スパイダーキングダム ~女学者と運び屋傭兵のジャングル冒険紀行
ビジョン
第1話 ジャングルの奥地にて
南米はベネズエラ。国土の約半分を占めるギアナ高地の広大なジャングルはその殆どが未踏地域となっており、余程慣れた者でなければ、不用意に分け入れば容易く方向感覚を失い遭難する緑の牢獄でもある。
しかしそんな熱帯雨林の只中を流れるオリノコ川から程近い場所に、木々に半ば埋没するような形の集落が存在していた。その集落は生い茂る葉の陰に隠れ、上空を通過する飛行機やヘリにもほぼ視認されないような隠れ里といって差し支えない場所であった。
集落は殆どが高床式の粗末な木造の小屋ばかりであったが、集落の奥に他の小屋とは一線を画する大きな建物が存在していた。その建物は面積だけでなく、素材もコンクリートなどを使用した頑丈な作りとなっていた。
更にこの家には地下室が存在していた。地下室はかなり広く下手をすれば地上部分の家よりも面積があるくらいだ。地下室の内装は陰鬱な感じの石壁だが、所々木の根の侵食に負けて土や盛り上がった根がむき出しになっていた。照明はいくつかの裸電球のみ。
そんな圧迫感漂う地下室には、所狭しと様々な『実験器具』と思しき物品が並んでいた。それら怪しげな器具に埋もれるようにして……この地下室の主であるコンラッドは、この日も自らの『研究』に精を出していた。
今、彼の前にあるアクリルケージの中にはこのジャングル原産の大きな蜘蛛が入れられていた。カラフルな体色に刺激毛を備えた太い八本の脚。オオツチグモ科……いわゆるタランチュラだ。
コンラッドは紫色の液体で満たされた注射器を餌用のマウスの死体に注射する。そしてそのマウスをケージの中に放り込む。一週間以上餌を与えずにおいたタランチュラは、目の前に差し出された餌に即座に反応した。
餌は小さめのマウスだった事もあってタランチュラは、餌の中に入っている『異物』に気づかず、最終的にキレイに平らげてしまった。
「よし……いよいよだ。私の研究の成果が形となる。学会の石頭どもめ。お前達が追放した私がこれより科学の歴史を塗り替えるのだ」
昏い歓びに震えるコンラッドはセットしてあったビデオカメラに向かって語りかける。
「……十月九日現在。『被検体』より採取したサンプルの培養に成功した。生体への影響を観察する為に、ルブロンオオツチグモの成体の雌に対して、餌を経由してサンプルの投入を実施した」
彼は一旦ケージの中のタランチュラに視線を移す。既に『サンプル』を投与した餌を食べ終えた蜘蛛は、落ち着かない様子でケージの中を動き回っている。普通に餌を食べた直後にはあり得ない挙動だ。早くも投与したサンプル……『ABCS』の効果が出始めているようだ。
「対象は落ち着きなく動き回っている。『ABCS』の影響と思われる。顕微鏡での観察時には、生体細胞への影響は凡そ二、三十分ほどで現れる予定である」
そこまで記録した時だった。対象のタランチュラが突如苦しむように蹲って震え出した。
「……! 対象の様子がおかしい。ABCSを投与してまだ数分しか経っていない。顕微鏡での実験時にはこれほど早く効果が出る事は無かったが、やはり生体に直接投与すると異なる影響が……」
コンラッドの言葉が途切れる。その目が大きく見開かれた。彼の見ている先で、対象のタランチュラが急激に……『巨大化』し始めた。特に後体腹部が恐ろしい勢いで膨張していく。
「ば、馬鹿な……一体何が……」
コンラッドが唖然とする間にもタランチュラの『膨張』は止まらない。このまま巨大化すればアクリルケージに圧迫されて押し潰されるかと思われたが……
「……!」
何とタランチュラはその異常に発達した上顎の牙を剥いてケージの蓋に噛み付くと、金網で出来ている蓋をあっさりと噛み千切ってしまった。アクリルケージに収まりきらなくなった巨体が、ケージの外に這い出してくる。
タランチュラは這い出て尚異常成長を続ける。流石のコンラッドも動揺して一歩後ずさる。既に節足動物の限界をとうに超えた大きさとなっている。外骨格の節足動物がここまで巨大化すれば、自重によって動けなくなり押し潰されてしまうはずだ。だが現実として目の前のタランチュラは未だに大きくなり続けている。物理的にも生物学的にも説明の付かない状況であった。
と、そこで更に予想外の事態が起きた。
特に膨張の著しかった腹部が、内部からの圧力で不気味に蠢動を始める。まるでその腹の中に無数の『何か』が蠢いているかのような……
「……っ!」
