第33話 王国の終焉

 ヴァイスの部下達の掃射で、僅かだが化け蜘蛛達の包囲が崩れる。その隙を逃さずイサークは一切躊躇う事無く、怪物の群れの中に身を投じた。ティナに過去の出来事を説明する約束をした事が彼の原動力になっていた。彼女に誤解されたまま死ぬ気はない。何としても生きて戻るのだ。


 群れの先頭にいる子蜘蛛の間を縫うようにして進むイサーク。だが……


「……! 馬鹿め、無駄な足掻きを! もう遊びはお終いだ。あの男を殺せっ!」


 イサークの動きに気付いたライアンが指を差しながら怒鳴る。『王』の命令を受けた化け蜘蛛達が叫び声を上げてイサークに殺到してくる。


 だが彼は慌てる事無く冷静に、迫ってくる怪物達の動きを見極める。そして口の端を吊り上げた。


(ふ……坊主。ただ殺せって命令するだけじゃ、こいつらは考えなしに突っ込んでくるだけだ。この限られたスペースの中でそれは悪手だぜ?)


 イサークは自分に向かってくる化け蜘蛛の動きを見ながら、その巨体に似合わぬまるで軽業師のような動きで巧みに化け蜘蛛の攻撃を躱しながら進んでいく。イサークの動きに翻弄された化け蜘蛛は彼を捉えきれずに、むしろ密集している中で他の個体に攻撃を当ててしまう者も出始める。


 既に何度も戦っている相手だけに、イサークは化け蜘蛛の動きの癖やその視野の範囲などを見切っていた。自分に向かってくる敵だけを正確に見極めて、巧みにその死角に入りながら周囲の個体にリボルバーを撃ち込んで牽制しつつ、着実に『マザー』に向けて近付いていく。


 だが少数ならともかく、相手は数に物を言わせて、仲間の身体を踏み越えるようにして襲い掛かってくる個体もいる。流石のイサークも全ての攻撃にまで対処しきれなくなるが、


「ふん!」


 イサークの背後から襲い掛かろうとした子蜘蛛の急所をヴァイスが撃ち抜く。彼もイサークに遜色ない立ち回りで化け蜘蛛の攻撃を躱しつつ追随していた。どうやら十年前から腕が落ちているという心配は杞憂だったようだ。手応えを感じたイサークは口の端を吊り上げた。



「くそ! たった二人に何を手間取ってる、役立たずどもめ! 何をする気か知らんが、それ以上はやらせないぞ! 行けっ!」


(……! 来たな!)


 業を煮やしたライアンが、今まで自分の親衛隊宜しく身辺警護に就かせていた二体の『成体』に命令を下した。出入り口を塞いでいた『成体』も向かってくる。合計で三体の『成体』だ。


 ある意味ではここからが正念場だ。だがイサークには充分勝算があった。というより出来ていた。


(坊主……お前は指揮官としちゃ下も下だ。俺達を甘く見て自分の身の安全を優先して、そいつらを投入するのが遅すぎたな)


 もし抗体を打っていたのがヴァイスだったら、自分達は抵抗の余地なく効率的に追い詰められて殺されていただろう。『王』になったのが素人で化け蜘蛛の生態にも詳しくないライアンであった事が、この場ではむしろ不幸中の幸いであった。


「奴等は俺に任せろ。貴様はさっさと『マザー』の元へ向かえ」


 同じ事を思ったらしいヴァイスがイサークを促す。


「いいのか? 『成体』三匹だぞ?」


「ふん、足止めするだけなら可能だ。むしろ『マザー』の相手をする方が遥かに危険だ。奴は糸を大量に吐きつけてくるぞ。捕まったら終わりだから注意しろ」


「ご忠告痛み入るね」


 短いやり取りを経て、ヴァイスが迫ってくる『成体』へと向かっていく。イサークはその間に『マザー』の元へ駆ける。因みに他の子蜘蛛達はティナの所にいるヴァイスの部下達が銃撃で牽制してくれている。


 『成体』が次々にヴァイスに襲い掛かるが、彼は巧みに回避に徹して、しかし距離が離れて『成体』がイサークの方に向かおうとすると、それを妨害するように急所に銃撃を加えてヘイトを引き付ける。流石、言うだけはある腕前だ。



