いつかの雨宿り

亜寿

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 この季節の落ち着かない雨のことを、『時雨』というと教えてくれたのは父だった。

 つんと鼻を刺す黴っぽいような、独特な雨のにおいは私が最も苦手とするにおいの一つ。夏休みはとっくに過ぎ去り、冬休みまではまだ随分あるこの季節は、私にとって憂鬱この上ない時期の一つだった。中学でも、高校でも、二年生の秋というものは、酷く中だるみのしやすい頃でもある。イベントらしいイベントは終わり、中間テストも終わった。あまり芳しくないその結果を受け、ただ次の、期末テストに向けてすべてが緩やかに進んでいく。

 放課後どこに行くのか、週末は何処に行くかなどを話し合うクラスメイトに見送られて、私は教室を後にして、校門を出た。ケータイでスーパーのチラシを見て大体の買い出しルートは決めてある。今日はハンバーグと、お隣に貰ったホウレンソウを、お浸しにでもしようかしら。和洋折衷、というやつだ。ごはんを作り始めてすぐはきっちりきっちり、せっかくだからと栄養バランスも考えて作っていたけれど、二年も経てば、適当にもなってくるものだ。それでも毎日惣菜で済ませてしまわないあたりは、我ながら意外である。

 毎日、毎日。あと一年と半分、こんな生活が続くのか。大学に行ったとしても、別段何か特別な生活が始まるわけでもなさそうと思えた。中学から高校に上がる時に胸に抱いた私の未来は、放課後に遊びに行ったり、部活に熱中したり、恋をしたりする未来だった。現実では今日もスーパーのひき肉と、特売の牛乳をエコバッグに詰めて帰宅して、「おかえり」の返ってこない「ただいま」。

 庭と呼ぶには狭すぎる団地のベランダに出て、空になった動物用の平べったいミルク皿を洗った。そこに買ったばかりの牛乳と、水を注ぐ。……そんな自分の姿がある。しばらくしたら、今日も名前も知らないあの子猫がやってくるだろう。会うわけでも待つわけでもないけれど、これが私の、ささやかな、そして数少ない趣味の一つだった。遊びに行く友達もいない。部活も、今はしてない。恋をすることも、なかった。

 酷く憂鬱だ。雲の広がった空を見上げて、(ああ、今日も部屋干しは上手くいっていないだろう)なんて思った。

「美咲ー、帰ったの?」

「お母さん、帰ってたの」

「寝てた。それより母さん明後日の夜中から、金曜まで帰って来れないわ」

「そ、そうなんだっ?」

 二階から降ってきた疲れ切ったお母さんの声に、私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。「準備、手伝うよ」と取り繕うように言うけれど、多分つくろえてないだろう。ぶつくさと呪詛を呟きながら、階段をけだるげに降りてくる母親の姿は、はじめこそ嫌だったけれど、最近では嫌というよりそのいらいらが長引かないことを祈るばかりになった。どうやら禿げた上司に、クレームの対応を押し付けられて北海道の取引先までお詫びに行かなくちゃいけなくなったらしい。

 母親の大好きなお茶葉を開けて、急須に入れ、ポットにあったお湯に水を入れて温度を下げる。

「お茶、飲む?」

「あとで飲む」

「今日、ハンバーグだけど食べる?」

「食べる」

「明日のお弁当は?」

「いらない。勝手に起きて行くわ」

「そう」

 渡したお茶を一息で飲んで、お母さんは風呂場に消えた。今日もスーツを着っぱなしで寝ていたのだろう。階段付近に脱ぎ散らかされたそれと、ついでに自分の制服をハンガーにかけながら、じゃあ、明日は一人分のお弁当でいいのかとか、こういっては悪いけれど、この五日間、少し楽ができそうだなんて思った。




 そうして日曜の午後九時に母は家を出て、早めに就寝する気分にもなれず、ぼんやりとテレビを眺めていた。明日もどうやら洗濯はできそうにないようで、少しずつ溜まっていくだろう洗濯機の中身を思い、無駄に憂鬱になってみたりもした。そういえば猫は今日うちの庭には来ていないようだったけれど、もう来たのだろうか。そう思いベランダへの戸を開けて、電柱のライトに照らされた黒く細長い、自動販売機くらいの細長い柱を見つけた。

 ……いいや、違う。身体が硬直する。不審者だ。私は不審者を見つけたのだ。吸水性のよさそうな厚手の真っ黒な服。傘の代わりにフードを深くかぶって、ただじっと私の家を見ていた。

 一体、いつから見ていたのだろうと、考えると思わず気温とは関係ない寒気がした。自動販売機くらいの柱、に見間違うくらいだから、きっと男だとは思うのだけれど。

 声を掛けるか、それとも無視をするか、警察を呼ぶか。いいや、今のところ実害はないから最後は少しやりすぎだろうか。けれど女子高校生が一人で約一週間お留守番をしているのだ。ああ、昨日お母さんがいなくて少し楽ができそうだなんて思ったからだろうか。誰だって思う、ささやかな非日常への歓迎の気持ちくらい、神様も許してほしいと思ってしまう。

 けれど開けてすぐ閉めるのも不自然で、できるだけ自然に、貴方のことは背景にしか思っていませんよと、けれど何かあったらお隣に駆け込もうと心の準備をしながらそろりとベランダに出た。右手と右足が同時に出ているのを、悟られないように。けれど、意外にも爽やかな好青年らしい声に私は呼び止められた。

