第2話 ヴァレンティナ・トラヴァーズ

 アメリカ中西部にあるカンザス州立大学。州内では最大の規模を誇るこの大学では、二万人以上の学生が在籍しキャンパスライフを楽しむとともに、日々様々な講義を受講して将来のため、または自身の興味の為に勉学に励んでいた。


 ヴァレンティナ・トラヴァーズはそんな講義の一つ、『自然生物学』の講義の一部を受け持つ助教であった。


「……多くの動物にも見られますが、このオオツチグモ科……いわゆるタランチュラに関しても同様で、世界中に分布しているにも関わらずその生態的特徴は極めて類似しています」


 スライドを使いながら講義を続けるティナの前には凡そ百人前後の学生達が静聴している。当然一人一人は個性のある学生達だが、こうして講堂で向き合っていると全く無個性な、それこそ蟻や蜂のような一塊の生き物のようにも見えてくる。


 否、しかし異分子というものはどこにでもいるようで……


「……そこの後ろから二番めの列の青いチェックの君。そう、君の事よ」


 ティナに指名された男子学生は焦った様子で居住まいを正すがもう手遅れだ。


「居眠りやお喋りはよくあるけど、授業中に女の子をナンパしているケースは初めてね。じゃあ今私が言った生態的特徴の一致というのを一般的になんて言うかしら? 私の授業の内容なんてちゃんちゃらおかしい程に優秀みたいだから、勿論答えられるわよね?」


「……っ!」

 学生が青ざめる。隣りにいた友人と思しき学生達は、とばっちりを恐れて視線を外す。まだ二十代の美しい容姿で評判のティナは(主に男子)学生達の間で有名であり、こうして生物学に興味もないのに受講してくる学生が多いのが悩みのタネであった。


「どうしたの? 私の授業を聞いていたなら難なく答えられる質問のはずよ?」


「……す、済みません! 聞き逃していました。今後は気をつけますから……!」


 友人達も助けにならないと悟った学生は早々に降参した。不純な動機で受講した講義であろうと、単位は単位だ。落としたら成績に傷が付いて将来の就職に不利になる。学生が必死で謝り倒してくるのを、ティナはため息を吐いてかぶりを振った。


「はぁ……もういいわ。収斂進化よ。それくらい覚えておきなさい。丁度もうじき夏休みよ。他の皆は事前に通達したレポートのみだけど、あなたはもう一つ提出するレポートが増えたわね」


「っ!!」

 学生が再び息を呑んで絶望的な表情になった。自業自得だ。そこで丁度講義終了の時間となった。ティナはスライドを閉じて手を叩いた。



「さあ、今日の授業はここまでよ。次回は夏休み明けになるけど、皆羽目を外し過ぎないように必ず夏休み中にレポートを仕上げる事。いいわね!?」


 念を押しておくと、早くも崩れた雰囲気になっている学生達が気のない了承の返事を上げた。まあこれが限界だろう。返事があっただけマシだ。あの男子学生も荷物をまとめるとそそくさと退室していった。


 これが試験前となると殺気立った学生達が講義終了を待ち構えて質問に押し寄せる所だが、夏休み前という事もあって学生達は解放感からか、皆浮かれた雰囲気で友達と談笑しながら退室していく。平和なものである。


 ティナはそんな現金な学生達の姿に苦笑しつつ、自らも教材を纏めて講堂を後にするのだった。



*****



「先生、ご苦労さまでした! 今期の授業もようやく終わりましたね。学生達はさぞ浮かれていたでしょう?」


 講義を終えて自身の研究室に戻ってきたティナを、助手のライアン・マクマホンが出迎えた。助手と言っても彼は正確にはまだ大学院生であり、博士号は取っていないのだが。


 正式な助手ではないので教授や准教授には付けないが、将来は教育の道に進みたいという事で、研修がてら助教であるティナが預かって、細々した雑用などを手伝って貰っている。


「ええ、本当に。どうせカップル同士でいちゃついたり、仲間同士で田舎に繰り出して馬鹿騒ぎして現地の人に迷惑を掛ける計画でも練っているんでしょ」


 ティナは苦笑しつつソファに身を投げ出すようにして座った。はしたない動作だが今更ライアンの前で遠慮するような間柄でもない。ブラウンのロングヘアーが彼女の動作に合わせて波打った。