 イサークはその間に、遂に『マザー』がへばりついている岩壁近くまで到達していた。近くで見ると尚更その巨大さが際立ち、却って現実離れし過ぎていて恐怖を感じなかった。


 だが『マザー』は間違いなく現実の存在だ。自らに接近してきた不遜な獲物を感知した『マザー』は、その長大な歩脚をワサワサと動かして身体の向きを変えると、イサーク目掛けて巨大な大顎を開いた。


「……っ!」

 考えるより先に身体が動いた。『マザー』の口から白っぽい粘液のような糸が吐きつけられるのと、イサークが横っ飛びに身体を転がしたのは、ほぼ同時であった。ネバネバした糸の塊は一瞬前まで彼がいた場所の地面をくまなく覆った。かなりの量だ。こんな物をまともに喰らったら、あっという間に動けなくなって『マザー』の餌になるしかなくなる。


(こいつは厄介だな。早いとこその『毒』ってヤツを見つけないと…………っ! あ、あれか!?)


 目を皿のようにして探すまでもなく、それらしき物を見つけたイサーク。コンラッドが隠していた『ABCS抗体』を取り出した場所。そこにはもう一つ黒っぽい色のケースが置かれていた。見るからに怪しい。明らかにあれがコンラッドの示唆していた代物だろう。


 『マザー』が再び糸を吐きつけてきた。イサークは前に飛び込むようにして前転して躱しながら、『マザー』に向けてマグナム弾を撃ち込む。


「ギギィ!? ギィィィィィィィッ!!!」


 恐らく生まれて(?)から初めて傷つけられたのだろう『マザー』が、怒り狂って大音量の叫び声を上げる。しかしそこまでダメージを受けている様子が無い。当たり所によっては『成体』にも大ダメージを与えられる五十口径のマグナム弾でも牽制程度にしかならないらしい。


(化け物め……! 持久戦は確実に不利だな)


 そもそもヴァイスやその部下達も、いつまでも相手を足止めしておけないだろう。どのみち迅速に事を運ばなければ自分達に生きる道はない。


 前転した事で黒いケースとの距離が近付いたイサークは、飛び上がるようにしてケース目掛けて走る。


 ゲリラ達が撃ち漏らした子蜘蛛が何匹か襲い掛かってくるが、イサークは巧みなフットワークでそれらの攻撃を躱し、カウンターでマグナム弾を撃ち込む。


 そして遂にその手が黒いケースの把手に届いた。しかし彼は止まる事無くケースの把手を握ったまま、身を前に投げ出すようにして再び前転する。直後、その場所を『マザー』の吐きつけた糸の塊が覆った。


(鍵が掛かってるってオチは無しで頼むぜ!?)


 半ば祈るような気持ちでケースを開けるイサーク。果たして鍵は掛かっておらず、ケースは抵抗なく開いた。中には緩衝材で梱包された大きな瓶のような物がいくつか入っていた。瓶の中は見るからに不穏そうな色合いの液体で満たされていた。この瓶を投げつけるなり叩き割るなりして、中の液体を露出させればいいのだろう。


 『使う』事は可能だ。だが……



(そういや何も考えてなかったが、この場で使っちまっていいのか? 俺達は……ティナもどうなるんだ!?)



 まさかこの液体を直接『マザー』に掛けるなり飲ますなりする訳ではあるまい。手間がかかり過ぎるし、何よりも量が足らない。恐らく液体が大気に触れる事で何らかの有毒なガスが発生する物と思われるが、無差別となるとこの洞窟の中では自分やティナも巻き込まれる。


(どうする!? こいつを持ってティナを抱えてここを脱出する余裕なんてないぞ!?) 


 だがその一瞬の迷いが、『マザー』の攻撃に対する反応を僅かに遅らせた。上から降ってくる『マザー』の糸への対処が僅かに遅れた。


「うおっ!?」  

 反射的に身を躱すが間に合わず、足を糸塊に捕らわれてしまった。まずいと思って渾身の力で足を引き抜こうとするが、糸は強烈な粘着力を発揮して、一瞬にしてイサークの足をその場に縫い付けてしまっていた。


(くそ、しくじった……!)