「すみません、手拭いを一枚貸していただけませんか」

 何を言っているんだ、と思わず顔をしかめたが、焦ったように近づいてきた彼のほうから、甲高い、怯えるような猫の鳴き声が聞こえてきた。聞き覚えがある気がして、私は濡れることも構わず飛び出し、男の腕の中の存在を確かめる。黒い毛に、白い模様のついた子猫。間違いない。私が毎日のように餌付けしてる子猫が、みいみい鳴いて、ぐったりしている。昨日はおいしそうに薄めたミルク、飲んでいたのに。

「ど、動物病院」

「足を痛めて弱っているだけです。温かい場所へお願いします。後は俺が、なんとかします」

「なんとかするって」

「早く」

 見上げた顔からのぞき込んだ目(右目は、フードで隠れて見えなかったけれど)は、外人さんみたいに色素が薄くて、宝石みたいに強く、真剣に輝いていた。その様に思わずどきりとして、気が付いたら私は彼と猫を家にあげて窓を閉め切った。彼に言われたとおりに、バスタオルやら電気ストーブやらを持ち出して部屋を暖め、薄い段ボールを切ったのや、包帯を用意していた。男は分厚い上着を脱いでいたが、中身も黒という徹底っぷり。けれど髪も目も色素が薄くて、さっきは見えなかった右目を、黒い眼帯で隠している。

 浅いバケツにぬるめの湯を張って小さなお風呂にしたのを抱えた私をみて、彼は「薄めたミルクもお願いできますか?」と言う。言われたとおりに作って持っていくと、彼の白くて骨ばった大きな手が、子猫の段ボールの上から包帯を巻かれた脚に触れて、わずかに光ったのを見た。

「あ、あの、ミルク、持ってきたんですけど」

「ありがとう。置いておいてくれますか?」

 よく見れば猫の脚は濡れていて、光の反射だとやっと気づいた。後ろ足の内側から光った様な気がした。そんな手品みたいなこと、あるわけない。彼は子猫を撫で、それから私が置いたミルク皿の近くにそっと放した。と、嘘みたいに元気にミルクを舐め始めた。

「貴方は、獣医さんなの?」

「いいえ。ただの……魔法使いです」

 やっぱり不審者だった。バケツに手を触れようとすると、彼は慌てて両手を上げた。

「すみません。貴方たちにとって俺達が理解不能ということは分かってます。ただ、怪しい者ではないんです。ただちょっとここにきて、魔力……のようなものが切れてしまって、行くあてもなくて」

 わたわたと説明をするその話の内容は意味不明だったが、何か嘘をついているような気はしなかった。本当のことだとも、勿論思えなかったけれど。これは、本気で言ってる不審者なのだろうか。不審者というより、変質者、だろうか。どちらにしても怪しいことに違いはなかった。けれどなんだか必死な様に拍子抜けしてしまった。俗にいう、『暴力行為』を行うなら、もうすでに行為に及んでいてもおかしくない状況だ。子猫は私に近づいて、尻尾を座った私の身体に滑らして、撫でろ、と言わんばかりに頭を下げた。少し悩んで、けれどバケツから手を放し頭を撫でてやる。しばらく撫でるともういいと言わんばかりにするりと手をすり抜けた。勝手な子だ。その様子を見て男は柔らかく微笑むも、ぎゅぎゅぎゅ、という腹の虫のなく音で、彼は顔を少し赤らめた。

「……は、はは」

 照れ隠しのように笑う様に、なんだか警戒するのが馬鹿馬鹿しく思えた。

「夕飯、少し余ってるんです。食べませんか」

「いや、そんな」

「良いんですよ。お口に合うか、分かんないけど」

 立ち上がったついでにミルク皿を手に取って、立ち上がる。キッチンのシンクにそれを置く。多めに作って朝ごはんにしてしまおうとしていたお味噌汁。明日、温めて弁当に詰めればいいやと思いながらも、保温を切り忘れていたご飯。お母さんが留守にするのについ作りすぎてしまった野菜炒めと、焼き鮭。なんともささやかな夕飯だが、我慢してもらおう。そういえば、海外の人ってお味噌汁、苦手なんだっけ? まあ、口に合わなければ、残してもらえばいいや。冷蔵庫にお漬物、これこそ、苦手かな。あとは割り箸。

 それらを適当に盛って、滅多に出さないお盆に載せて、男がいる部屋の机に並べる。

「すみません、ありがとうございます」

「いえ。お口に合わなかったら残してください」

「そんな」

 これも何かの縁だろうか。強にしていた電気ストーブを弱にして、それでもまだ温めた部屋の中で彼は食事を始めた。なんだか変な感じだ。どうしていいのかわからず、私は散乱したタオルやら、そういうものを片づけ始めた。お味噌汁を一口すすって、彼はちろちろと周りを見て、「一人暮らし、なんですか?」と問うた。やっぱり身構えておくべきなのだろうか。もうすでに、何かあったら私には言い訳できない状況であることは、少しだけ理解できていた。けれど彼はにこにこしてお客用の味噌椀を持って、ただ雑談として訊いているようにしか見えなかった。

「いいえ、今不在なだけ」

「一人でお留守番ですか。料理もあなたが?」

「まあ」

 偉いですね。と次は慣れた手つきでお箸を扱い、きれいに鮭をほぐして見せた。日本人離れしている綺麗な、そしてややほりの深い顔でそんなことをされると、違和感でしかない。本当に何者なのだろうか。と、黒い上着が雑に放置してあって、思わず叫びだしそうになった。フローリングが黴てしまったらどうしてくれる。ただでさえ雨の多い季節なのに。やや憤慨しながらもできるだけ無表情に大きくて重たいそれにふれると、嘘みたいに乾いていた。

