第13話 毒蛇の恐怖
翌朝。村で朝食を摂った後、最低限の給油と物資の補給を済ませ、ティナ達はサン・フェルナンド・デ・アタパポを後にした。この後はひたすらイサークが父を連れて行ったというゲリラの隠れ里目指して進む事になる。
最初の一日はそれでもオリノコ川の支流に沿って進んでいたが、道はこれまでより格段に悪路となり、いつ途切れてもおかしくない状態であった。
「……ち。やはりここ最近この道が使われた形跡はないな。こりゃあの村はもう放棄されてる可能性が高いぞ」
草が生い茂る道の跡をジープの四輪で踏み鳴らしながら慎重に進むイサークが舌打ちする。そんな状態なので移動速度も遅くなり、結局この日は目的地の村に着く前に野宿をする羽目になった。
イサークとライアンで森の中に開けた場所を作り、そこに手際よくテントを組み立てていく。そしてテントの手前に煙の登らない簡易的な炉を作って、持参した携帯用調理器具で夕食をこしらえる。
イサークは勿論だがライアンもかなりの手際だ。ティナも勿論手伝おうとしたのだが、手が滑って食材を地面に落としてしまったり、燃料の枝を集めようとして指を切ってしまったりで、男二人から口を揃えて頼むから何もしないでくれと言われて、ジープの座席の上でしょんぼりと項垂れていた。
「先生、お待たせしました。どうぞ」
「ありがとう、ライアン」
ライアンに呼ばれてジープから降りたティナは、二人と一緒に炉を囲む。ジャングルも夜になると昼間の蒸し暑さが嘘のように冷え込む。ティナはブルッと身を震わせる。
「先生、これをどうぞ。温まりますよ」
ライアンがマグカップに入れたコーンスープを差し出してくれる。ティナは礼を言ってそれを受け取ると、ゆっくり口をつけた。温かいスープによって身体の中から暖まる思いだった。
「その格好じゃ夜は寒いだろう? こいつを羽織ってろ」
すると今度はイサークがどこかで調達してあったらしい厚手の肩掛けを渡してきた。確かにこれを羽織れば夜でも暖かそうだ。
「あ、ありがとう……」
「勘違いするなよ? こんな所まで来て風邪でも引かれたんじゃ目も当てられんからな。これ以上の面倒事は避けたいんでね」
イサークは鼻を鳴らして口元を歪める。しかしティナが何か言う前にライアンが発言した。
「あんたはいつも素直じゃないな。いい加減認めたらどうだ? 先生に惹かれてるんだろう?」
「ラ、ライアン!? 何言ってるの!?」
いきなり何を言い出すのかと彼女は大いに慌てた。しかし慌てながらもイサークの反応が気になって意識の隅で彼の様子を窺う。彼はライアンのストレートな物言いに一瞬動揺したように肩を震わせたが、すぐに平静を取り戻す。
「はっ! 俺が? この女をか? 馬鹿も休み休み言え。俺にだって選ぶ権利くらいある」
「……!」
にべもないイサークの言動にティナはまた心臓が締め付けられるような感覚を味わった。何故か無性に悲しい気持ちとなってしまう。だがライアンは皮肉げに口の端を吊り上げた。
「心根が素直な先生ならそれで騙せるかも知れないが、僕はそうは行かないぞ? あんたは先生に惹かれている。間違いないね」
するとイサークが苛立たしげな様子になる。
「俺に何を言わせたいんだ、坊や? 俺がこの女に惚れてるって言えば満足なのか? そうは思えんがな。この女に惚れてるのはお前さんの方だろ? 俺は人の『恋路』を邪魔するほど野暮じゃないんでね」
「……っ!?」