 イサークは内心で悪態を吐くが後の祭りだ。その時ヴァイスが撃ち漏らした『成体』の一匹がこちらに向かってくるのが見えた。動けない状態なので、このままでは確実に殺される。



「ははは、手こずらせやがって! 無様だな、イサーク! やっと目障りなお前を始末できる。心配するな。ティナは俺が面倒見てやるよ。すぐにお前の事なんか忘れさせてやるさ」


 勝利を確信したライアンが哄笑する。イサークは瓶を片手に持ったまま歯軋りする。だが毒ガスでティナを巻き添えにするよりは、ライアンの『庇護下』に入る方が彼女にとってはまだ良いのではないかと思った。それなら少なくともティナの命は無事だ。だが……



「――イサーク! やってっ!」

「っ!? ティナ!?」



 思わず振り返るイサーク。元々ティナ達がいる洞窟の奥は少し高い段差になっており、尚且つイサークやヴァイスの働きで化け蜘蛛達が彼等の対処に割かれていた事もあって視界が開け、彼女からもイサーク達の状況が視認できるようになっていたのだ。


 ティナは相変わらず後ろ手に拘束されたままの姿で、しかし自分の足でしっかりと立ち上がって、力強い目線でイサークと目を合わせていた。



「私はパパを信じる! お願い、イサーク!」



「――ッ!!」

 イサークは目を見開いた。そうだ。この毒の事をティナに教えたのは、他ならぬ彼女の父親であるコンラッドなのだ。娘を人質に取られて甘んじてヴァイスに殺される道を選んだ彼が、果たしてその娘が巻き添えになるような手段を伝えるだろうか。


「う……おおおぉぉぉっ!!」


 そこまで考えた時、反射的に手が動いていた。イサークは自らを鼓舞するように気合の叫びを上げると……手に持っていた瓶を全力で地面に叩きつけた!


 瓶は粉々に割れると中身の液体が地面にぶち撒けられた。液体は煙を上げながら急速に気化して消えてしまった。



「………は、はは……何をするかと思ったら、脅かしやがって。何だか知らんが不発だったみたいだな。もういい。さっさと殺せっ!」


 何も起こらない事に安堵したライアンが命令を下す。だが、今にもイサークの頭を叩き割らんとしていた『成体』が、ライアンの命令も聞かずに動きを止めている。いや、その『成体』だけではない。他の『成体』も、子蜘蛛達も、そして……『マザー』も。皆凍り付いたように動きを止めていた。


「お、おい、どうした!? 何をやってる! 早く殺せ…………っ!? こ、これは……」


 化け蜘蛛達の様子を訝しんで更なる命令を下そうとしたライアンが、急に自分の喉を押さえて苦しみ出した。ほぼ同時に『マザー』やその子供達も、奇怪な叫び声を上げて狂乱したように苦しみ出す。


 岩壁にへばり付いていた『マザー』の巨体が地面に落ちる。物凄い音と振動が伝わり、散乱した瓦礫が近くにいたイサークの身体の上にも降りかかる。


 だが地面に落ちた衝撃など関係なしに狂乱する『マザー』。子蜘蛛も『成体』も……そしてライアンもだ。いや、それだけではない。洞窟に存在していた百個以上はある化け蜘蛛の卵も次々と破裂していく。


 やがて洞窟内にいた全ての子蜘蛛達がバタバタと倒れはじめ、続いて『成体』が、そして最後には『マザー』が一際大きく叫んだかと思うと、口から大量の泡のような物を吐き散らして地に沈んだ。


 気化した毒ガスは化け蜘蛛達だけに作用しているようで、イサークにもティナにも、そしてヴァイス達にも何も影響はなかった。やはりティナの言う通りだった。コンラッドは蜘蛛達だけを殺す毒を作り出していたのだ。いや……


「かは……な、何故……。何故、僕が……こんな目に……。せ、先生……助け……」


「……ライアン!」


 毒ガスは蜘蛛達だけでなく、『ABCS抗体』を接種した者にも等しく作用するようだ。ライアンもまた口から血の混じった泡を吹きながら喉を押さえ、もう一方の手をティナに向かって伸ばす。だがその手は虚しく空を掻くのみで、そのまま地に落ちた。そして二度と動き出す事はなかった。


 邪な下心があったとはいえ、旅の最初からティナを支えてくれていた助手の最後に彼女は衝撃を受けながらも、目を逸らす事無く見届けた。

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