「すみません。重たいでしょう」

「え、あ、いえ。ハンガーに、掛けておきますね」

「ありがとうございます」

 まるで乾いているのが当たり前みたいに微笑む。そういえば、長時間外にいたというのに、この人の顔も前髪も、湿気てさえいない。まさか本当に、魔法使い、なんじゃ? いいやそんなはずはない。この科学技術発展国の日本人の子供として受け継がれてきた血が、そんなわけがないと首を横に振った。きっと乾いたのだ。温かくしていたから。嘘みたいに元気になった猫が、男の脚によじ登ろうとしていた。すごく怪しいのに、すごく自然に見える。ううん、その自然が逆に、怪しいくらい。でもその、前者の怪しさと後者の怪しさの方向性は全く別物だった。

 そろそろ、覚悟をきめて聞くべきか。そう思って、私は彼の座る椅子のちょうど対面に座った。

「ところで、名前は? どこから来たんですか? 魔法使いっていう証明は?」

 困ったように笑って、それから彼はお箸をおいてそうですねえ、と前置きする。

「名前は……ジル、です。貴方の知らない、遠いところから来ました。何か魔法をお見せできたらいいんですが、今俺は、さっきお話したように、魔法の力が薄れているんです。少ししたら体力みたいにある程度は戻るんですが、残念ですけど、今は無理です」

 要するに、魔法の使えない魔法使いってことか。……質問しても何もわからなかった。言いよどみ、ファミリーネームを名乗らないということは、偽名なのだろうか。彼が目を泳がせている間見ていた私の背後には、本棚がある。グリム童話の『青ひげ』。魔法使い青髭公のモデルは、ジャンヌダルクの戦友、『ジル』・ド・レ。流石にこれは、考えすぎだろうか? 私の知らない遠いところから来たにしては、日本語が上手すぎた。どうしてここに来たのか。どうして魔法の力がなくなってしまったのか。聞きたいことはあったけれど、なんだか説明してもらえなさそうで(してもらえたとしても理解できなさそうで)、私は質問を止めた。もともと喋ることは、得意ではない。

「貴方の、名前は?」

「ミサキ」

「字は、どう書くのですか?」

「美しく、咲く」

 自分の名前の癖に酷くきれいであんまり好きではなかった。どうせなら、岬とか、未咲とか、できたら『美』なんて字、当ててほしくなかった。けれどまあ、自分で名前を付けられるわけでもない。父のくれた数少ない贈り物の一つ。わざわざ変える必要もないけれど。

「いい名前ですね」

 現実でそんな台詞、聞くことがあるなんて思わなかった。

「あ、ありがとう」

「美咲。折り入ってお願いがあるんですが、俺を一晩泊めてくれませんか?」

 話の流れからして唐突だったけれど自分でも驚くくらい、唇は簡単に言葉を吐いた。

「いいですよ」

「本当ですか」

 思えばその時、私は少しおかしかったのだ。秋のもの悲しさや人恋しさに、圧倒されていたのだ。突如降ってわいてきた非日常を、みすみす追い出したくはなかったのだ。

 遊びに行く友達もいない。部活も、今はしてない。恋をすることも、なかった。

 けれど家に、自称魔法使いは転がり込んできた。




 ベーコンに焦げ目がつく匂いと、コーヒーの柔らかい香りで目が覚めた。

 ケータイのスリープを解除して時間を確認すると、まだ午前六時半を少し回った所だった。すこしゆっくり寝ようと思っていたのにな、と怠い体をゆっくりと持ち上げる。昨日は結局二時まで起きていたのに、なんだかすっきり起きられた気がする。もしかして、寝る前に魔法使い……もとい、ジルが作ってくれたミルクセーキのおかげだろうか? まあ、そんなことはなくただの生活習慣の賜物だろうけれど、二度寝するには、惜しかった。

 起き上がってパジャマを脱ぎ捨て、代わりに制服を着て髪を整え、人に見せられる必要最低限の格好になってから、私は階段を下りてリビングに入った。

「おはよう美咲。台所、お借りしてます」

「おはよう。手伝います」

 お兄ちゃんの服を着て、何かで髪を縛ったジルがキッチンに立っていた。なんだかとても様になっていて、ちょっと微妙な気持になったのは内緒だ。……背丈がお兄ちゃんによく似ていた。

「じゃあ早速なんですが、平べったいお皿を二枚と、トーストが盛れるお皿を二枚、貰えますか? 朝はコーヒーでいいんですよね。トースト、何で食べますか?」

 ジャムでいい。そう告げながら食器棚から白いお皿を四枚取り出して、ジルに渡した。ついでにマグカップに、できているコーヒーを二杯注いで自分の分には牛乳を注ぐ。子猫はまだ眠っているらしく、段ボールにタオルを詰めた即席のベッドの中で、おとなしくしていた。

「ジルは、ブラック?」

「あ、お砂糖を少し入れてもらえますか? ミルクは要りませんから」

 言われたとおりお砂糖を入れて、とん、と作業台の端に置く。一口飲んで、ちょうどいい塩梅ですと彼は笑った。

「ねえ、スープ飲む? オニオンスープの賞味期限が近いんです」

「頂きます」

 と言っても、簡単なものだ。お湯を沸かして、粉末スープを入れて溶くだけ。スープ皿に入れたそれとコーヒーをテーブルに運ぶと、その端。ちょうど昨日私が座っていたところに、お弁当箱が置いてある。