コンラッドはその時点で蠢動の『正体』を察した。顔から血の気が引く。ABCSを投与するに当たって対象の個体の検査は一通り実施した。だがその時は『妊娠の兆候』は見受けられなかった。きっと『交尾後』間もない個体だったのだ。しかし出来たばかりの小さな卵はABCSに過敏に反応した。
恐ろしい速度で異常成長した『子供達』は、母親の腹を突き破るかの勢いで次々と飛び出してくる。一体一体が既に二十センチ近い大きさだ。それがワラワラと這い出してくる様は悪夢以外の何物でもない。
「くそっ!」
コンラッドは毒づきながら地下室の出口に駆け寄る。実験は失敗だ。やはり生体実験は早すぎたのだ。今更後悔しても後の祭りだ。こうなったら地下室を封鎖して、この部屋全体を高温で熱して殺処分するしかない。
貴重なサンプルや資料も一緒に失う事になるが背に腹は代えられない。こいつらを野放しにしたら大変な事になる。
だがその時、地下室の扉が外側から開いた。
「……!」
『先生。また穴蔵に籠もってるんですかい? たまには外に出て一杯やりましょうや』
呂律の回らないスペイン語のだみ声。手に酒瓶を抱えた赤ら顔の男が、千鳥足で部屋に降りてきた。『研究助手』として雑用で使っている村の者達の一人だ。この昼間から大量に酒を飲んで泥酔している。
「邪魔だ、どけ!」
コンラッドは怒鳴って男をどかそうとするが、無駄に身体だけは大きい男でビクともしなかった。そのデカい図体で出入り口を完全に塞いでしまっている。
『おっとっと……。今日は随分元気じゃないですかい、先生。何かいい事でもありましたかい?』
この泥酔した愚か者は、目の前の状況を全く理解していないらしい。呑気にヘラヘラ笑っている。コンラッドは激しい焦りと苛立ちに怒り狂った。
『いいからどけ! あれが見えんのか!』
コンラッドは後ろを指差してスペイン語で怒鳴る。そこで男はようやく酒に濁った目を部屋に向ける。そしてその目を瞬いた。
『んん? 先生……何だか後ろにバカでかい蜘蛛が見えますが……どうやら飲みすぎて幻覚が見えちまってるようですな、ははは』
これを見ても尚男の目を覚まさせる事が出来ない。コンラッドは絶望した。既にすぐ後ろにまで化け蜘蛛の大群が迫ってきている。もう脱出は間に合わない。
「くそっ!」
コンラッドは咄嗟に脇に避ける。巨大な子蜘蛛の大群があっという間に男に群がった。
『え!? う、うわ、うわぁっ!? な、何だ、こいつら! た、助けてくれっ!』
事ここに至ってようやく蜘蛛が幻覚などではない事を悟った男だが、もはや手遅れだ。男は絶叫しながら滅茶苦茶に暴れまわるが、すぐに蜘蛛の群れに埋没してしまった。そして絶叫が途絶える。僅か数秒の出来事であった。
男が開けっ放しにしていた扉から、子蜘蛛達がどんどん地上へと上がっていく。地上に出られたらもう閉じ込めておく手段がなくなる。お終いだ。どの程度で寿命が尽きるのかもまだ検証していないのだ。地上の村はすぐに地獄絵図と化すだろう。
「こんな……こんなはずでは……」
コンラッドは最悪の未来に頭を抱える。まるで悪夢を見ている気分だ。いや、もしかすると本当に悪い夢なのかも知れない。恐らく不眠不休で研究を続けていて、つい寝落ちしてしまったのだ。
彼は現実から目を背けて必死に起きようと念じる。だが無情にも背後から近づいてくる気配と足音がコンラッドに、これが現実なのだと突きつけてくる。
「…………」
彼はゆっくりと振り返った。そこには全ての子蜘蛛を吐き出した母蜘蛛の姿があった。元々の研究対象だった個体だ。子供を吐き出しながらも巨大化を続けた母蜘蛛は、最早この地下室を埋め尽くさんばかりの馬鹿げた巨大さへと成長していた。完全なる化け物だ。
母蜘蛛がその巨大な頭部を近づけてくる。それを見ていたコンラッドは絶望や恐怖を通り越して無性に可笑しな気分になった。
(は、ははは……仕事も栄誉も、そして妻も娘も捨てて研究に打ち込んできた結末がこれか。いや、ある意味では相応しい末路なのかも知れんな)
自らに迫る巨大な牙を見つめながら、彼は最後にそんな事を考えていた。
この日を境にして、様々な理由でジャングルに分け入った者達が行方不明となる件数が飛躍的に増大する事となる。またそれだけではなく、人里の外れ、ジャングルに埋没するようにして点在する村々からの連絡が途絶える事件が相次ぐようになった。
ベネズエラは現在政情不安に揺れており、このような辺境の村々の怪異はほぼ調査される事もなく、被害の拡大に拍車を掛けていく事になった。
そんな状況が半年ほど続いた後の事、ベネズエラから一通の手紙がアメリカに住むとある女性の元へと送られてきた……
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