 ライアンがすぐによく冷えたスキムミルクを持ってきてくれる。ティナは礼を言ってグラスを受け取ると、喉を鳴らしながら一気に飲み干した。子供の頃からの好物で、普通のミルクよりも薄い味わいが程よくて彼女の舌にマッチしていた。


 ミルクが身体中に染み渡って、講義の疲れが解れていくのを感じる。ティナは目を瞑って大きく息を吐いた。


「先生は夏休みの間は何かご予定があるんですか?」


「あら、ライアン? 女性の休みの予定を聞くというのは、その気があると思っていいのかしら?」


「……っ! あ、いや、それは……」


 自分の言葉の意味に気づいたライアンが途端にしどろもどろになる。ティナは再び苦笑して手をヒラヒラ振った。


「ふふ、冗談よ。そんなに慌てないで。私は特に帰省する予定もないし、夏休みの間はひたすら論文作成に費やす事になりそうだわ。早く准教授になるには、一本でも多くの論文をジャーナルに投稿しないといけないからね」


 教授への道のりは長い。ひたすらに研究と論文の繰り返しだ。尤も生物学はティナにとっても興味のある分野なので研究は苦にならない。むしろ今日のような学生への授業の方が彼女にとっては苦手かも知れない。


 出世して教授に近づけば近づく程研究の比率が大きくなって、直接の講義や授業などは下の助手や助教に任せる事が出来るようになるので、そういった意味でも教授を目指す為に研究論文をどんどん発表していかなければならない。



「常に向上心を忘れない……。素晴らしいです、先生! 僕も見習いたいです。僕もそろそろ博士論文の準備をしなければと思っていたので」


「あら? テーマはもう決まってるの?」


「ええ。社会性クモ類の個体間の相互作用についての研究にしようと思っています」


「へぇ、随分チャレンジブルね。社会性を持つクモ類は世界的に見ても20種程度しか確認されていないのよ? 研究のための資料や検体を集めるのが大変だと思うけど大丈夫?」


 少し心配になったティナが確認すると、ライアンは頭を掻きながらそれでも自信を持って頷いた。


「だからこそこの夏休みを活用しようと思いまして。それにチャレンジブルだからこそ、競合相手も少ない。そうでしょう?」


「なるほど。確かにそういう面もあるわね。まあいいけど、余り無理をし過ぎないようにね?」


「分かっていますよ。ご心配ありがとうございます」




 二人が夏休みに備えて研究室の後片付けをしていると、部屋のドアがノックされた。


「やあ、ティナ。授業お疲れ様」


 入ってきたのはティナの上司に相当するベッカー教授であった。生物学においてはカンザス州内では一番の権威だ。ティナとライアンは慌てて片付けを中断して向き直る。


「教授! お出でになるなら事前に知らせて下されば……」


「いやいや、いいんだよ。研究室が散らかっているのは当たり前のことだ。むしろ余り綺麗な部屋だと研究をサボっているのかと疑ってしまうよ。今日は君に二つ用件があってね。なに、そんなに時間は取らせないよ」


 ベッカーは手に何か封筒のような物を持っていた。それが用件とやらだろうか。


「一つは慰労だ。君の授業は中々学生に評判がいいみたいだからね。その分僕達は安心して研究に打ち込める。今後ともこの調子で頼むよ」


「……善処します」


 一刻も早く出世して研究に集中したいティナとしては複雑な評価だが、それでも上司から評価された事に変わりはない。複雑な表情のティナに苦笑しつつ、ベッカーは手に持った封筒を差し出してきた。


「そして二つ目がこれだ。つい先程君宛てに届いた。国際便のようだ。君が講義中だったので私が預かっておいた」


「国際便……ですか? 私宛に?」


 封筒を受け取ったティナは戸惑ったようにそれを改める。送り元はベネズエラとなっていた。


「……!」

(ベネズエラ……つまり南米から……)


 南米からティナ宛てに郵便が届くとなると……一つだけ心当たりがあった。いや、一つしか無いと言うべきか。ティナは急激に胸の動悸が激しくなってきたのを自覚した。この封筒はベネズエラから送られていた。つまり、『父』は今ベネズエラにいるという事か。

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