「すみません。お弁当も勝手に作らせていただきました。昨日の野菜炒め、結局俺が全部食べてしまったので。ご飯は昨日の残りを使ったんですが、卵とウインナーと、いくつかのお野菜、勝手に使いました」

「あ、ありがと……」

 朝ごはんも、お弁当も作らない日は珍しかった。かぱ、と蓋を取ると色とりどりのおかずが並んでいる。少し感動してしまって、彼が一人でお皿を抱えてこっちに来るのに、手伝いもせずただじっとお弁当を見つめていた。

 ベーコンエッグ。レタスとポテトサラダ。イチゴジャムとトースト。それからオニオンスープとコーヒー。

 こんなにちゃんとした朝ごはんは久しぶりだ。自分でご飯を作るようになって一週間くらいは、こんなんだったような気もするけれど。用意されたのは、お箸じゃなくてフォークとスプーンだった。取りあえずスプーンでポテトサラダを崩して一口。茹で具合もマヨネーズの加減も、そう、いいとても塩梅。

「よく眠れましたか?」

「え、うん。眠れた」

「それはよかった」

 私も何か、訊くべきだろうか。そわ、としながらトーストにジャムを塗って口に運ぶ。どれもちょうどいい加減で、私よりもずっと料理慣れしているようだった。ちろ、とジルを見る。正確には、ジルの皿の中をみた。どれもこれも、とても少ない量で、成人男性が食べる量とは到底思えなかった。小食なのだろうか。朝はあんまり、食べない主義とか? 私の視線に気づいたらしいジルは、ベーコンを口に運んで、飲み込んでからこういう。

「朝は、あんまり。昨日の夜たくさん食べましたからね」

「そう。あの、昨日、多かったかな」

「美味しすぎて食べ過ぎてしまっただけですよ」

 その言い方は素なのだろうか。家主に気を使っているだけなのだろうか。それが私には理解できなかった。もぐ、とベーコンエッグに手を付けた。

 なんだか変な感じがして、咀嚼しながら、考え込む。自分が作ったのではないご飯を食べるのも、こうやって誰かと一緒に、っていうのも、なんだかとっても久しぶりで、最後にした時の事を思い出せない。嫌だな、何でもないときに泣きそうになる。疲れているのだろうか。

「美味しく、ありませんでしたか」

 心配そうな目でこちらを見るジルの目に、はっとした。

「ううん! そんなことない、美味しいです」

「よかった。ところで家を出るのは、何時ですか?」

「今日は七時半」

「じゃあ、俺もその時間に出ます」

「……そう」

 正直、少しだけ動揺した。そして動揺したことにさらに動揺した。たった十時間前後の話なのに。そのうち数時間は寝ていたというのに。こんな不審者、普通なら家にあげること自体があり得ないことだってわかり切っていたのに、どうしても寂しかった。名前しか知らないこの相手を失うことを、寂しいと思っていた。と、起きだした猫がおなかすいたといわんばかりに甲高い声で鳴きだした。後ろ足は、歩きにくいからか純粋にまだ悪いからか引きずっている。

「この子はどうしたらいいんですか? 病院とか、連れて行った方がいいのかな」

「いいや、良いでしょう。でもしばらく、外には出さずにいてあげたほうがいいかもしれません」

 そう言いながら、ジルは子猫を腕にのせてキッチンに消える。と、ミルクの皿を手に増やしてまたリビングへ。分かりやすくなんて勝手な、と言わんばかりの表情をしてしまった。良いのか悪いのか、しかし彼は私に目を合わせることはしなかった。避けているのだろうか。

「魔法の力は、問題ないの?」

「万全とはいいがたいですが、昨日よりはずっといいです。ああ、昨夜の『魔法使いの証』ですが、こんなものを作ったので、使ってください」

 そう言って、彼の上着のポケットから出されたのは、手のひらに収まるくらいの小さな、ライオンのようなタンポポのような形をしたキーホルダーだった。

「これは?」

「今日は雨が降りそうですから。これを持っていれば、雨に打たれることはありませんよ」

 なんとも胡散臭かった。けれど私はそれをそっとケータイの、ストラップを付けるための輪に通す。効き目のほどは不明だけれど、お守りのようなものだろう。

「もっとなんていうか、瞬間移動とか、できないの?」

「ああいうのは消費が激しいんですよ」

「消費って、何を消費するの? 体力とか、そういう?」

「それを説明するには、時間がかかります。学校に遅刻しますよ」

「じゃあ帰ってきたら教えてください」

 彼は少しだけ目を丸くした。

「ジルの魔力、万全じゃあないんですよね。またどこかで立ち往生するくらいなら、金曜の朝までならいてくれて構わない。鍵をしてくれるなら外に出てもいいし、家の物、好きに使ってくれていい。その代り、今日みたいに朝ごはんとお弁当、作って」

 悪い取引ではないでしょう、と余裕綽々のように振舞った。内心ではこれ以上ないほどどきどきしていたけれど。幼い駆け引きであったが、私にとっては初めてだった。目を合わせられなくて、お弁当の蓋をそっと撫でる。なんて言ってくるのかな、と恐る恐る顔を上げると、彼は丸くした目のままで私をじっと見ていた。気恥ずかしくなって、また目を逸らした。

「それじゃあ、」

 視界の端からにゅっと手が現れて、彼は「握手」、と言った。握手なんてドラマの中で会社の偉い人が偉い人とするものだと思っていた私は、ひどく緩慢な動きで手を差し出した。彼はその手をごく自然な動きで握った。

