イサークがティナの脇に手を差し入れて強引に立たせる。そして迫ってくる化け蜘蛛にリボルバーを撃ち込んで牽制する。そうしながらティナを抱えてライアンから距離を取るように逃げる。


「おぉ……おのれぇぇっ!! あの小僧め! 退けっ! 俺達も一旦退くぞっ!」


 直前で『ABCS抗体』をライアンに掠め取られて呆然自失の体であったヴァイスも正気に戻ると、悪鬼の如き形相でライアンに銃を向けるが、その時には何匹もの化け蜘蛛が間に入ってライアンの盾になっていた。


 ヴァイスは割れんばかりに歯軋りする。どの道『王』を殺せば再び蜘蛛共の暴走を招くだけだ。今はこの場からの離脱を優先したヴァイスは部下達に怒鳴りながら、自らも撤収に移る。



「馬鹿が、逃がすと思うか? 出入り口を封鎖しろ! 奴等を追い詰めるんだ!」


 彼等の動きを見たライアンが口の端を歪めて蜘蛛達に指令を出す。イサーク達が入ってきた通路に続く出入り口に『成体』が陣取って塞ぐ。その間に周りから子蜘蛛がどんどん包囲して殺到してくるので、必然イサーク達は洞窟の奥に逃げざるを得なくなる。


「くそっ! ティナ、こっちだ!」

「……っ」


 左手でティナを抱えたまま右手でリボルバーを撃って蜘蛛を牽制しながら洞窟の奥に後退するイサーク。ヴァイスとその部下達も、ライフルで掃射しながらティナ達と同じ場所に逃げてくる。


 だが洞窟の奥は袋小路になっているらしく、出口が存在していなかった。ゲリラ達は必死にライフルを掃射して化け蜘蛛達を牽制するが、迫ってくる怪物の数が多すぎて、遂に3人のうち1人が子蜘蛛に飛び掛かられて喉笛を噛み切られた。 


「ちぃぃっ! くそ! くそがっ! こんな事になろうとは……!」


 ヴァイスが悪態をつく。だが他に逃げ場がなく追い詰められている状況ではそれ以上の事が出来ない。イサークの顔にも焦燥が浮かぶ。ヴァイス達はどうでもいいが、このままではイサークも殺されてしまう。ティナ自身は殺されないようだが、ライアンのあの様子からして下手をすると殺された方がマシな運命となる可能性もある。


(な、なにか……助かる方法は……!)


 そこまで考えた時、ティナは父コンラッドの最後の言葉を思い出した。彼がティナの耳に顔を近づけヴァイスにも聞こえないように囁いたダイイングメッセージ。


「……!!」

 ティナは目を見開いた。そして横でリボルバーの弾を素早く込め直しているイサークの顔を見上げた。



「イ、イサーク……聞いて! 父が最後に教えてくれたの。『マザー』の下には『毒』を隠してあるって……」



「何……毒だって!?」


 イサークが目を剥く。いや、彼だけでなくヴァイスも驚愕して振り向いていた。


「そうか……コンラッドの奴、いざという時は蜘蛛共を殺せる手段を開発していたのか。だが研究者としての性質が邪魔してそれを使う事が出来なかったようだな。俺には抗体を渡せんと善人ぶっておきながら、奴も結局は俺の同類よ」


「……っ」

 その父を直接殺した男の嘲笑に、ティナは再び射殺さんばかりの視線を向ける。だがヴァイスはそれを意に介さず肩を竦める。


「だがその『毒』とやらの在り処が解ったところでどうなる? 『マザー』のいる場所はあの押し寄せてきている化け蜘蛛の群れの向こうだ。あの小僧、俺達を嬲ってるつもりか一気には攻めてこないが、こっちから飛び込んだ場合は別だ。あっという間に蜘蛛共に群がられて、一瞬で強制ダイエットさせられるだろうさ」


 その問題を指摘されたイサークはしかし不敵な笑みを浮かべる。



「いや、そうでもない。距離自体は大した長さじゃない。突破できるはずだ。……俺とお前が組めばな」



「……っ! 貴様、本気で言っているのか?」


 ヴァイスがイサークの正気を疑うような目付きになるが、彼は至って真面目な様子だ。


「勿論だ。奴等の動きや弱点は粗方解っている。お前だってしばらく奴等と暮らしてたし、兵隊として使うつもりだったならその辺は見抜いてるだろ? お前の腕が錆び付いてなけりゃ行けるはずだ。違うか?」


「ふ……くく……。確かにこの状況ではそれしかないか。俺は『現役』だぞ? 貴様こそ自堕落な生活で鈍った身体でかつての動きが出来るのか?」


 他に選択の余地がない事を理解しているヴァイスは、イサークの提案に一瞬驚いたものの、それほど抵抗なく了承した。


「運び屋の仕事はお前が思ってるよりハードでな。むしろ更に研ぎ澄まされてるさ」


 イサークはこんな状況ながら苦笑して、全弾装填し直したリボルバーを構えた。そして一度だけティナの方を振り返った。彼女は不安そうな、それでいて少し気まずい表情で俯いた。


「イ、イサーク、ごめんなさい、私……」


「解ってるから何も言うな。いきなりあんな過去を聞かされたんじゃ誰だってああなるさ。もしこれが無事に終わって生きて帰れたら、必ず全部説明する。いや、その為にも必ず生きて戻る。だから……信じて待っててくれるか?」


「……!! 解った、待ってるわ。必ず……無事に戻ってきて」


 ティナにも、この状況を脱するにはイサーク達に賭けるしかない事が解っていた。愚図る事無く、死地に赴くイサークを見送る。イサークもまた彼女を安心させるように不敵に笑って頷いた。


 因みにティナ自身は何も出来ない上に、相変わらず後ろ手に手錠を掛けられたままの状態なので勿論この場で待つしかない。


 ヴァイスの部下の生き残り達がティナと一緒にこの場に残りつつ、銃撃でイサーク達を援護する役目となった。


 化け蜘蛛達はこちらをじわじわと嬲るように包囲を狭めてきていたが、一気に襲い掛かってはこない。ライアンの意思は恐らく先程ヴァイスが言った通りなのかもしれないが、結果的にその余裕がイサーク達の反撃を許す隙を与えた。


 いや、まさかコンラッドがそんな切り札を用意していたとは、ライアンにも想像が付かない事ではあっただろうが。



「よし、始めろ!」


 ヴァイスの合図と共に、部下のゲリラ達が一斉にライフルの掃射を始める。そして化け蜘蛛達が僅かに怯んだ隙を突いて、イサークとヴァイスが群れの合間を縫うように突入していく。


(イサーク……無事に戻ってきて! パパ……彼を守って。お願い……!)


 化け蜘蛛の群れに突っ込んでいくイサークの後姿を見送りながら、ティナは心の中で必死に祈り続けた……

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