第6話 イサーク・デュラン

 何となく妙な予感はしていた。最近拠点にしている安アパートで目覚めた朝から、微妙に首の後ろがむず痒かった。隣で寝ている、確かマリアとかいう名前の(本名かは知らない)娼婦と起き抜けに『運動』してから、シャワーを浴びて汗を流した後もまだ首の後ろがザワザワしていた。


 彼は長年染み付いた感覚から、これはトラブルの予感だと解っていた。それもとびきりのトラブルだ。だがいつどこで出くわすかも解らないトラブルを恐れてアパートに閉じこもっているなど馬鹿げた話だ。


 彼はいつも通り娼婦を追い出すと最低限の身だしなみを整えて、お気に入りのシンガーの曲を鼻歌で歌いながらアパートを出た。



 彼はこの街でいわゆる『運び屋』を営んでいた。勿論ただの運送屋ではない。運ぶものは専ら非合法な代物で、盗品から麻薬、時には人間の死体なんて場合もある。特にこの治安の悪い国では様々な事情から非合法なブツを国外へ持ち出したり、逆に国内に持ち込んだり、または自分と無関係な場所に捨てさせたり、自分の代わりにやばい連中との取引を代行させようという輩がごまんといる。クライアントには事欠かなかった。


 勿論そんな非合法な仕事には危険が付き物で、色々な理由で運んでいるブツを強奪しようとしたり、取引で裏切って彼を殺そうとする連中なども珍しくなく、撃ち合い、殺し合いも日常茶飯事だったが、そこは元アメリカ軍の特殊部隊員という経歴と経験が大いに役立った。



 アパートから歩いて三十分程の距離にあるバー、『酔いどれのアナコンダ』に向かう。彼は運び屋を生業としているが、この治外法権の国でしかも非合法な仕事内容で、固定の事務所を構える程馬鹿じゃない。空き巣や押し込み強盗の格好の的だ。


 その代わり基本的にこのバーに入り浸っているという噂を流して、ここを仮の事務所代わりに使っていた。クライアントが接触してきたら改めて人目の付かない所で商談という訳だ。


 車のような固定資産も足枷になるだけなので勿論所持していない。運び屋としての仕事には当然車は必要不可欠だが、いつも仕事を引き受けてからその内容に適した車を『調達』するというやり方を取っていた。『調達』の方法は勿論真っ当にレンタカーを使う場合もあれば、条件に適した他人の車を『借りる』事も珍しくない。


 金次第ではどんな仕事も引き受けるが、支払いは勿論インフレの加速しまくった紙クズ同然のこの国の通貨ではなく、全て純金か宝石を要求していた。金や宝石の価値は万国共通だ。他国で換金するのにもこの方が都合が良かった。


 しかし流石にインフレが加速し過ぎて、些か暮らしにくくなってきている事は確かだった。この国はクライアントには事欠かないが、何をするにも一々大量の紙幣が必要なのは煩雑に過ぎた。しかも先月までは大金だった紙幣が、今月にはもう紙くずになっているのだ。政情が落ち着くまではお隣のコロンビアかパナマ辺り、もしくはメキシコにでも拠点を移そうかと思っていた矢先であった。



 その日は仕事がなく、仕方ないので一日酒場で飲んだくれていようかと思った時、彼の座るテーブルを複数の男が囲んだ。男達の存在には気づいていたが、殺気は無いようだし、銃の類いも所持していないようだったので成り行きに任せていた。


『……見つけたぞ。お前がイサークって白人野郎だな』


 男達の一人が怒りに震える声で彼を見下ろす。イサークはチラッとだけ男を見上げて鼻を鳴らした。この連中は間違いなく、今朝から感じている妙な予感とは無関係だ。


『何だい、あんちゃん? デートの誘いならお断りだぜ?』


『ふざけるな! お前だろ! 俺の女を……ヴェロニカを寝取りやがったのは!』


『ヴェロニカだぁ?』


 彼は酒が入ってほろ酔いになった頭で懸命に思い出してみる。そういえば先週そんな名前の女と寝たような……。確かこことは別のバーで酔っ払いに絡まれてたのを助けてやったか何かしたはずだ。


『ああ、あの女か。中々具合が良かったぜ? そういや、今付き合ってる男は短小で下手くそだから、俺とヤったので久しぶりにイケたって言ってたな』


『――っ!!』


 男が目を吊り上げていきり立つ。周りの男達も色めき立った。イサークは彼等の様子を内心鼻で笑う。この人数で囲んでる時点でその意図は明らかだ。余計な事をベラベラ喋ってないでさっさとかかってくればいいものを、こうして彼のペースに乗せられて容易く冷静さを失う。彼が仕事でいつも相手にしている玄人連中とは比較にならない隙だらけの素人共。