「お世話になります。よろしく、美咲」

「よ、よろしく」

 緩くもなければ、力強すぎることもない、絶妙な力加減。私の方はというと、一応握ったかな、程度であった。と、彼は私の手を握ったまま、視線を私の背後にやった。本棚ではない。その横にかけた時計。つられて私も見ると七時三十分だった。

「わ、ああ」

「早く支度して。荷物は?」

「二階」

「お弁当包みます。水筒は持っていきますか?」

「持って、いく」

 食べ終わった食器もそのままに、私はバタバタと二階に駆け上がって鞄を取る。ついでに、ケータイ番号を書きなぐって「何かあったら連絡して」と言う。彼が電話の使い方を知っているのかは不明だが、IHのクッキングヒーターをつかえたのだから、問題ないだろうと信じてみる。紙切れと引き換えにお弁当と水筒を受け取り、私はバタバタと家を出た。

「いってらっしゃい」

「い、いってきます!」

 そんな挨拶も久しぶりであった。




 四限目の終わりを告げる、音の割れたチャイム。連絡の来ないケータイをそれでも机の上に出すと、クラスメイトの女の子に話しかけられた。

「佐久間さん、そのキーホルダーどうしたの?」

「ああ、これ? 知り合いがくれた。……お守り、なんだって」一緒にご飯を食べるだけの仲だ。友達、といえば友達だけれど、彼女たちはどう思っているのか分からない。ガタガタと机を私と合わせて、彼女は私の真向かいに座る。

「ライオン? タンポポ?」

「わかんない。なんなんだろうね」

「海外のお人形かなにか? そういうわけわかんないのって、逆にご利益ありそうだよね」

「どうなんだろ」

 くしゅん、とその子がくしゃみする。心なしか涙目で、花粉なのか風邪なのかは知らないが、私はそっとティッシュを差し出した。

 そうこうしているうちに他の女の子も集まってきて、それぞれが適当に机を並べだす。私の周りに集まってくるのは、別に私に人望があるからというわけではない。たまたまこの前の席替えで、私が最後列になり、後ろの席と横の席の三つが空いているからだ。この前は、ちょうど私の斜め向かいに座っている子の席の近くに、私達は移動してご飯を食べていた。

 別に、学校で一人なわけじゃない。彼女を煩わしいと思ったことは一度もない。できるならもっと仲良くなりたいけれど、放課後に遊ぶ時間はないのだ。そんな付き合いの悪い私にもこんなふうにいっしょに喋ったり、ご飯を食べてくれる彼女たちには、素直に感謝している。

 ここは一人でいるだけで、差別されかねない箱庭だ。煩わしいとは思わないが、ひどく窮屈に思えた。




 彼女たちは今日も予備校までの時間と課題を図書室で潰すようだった。みんなが片手、または自転車に傘を差して校門をくぐる中、私は鞄に折り畳み傘も入れずにそれに倣う。と、マナーモードにしているケータイが震えて、着信を告げる。家からだった。恐る恐る電話に出て「もしもし」と言うと、向こうからにゃあ、という子猫の鳴き声が聞こえた。

「美咲。学校は終わりましたか?」

「ああ、ジルか。……いま、校門を出たところです」

 予定より仕事が早く終わって、家に帰ってくるっていう可能性も無きにしも非ず、なのだ。

「晩御飯、これじゃあちょっと何も作れないんです。食べたいものの材料を買ってきてくれませんか?」

「わかった。っていうか、何が食べたい? 適当に買って帰ります」

「じゃあ……」

 私がポケットからメモ帳を出す頃、向こうからはなにかページを繰る音がした。数秒後、つらつらと野菜やらなにやら材料を告げてきたから、もしかしたらお母さんの、買ったままで放置してある料理本でも読んでいるのだろう。ひき肉、玉ねぎ、パン粉、玉子。隠元とコーン、それとにんじんは付け合わせ用だろうか。スーパーでそれらを買って外に出ると、空がぐっと暗くなっていた。雨雲だ。急ぎ足で帰宅すると、タイミングを見計らったように雨が降り始めた。

「ただいま」

「おかえり美咲」

 遠くから、ジルの声が帰ってきた。久しぶりに掛けられるおかえりに少し感動してしまった。『いってきます』と『ただいま』は、テレビ番組で防犯のために言うべきだっていってたから馴染みがあるけれど、それに言葉が返ってくるというのは、純粋にうれしいものである。ああ、そういえば朝のワイドショーに出てくるお笑い芸人とかに、『おはようございます』は言っていたかな。『こんばんは』、も。

 部屋で着替えてから降りてきて、ホットミルクで作ったコーヒーを飲む。ああ、そういえば。

「ねえ、魔法の力について教えて」

 作り話なのか、それとも本当の話なのか。それは分からなかったが、私は純粋に、彼の話に興味があった。信じるとか、信じないとか、多分そういうことではない。というか、信じてしまったとしても彼の魔法の話は私に直接の関係はないのだろう。だと思う。

「ああ、約束でしたもんね。何から、説明しましょうか」

 むかいの席に座った彼は、うーん、と悩んで、それから口を開く。「この世界は、目に見えない力で溢れています。たとえば、火、水、風、土。動かす力、音の力。その他にも、ありとあらゆるエネルギーで溢れています」私は、中学の時に習った位置エネルギーとか、音エネルギーみたいなものを思い浮かべた。それから、うんと頷く。「俺達魔法使いは呪文や魔法陣……どちらも、エネルギーを使役するための命令文を使ったり、するわけです」