反撃されたライアンが露骨に動揺する。そして動揺しているのはティナも同じであった。
「ラ、ライアン……?」
彼女は思わずライアンの方を注視するが、彼は敢えてティナと目を合わせないようにしてイサークを憎々しげに睨みつける。イサークもまた鼻を鳴らして挑戦的な表情でその視線を受け止める。妙にギスギスした空気が漂い、何となく居心地の悪さを感じたティナは夕食を食べると、早々にテントに引き籠もる事にした。
翌日の朝。ティナがテントに引き篭もった後どういうやり取りがあったのか分からないが、とりあえず昨晩のギスギスした空気はなくなっていた。イサークとライアンは交代で見張りをしながら、ジープの後部座席で毛布を被って眠ったらしい。
「ライアン、あの……」
「先生、おはようございます。昨晩は慣れないテント泊でしたが、ちゃんと眠れましたか?」
「え? え、ええ……お陰様で」
ティナが昨晩の話を聞こうとすると、それを遮るようにライアンがにこやかに問いかけてきたので、反射的に答える。それは嘘ではなかった。
「そうですか。それは良かった。洗顔にはそのタンクの水を使って下さい。朝食を食べたらすぐに出発するそうです」
「あ、ありがとう。……ねぇ、昨日は大丈夫だったの?」
「勿論です。お騒がせしてすみませんでした」
彼は明らかにこの話題を続けたくない様子であったので、それ以上聞くのも憚られて、仕方なく洗顔と歯磨きの為にポリタンクに歩み寄る。そこには先客でイサークが昨晩使った食器などを手早く洗っていた。
「よう、眠れるお姫様のお目覚めだな」
「……おはよう」
イサークに対して昨晩の話題を蒸し返すのは何故か怖くて、ティナはぶっきらぼうに挨拶だけして、タンクの水で手と顔を洗う。イサークも当然昨日の話をする気はないらしく、朝食用に缶詰などを出しながら本日の予定を説明していく。
「今日からはオリノコ川を離れて内陸部に入っていくぞ。今まで以上に険しい道程になる可能性が高いからそのつもりでいろ」
彼に促されてスープに浸したパンと缶詰のフルーツという軽めの朝食を摂ったティナは、今のうちに用を足しておこうと、男達から見えない位置取りの適当な場所を見繕う。
幸いというかジャングルなので木陰はいくらでもある。ここに至るまでに何度も繰り返している事で、イサークも一々注意を促したりはしない。ティナも軽い気持ちで用を足そうとパンツを下ろしてしゃがみ込んだ。
ティナはふぅー……と息を吐く。それからしばらく時間が経過しパンツを上げようとした所で、ふと人の気配を感じて視線を巡らせた彼女は驚愕に硬直する。
非常に怖い顔をしたイサークが、かなり近い距離からじっと彼女を見下ろしていたのだ。……パンツを下ろしたままの姿の彼女を。
「イ――」
「――動くな! じっとしてろッ!」
「っ!?」
動揺から咄嗟に叫びそうになった彼女だが、イサークが真剣な表情と口調でそれを遮る。ティナはそこで初めて彼の視線が彼女ではなく、微妙にそこからズレて彼女の背後に向けられている事に気づいた。悪い予感がした彼女はゆっくりと首だけを捻って後ろを振り向いて……
「ひ……!」
息を呑んで硬直する。顔が一瞬で青ざめた。
至近距離の地面に、土や落ち葉と同化するような黄土色の体色をした……一匹の蛇がこちらに向かって鎌首をもたげていたのだ。長さは六フィート以上はあるだろうか。アナコンダのような巨大な蛇ではないが、こちらに威嚇する為に開いた口からは長い牙が覗いていた。
(ど、毒蛇……!?)