 今日は仕事がないので、退屈しのぎにちょっと遊んでやろうと決めた。彼は男達の後ろの入り口に向かって手を上げた。


『よう! 丁度いい所に来たな。ちょっとトラブってるんで手を貸してくれるか?』


『……!?』


 誰か仲間が来たのだろうかと、男達の意識が一斉に入り口に向かって集中する。そこには丁度酒場に入ってきた男の二人連れがいた。勿論イサークとは無関係の他人だ。彼等はいきなり注目されて目をパチクリさせていた。


 イサークに謀られたと男達が気付く前に、彼は酔っているとは到底思えないスピードで椅子から跳ね起きた。そしてその太い腕が縦横に振り回される。鈍い殴打音。またたく間に三人の男が殴り倒されていた。


『……! こいつ……!』


 相手が向き直った時にはすでにイサークの膝蹴りがもう一人の腹にめり込んでいた。呻き声を上げて倒れ伏す男。あっという間に残り三人だ。自分達から喧嘩をふっかけておいて随分呑気な連中だ。


 因みにこの酒場で喧嘩など日常茶飯事なので、誰も悲鳴を上げたりする者はいない。銃弾が飛び交わないだけマシな方である。皆、我関せずか逆に面白がって囃し立てたりしている。顰め面をしているのはバーテンダーやウェイター達だけだ。


 残りの男の内二人が雄叫びを上げながら殴りかかってくる。イサークは身を屈めて男のフックを躱すと、お返しにその顎にアッパーをかましてやる。気持ち良いくらいに伸び上がって床に転倒する男。この中で一番体格のいいもう一人の男が掴みかかってきたのでその流れに逆らわず、相手が自分を掴んだ瞬間思い切り身体を捻る。するとその勢いで掴んだままの男がバランスを崩すので、そこを逆に背負投げで投げ飛ばす。隣のテーブルを盛大に巻き込んで転倒する大男。これで残りはあの男一人だ。



『坊や達に喧嘩は早すぎたな。大人しく家に帰ってママのおっぱいでも吸ってな』


 青ざめた顔をしている男を逆に挑発してやる。すると男の顔が青から赤へ変化する。


『てめぇぇぇっ!!』


 自棄になった男は近くのテーブルにあった空き瓶を手に取ると、テーブルに叩きつけて砕き割る。割れた瓶は立派な凶器だ。男は叫びながらその凶器を突き出してきた。しかしイサークは至極冷静にその軌道を見切ると、身体を捻るようにして突きを躱し、左の脇で挟み込むように男の腕を取った。


『……!』

 男が慌てて腕を引こうとするが、イサークは万力のような力で挟み込んだまま動かない。そして空いている右手で思い切り男の顔面を殴りつけた。大きく怯んだ男は瓶からも手を離して後方によろめく。丁度後ろは出入り口だ。イサークはこの招かれざる客に物理的にお帰り頂く事にした。


『人に凶器を向けたんだ。罰としてもう一発オマケしてやるよ』


 そう言い放って、男に向かって鋭い前蹴りをお見舞いする。胴体にまともに蹴りを喰らった男は、勢いよくドアの外の通りに向かって吹き飛んでいった。彼は飲みかけのウィスキーの瓶を片手に自らもドアを開け放って店の外に出る。



 すると意外な光景が目に入ってきた。



 まず目を引いたのは流れるような艶のあるブラウンの髪。次にシャツの前面を盛り上げる双丘に目が行く。そして最後に、地面に尻餅を着いた姿勢でショートパンツから伸びる優美な脚……。


 女だ。それも滅多にお目にかかれないような、人目を惹く美貌の白人の女であった。


 女はイサークに吹っ飛ばされた男に巻き込まれたらしく、尻餅を着いたままビックリしたような顔で呆然と彼を見上げていた。イサークはその女と目が合って思わず息を呑み掛けたが、寸での所で平静を装って、何事もなかったように倒れた男に視線を戻した。



 これがイサークと、ヴァレンティナ・トラヴァーズと名乗る女の出会いであった。そして彼がこのヴァレンティナこそがあの妙なトラブルの予感の発信源だったと確信するのは、これより数日ほど後の事になる……

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