「プログラム言語、みたいね。わかるかな」

「美咲の持っている小さな電話とか、電子機器を動かすためのもの、ですね。あまり詳しくはないですが、いろんな機能を呼び出したり、計算しているんですよね。似ていると思います。呪文を間違えると、正しく発動しなかったりするし。科学技術と変わらないかもしれません。力を操るための言葉が、初めからこの世界には組み込まれていたりするんですが、それはそう、機械のようなものかもしれません……。ここまで、大丈夫ですか?」

「なんとか」

「魔法の力、魔力と呼ばれるようなものは、機械に対する電気のようなものです。俺達魔法使いは身体にある程度、魔法の力を貯蓄できます。それを使役して、魔法を発動します。昨日の俺くらい使ってしまうと、しばらく溜まるまで、何もできなくなります」

 何をしていたのか聞きたくなったけれど、きっと教えてくれないだろう。そう思って、私は頷いた。

「暫くすると、体力みたいに回復するわけです。人間は、物を食べて寝て、元気になるでしょう? あんなかんじです」

「じゃあ、いっぱい食べたらいいわけ? いっぱい寝たりとか」

「いえ。食べて寝て回復するのは少しだけ。その場しのぎにはなりますけれど。……もともと、俺は食べるのと寝るのは、そんなに必要としないんですよ」

「何もしなくて休憩していたら、少しずつ戻ってくる、ってことで、あってる?」

 それだと途方もない時間がかかりそうである。少なくとも、食べて、寝るだけでは、彼の魔法の力はあまり回復しなかったらしいし。もっとも、彼が魔法の力を回復して何がしたいのかが分からない以上、どれくらい回復すればいいのかはわからないから、私が時間がかかるというのは、あまりにもお粗末な想像なのかもしれないけれども。

「まあ、だからこそ、こういうのがあるわけですが」

 そういって、私が昨日ハンガーにかけた彼の上着の内側をまさぐって、それから宝石のようなものを取り出して、私の手のひらにのせた。赤い、透明な宝石。内側を橙色の光がちらついて見える。中に他の宝石が含まれているのだろうか。

「魔法の力を一時的に移して結晶化したものです。これを使えば、込められた力に応じた魔法を使えます。電池、みたいなものでしょうかね」

「ただの石じゃ、ないんだ。これじゃあ、万全にはなれないの?」

「すくなくとも、俺が今からしたいことは、できないんですよ」

 柔和に微笑んで、手を差し出す。それに石をのせると彼はまた丁寧に上着に戻した。

「あとは、火とか水とかの力を直接借りたりすることもあります。まあ、火が火であるエネルギーよりも、質は落ちますが……どうしました?」

「ごめん。割と地に足付いた理論なのね、魔法って。やっぱりちょっと化学に似てる。苦手だけど」

 それから、すこしだけ彼の故郷の話をした。彼は魔法でいろんなところを旅して、此処はその旅の先の一つだという。といっても、彼は私が普通に話をして通じるくらいこの世界のこと、というか、現代日本のことをしっているようだから、彼の旅の途中の話ばかりだ。

 知らない花の名前のこと。そしてその花言葉のこと。知らない言葉で紡がれる歌と、その歌詞の意味のこと。旅の仲間が何人かいたこと。一人は料理が下手で、ジルが作らなければ飢えるか、食中毒で死んでいただろうこと。そこまでは教えてくれたけれど、旅の理由は話さなかったし、その人が今どうしているのかも話さなかったし、私が話させることもなかった。

 寝ようかと立ち上がったとき、昨日のミルクセーキが美味しかった、と言ったらそれのレシピを教えてくれた。けれど、私が作ったら、どうやっても同じ味にはならなかった。あと三日で、上手くなるだろうか。

(そうか、あと三日)

 マットと布団の間に挟まれながら、私はケータイを見る。二杯も飲んだ不味いミルクセーキで、おなかいっぱいだった。

 金曜日には、お母さんが帰ってくる。それまでの、短い非日常契約である。

 慣れてはいけないのだ。戻れなくなってしまう。



 フレンチトーストとスクランブルエッグにサラダ。それからコーヒー。高タンパク質な朝食を空にした私は、猫に遊ばれている上着を取り上げて、ブラシをかける。テーブルからお皿を取って、ジルはキッチンのシンクにそれを置いた。

「ごちそうさま」

「おそまつさま。今日は俺が買い物に行っておきましょうか」

「いいよ。私が行く」

 慣れてはいけないのだ。ただ彼は、雨止みを待っているだけなのだから。友達になるには、残り三日という期間は短すぎる。ただご飯の心配だけはしなくていい。それだけなのだ。不愛想になりすぎないように、けれど無駄に愛想よくならないように、私はできるだけの注意を払ってそういう。なかなか取れない猫の毛に苦戦していると、ジルがその細長い体躯を曲げて、私にガムテープを差し出した。あまりにも実用的すぎる日常の小さな知恵。昔から猫とか鳥とかに好かれやすいという魔法使い的エピソードは聞いていたけれど、あの上着についた毛であったり羽であったりを、ガムテープでペタペタとっているさまというものはなかなかどうしてシュールにすぎた。

「ありがと」

「食べたいものを買ってきてください」

「献立を考えるのも契約のうちに追加する。いい?」

「じゃあ、また連絡します」

「わかった」

 一階に持って降りていた鞄にお弁当と水筒(昨日は水筒に、とてもいい匂いのする紅茶が入っていた。何処か遠くのお茶らしく、私がこれまで飲んだお茶の中で、一番おいしいと言っても過言ではなかった)をつめて、立ち上がる。猫が足元にまとわりついて毛だらけになったけれどもう足元はあきらめることにする。