ティナはゾッとして全身に鳥肌が立つ。元々蛇自体苦手だが、この状況はより現実的な危険と恐怖をもたらしていた。南米のジャングルには人を死に至らしめる猛毒を持つ毒蛇も多く生息している。そんな毒蛇が容易く噛み付ける距離に、ティナの無防備な尻がむき出しになって晒されているのだ。
「イ、イサーク……」
ティナは縋るような目をイサークに向ける。その目から思わず涙が零れ落ちる。
「大丈夫だ。俺を信じろ」
「……っ」
イサークが絶対の自信をにじませた声で断言する。それを聞いてティナは理屈ではない部分で安心感を抱いた。
イサークは蛇を刺激しないようにゆっくりと屈み込んで、手に持っていた長い木の枝を蛇から少し離れた場所の地面にそっと先端を触れさせた。蛇から向かって側面に当たる位置だ。そこで彼はゆっくりと枝を前後左右に動かして蛇の注意を惹く。その間ティナはまるで彫像にでもなったかのように微動だにしなかった。
イサークは辛抱強く枝で地面を擦って細かな振動を起こし続ける。蛇は振動に敏感な生き物だ。やがてティナを凝視していた蛇がイサークの方に顔を向ける。すると我が意を得たりとイサークは枝の先端を持ち上げて蛇に見せつけるようにゆっくりと動かす。同時に足を小さく踏み鳴らして地面に振動を加え続ける。
毒蛇はイサークの枝の動きに釣られるように彼に向かって這うように移動し始めた。イサークは枝を振ったままゆっくりと後ずさりして蛇をティナから遠ざけていく。ある程度距離が離れた所で、彼がティナの方に目配せする。
「……!」
ティナは顔を青くしながらも頷いてしゃがんだ姿勢のまま、じりじりと極力音を立てないように蛇から遠ざかっていく。やがて十分距離が離れたと判断したイサークが、持っていた枝を蛇に見せつけるように掲げてからそれを遠くに放り投げた。毒蛇がそれに反応した僅かな隙を突いてイサークは大きくジャンプするように距離を離して、後は振り返らずにこちらに向かって走ってきた。
「ふぅ、間一髪だったな。大丈夫か? あいつはテルシオペロだな。噛まれてたらヤバかった」
「あ、ありがとう……」
その時にはティナも辛うじてパンツとズボンを上げて安全な場所まで退避できていた。しかし恐怖のあまり腰が抜けて立つことが出来なかった。それを見て取ったイサークは……
「他にも毒蛇がいるかも知れん。さっさとキャンプに戻るぜ」
「あ……!?」
ティナが驚く暇もあればこそ、彼女を横抱きに軽々と抱え上げた。逞しい腕に抱え上げられティナは動揺した。しかし同時に彼の力強い身体に身を預ける事で絶大な安心感がもたらされたのも事実だった。
「無理するな。まだ歩けないだろ?」
「イ、イサーク……ごめんなさい。本当に助かったわ」
「ん? まあ……いいって事よ。こういう時の為にも俺がいるんだからな」
顔を赤らめて素直に礼を言うティナの態度に、イサークは珍しいものでも見たかのように目を丸くした。しかし変に茶化したりはせず肩を竦めた。そのまま黙ってティナをキャンプまで運んでいく。ティナもまた変に抵抗したりする事なく、イサークに大人しく身を預けていた。彼の分厚い胸板に頭をもたれさせる。安心感と共に、心臓が高鳴るのを自覚した。
「せ、先生!? 一体どうしたんですか!?」
しかしそこでキャンプに到着し、ライアンの慌てふためいた声が聞こえてきた。イサークが促してきたので、ティナはやや名残惜しく感じながら彼の腕から降りた。その頃には自分の足で立てるようになっていた。
「な、何でも無いのよ、ライアン。ちょっと躓いて転んでしまっただけで……」
「彼女が用を足してた時に毒蛇に尻を噛まれかけた。お前も大便をする時は気をつけろよ」
咄嗟に取り繕おうとしたティナだが、デリカシーの欠片もないイサークの台詞に顔を火照らせた。だが実際にライアンにも注意を促しておいた方が良いのは事実なので、訂正はせずに代わりにイサークの頬に平手を飛ばした。
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