 BGMにしていた朝のワイドショーで、今日は雨が降らないと言われた。鞄一つの登校。「いってきます」に、「いってらっしゃい」。

 あと二回、聞けるだろうか。




「佐久間さんって、猫飼ってるの?」

「え、やっぱタイツ汚いかな」

「ううん、でもやっぱり」

 彼女は下がり眉で笑って見せて、くしゅん、と可愛くくしゃみをした。「猫、分かるんだぁ」慌ててティッシュを差し出すも、手で断られた。猫アレルギーってやつか。悪いことをしたな。

「ごめん、気を付けるよ」

「いいのいいの。猫好きだし。好きだけど、ダメなんだよね。困っちゃう」

 どう声をかけようと戸惑っていると、どうしたの? なんて呑気にいいながらいつものメンツで集まって、机を移動させる。それが終わったころようやく落ち着いた様子で、彼女はようやく机を合わせて、お弁当箱を開いた。言っては悪いが、彼女たちのそれは冷凍食品らしいおかずが八割で、後の二割は玉子焼きなのがほとんどだった。一方私のそれは、ハンバーグ、野菜を混ぜた玉子焼き、キュウリをハムで巻いて爪楊枝で刺したやつ。ご飯は、私ならこの子と一緒で、絶対そのまま入れてふりかけと持ってくるのに、丁寧におにぎりにして、海苔で巻いてある。お手本みたいなお弁当である。

「猫飼ってるの? 写真とかない?」

「か、飼ってるわけじゃないんだ。ただちょっと、脚を痛めてて、保護してるの。写真あるかな」

 撮ったのはあるけど、すばしっこくてピンボケした写真ばかりだった。そう鞄のポケットを漁るけれど、そこにいつもあるケータイはなかった。(あ、今日、入れたっけ?)さっぱり入れた覚えがない。どころか、今日起きて家を出るまでに、ケータイを触った覚えがなかった。いつもなら朝はワイドショーを見ながらケータイで天気を調べたり、ゲームしたりしているから……。それが今日はなかったせいだ、と勝手にジルのせいにした。

「ごめん、ケータイ忘れちゃった」

「え、大丈夫なの?」

 大丈夫、と言おうとしてジルとの約束を思い出す。『献立を考えるのも契約のうちに追加する。いい?』、『じゃあ、また連絡します』……。

 少し押し黙った私に、大丈夫だよ! と一人が明るく言った。

「大丈夫だって。そんな心配そうな顔しないでよ」

「え、あ、ごめん」

「びっくりした。佐久間さんってしっかりしてるイメージあったけど、意外とうっかりさん?」

「そうかも」

 また見せてよ。と一人が言うと、別の一人が猫自慢を始めた。見てみて、とケータイを回す。「この子さぁ、兄ちゃんが拾ってちょっとだけ育ててたのを、会社の寮が変わるからって預かったんだけど、兄ちゃん大好きでさ。兄ちゃんが帰ってきたら、すっごいテンション上がって、帰ろうとしたら私らに絶対聞かせないような可愛い声でにいにい鳴くんだよ」

「かっわいいー。てか意外。猫って飼い主の事三日で忘れるとかいうのにね」

「絶対ガセだよー。少なくともうちの子は、兄ちゃんのこと好きだもん」

 ケータイが回ってきて、それを見ると薄い茶色の毛をした、青い目と緑の目をした綺麗な、大人の猫。ジルに、少し似てるなと思った。

「美人でしょ。オスなんだけど」

 ますます似ているように見えた。隣にケータイを渡すと、それを一目見てから持ち主に返した。

「飼い主に似るっていうけど、田村ん家はお兄ちゃんが男前なの?」

「ちょっとそれどういう意味ー? 吉田ん家は猫飼っても絶対美人に育たないからぁ」

 ふわ、と風が吹いて、その中に雨のにおいを感じた。はっと振り返る。

「やだ、降ってきた。今日傘持ってないのに」

 反射で、部屋の二階にある、ケータイに付けたストラップを思った。




 降ったり止んだりしていたが、ちょうど十五時になってまた降ってきて、みんな部活をしながらとか、勉強をしながら雨宿りするらしい。中にはお家の人を呼ぶ人もいるみたいだった。

 それでも雨がやむことを信じて、教室で課題をこなしながら、じっと外を見やっていた。カップルとか、友達同士とか、部活の先輩後輩とかが一つの傘を持って、私の前を通り過ぎていく。中には誰かに連絡を取りながら、足早に通り過ぎていく子もいた。私の行きつけのスーパーまで走るから、そこまで迎えに来て、という連絡が多かった。正直言って羨ましい。

(今日牛乳安いんだっけ)

 それを買うために自転車で来たんだったか。スーパーまで行って、それと温かいお茶でも買って、イートインで飲みながら雨宿り、にしよっかな。そもそも降るはずじゃなかった雨だ。また上がるだろう。重い腰をあげた頃、教室の廊下側の窓に見覚えのある細長い電信柱……ではなくて、フードを被った男の頭が覗いて、思わず「げっ」と呟いてしまった。

「あ、いたいた。美咲。探しましたよ」

「な、なにしてんの? 警備とか大丈夫だったのっ?」

「人避けはしてますよ。誰もいないでしょ」

 そういえば、数分前から急に人が少なくなっていたような。でもそれってもう止まないことを察して帰ったあとなんじゃあ。そういい返してやろうかとおもっていると、彼はいつもの無邪気な笑みを浮かべ、パーカーのポケットから、名札を取り出した。

「というのは魔法使い的ジョークで、ちゃんと許可はとってありますよ。若い事務員だったので、二年前卒業した卒業生なんですって言ったらくれました。どこでも堂々としてれば何とかなるもんですね」

 知りたくなかった世渡り法である。

 ちら、と見えた名札には、整った字で『藍井真歩』と書かれていた。『あおいまほ』。青髭。魔法使い。考えすぎだと信じたかった。私の疑念とストラップをくるくるとそれに巻き付けて、彼はまたポケットに戻すと、代わりに持っていた鞄(私がコツコツとパンを買って応募した、キャラクターの絵のついたエコバッグだが)から例の料理本を取り出して栞を挟んだ見開きを見せた。

「今日は肉じゃがを作ってみたいんです。ジャガイモも玉ねぎも家にありましたから、使っていいですか?」

「いいよ。お肉買いに行こ。あと牛乳」

「あ」

「なに。メモ忘れた?」

「傘一本しか持ってきてないです」

 なにしに来たんだろう。仕方なく二人で事務室に名札を返して、自転車置き場に行って、それからようやく帰路についた。傘を持たせて、私は自転車を引いて、ゆっくりと歩く。脇を相合傘したカップルとか、合羽を着て友達同士で並走しながら走り去る自転車とかがすり抜けていった。

 と、私を追い越した自転車が、道の反対側で急にブレーキを掛けた。慌てて降りるとしゃがみ込み、もう一方の生徒を呼ぶ。その声には覚えがあった。

「田村さん?」

「知り合いですか?」

「クラスメイト」

 これ。と自転車をジルに預けて、私は傘から抜け出して走る。

「ど、どうしたの」

「佐久間! ど、どうしよ……!」

 何かを抱えている。それに気づいたのは、応えた吉田さんが、田村さんの腕の中に視線を落としたからだった。

 黒猫だった。ぐったりして、動かない。誰が見ても、あまりよくない状態っていうのは分かる。手で触れると、雨じゃない、少しの粘着質を持つ『何か』が手に触れて、はっと手を放して見る。

 赤。

 よく見ると足元にも同じ色が。いいや、少し酸化して赤褐色になっている。

 駄目だ、と思った。反射で足の力が抜けて、その場に膝をつく。なんとか倒れずに済んだけれど、ちょっと考えが、纏まらない感じがした。

「どうしよ、脚、滑らせちゃったのかな。どうしよう」

「美咲」

 ぽん、と肩に手が置かれて、私ははっとして振り返る。険しい顔をしたジルが、私の目を見抜いてる。

「ジル。どうしよこの子、血、いっぱい出てて、死んじゃうよ」

「落ち着いて。その子、見せてもらえますか?」

 傘をたたんで自転車に預け、田村さんから猫を預かったジルが、一言二言、何かをぶつぶつと呟いて、顔をしかめる。「ジル」と名を呼ぶと、人差し指を立てて唇に寄せた。今は話しかけないように、ということらしい。ぶつぶつ呟いて、体のあちこちを触って、また呟いて。それを繰り返すけれど、彼の表情はどんどん険しくなっていった。そうして、彼は黒猫の、その開けっ放しになっている目を、そっと閉じた。

「ジル、」

 険しくしていた顔を、少しずつ、悲しげなそれにしていくさまをみて、吉田さんが「そんな」と呟いた。

「なんで! まだあったかいよ! この子は生きてる! あの子も助けてくれたじゃん!」

「もう死んでるんです」

「そんなことないよ!」

「佐久間、いいよ」

 田村さんは私の肩に触れようとして、その手を見て止めて、代わりに強く握りしめた。

「いいよ。分かってた。ごめん」

「そんな」

「仕方ないけど、これがこの子の、運命なんだよ」

 運命なんてそんな、高校二年生にふさわしくない言葉を彼女は選んだ。そんなことないよね、と吉田さんを見ると、彼女も私と同じように悲しい顔で私を見ていた。ねえ、ジルもそう思うでしょう? と見たら、彼は田中さんとおんなじ、割り切った目をしてた。

 埋めてあげようと提案したのは、ジルだった。そのまま彼が猫を抱いて、始終、無言のままに近所の公園に運んだ。花壇を整備するために差してあるスコップを拝借して、隅の、花の埋まってない、かつ晴れたら日の当たりそうな場所を掘り返して、埋める。手分けして名も知らない花を摘んで、埋めた場所の上に、そっと供えると、二人は帰って行った。

「……黄泉の国で、どうか安らかに。そして幸せな来世をどうか」

 ポケットから例の赤い石を取り出して、ジルはそれを削り、親指の半分くらいに薄くしたそれを、ぱきりと折って花の上に散らす。と、割れた石が輝きを持って消えた。

「可哀想」

 ぼそりと呟いた私の言葉を聞き逃さないジルが、厳しい声色で言った。

「可哀想なんて、思ってはいけませんよ。俺達にはどうすることもできないんです」

「だって可哀想はかわいそうじゃない。死んだのは運命だからっていうの」

「違います。必然でも、非必然でも、死んだ魂に同情なんてしちゃいけないんですよ。お互いにどうにもできない。同情で、彼の魂を縛っちゃいけない」

 けれど彼の目に映った自分の顔も、彼自身の顔もよく似ていた。

 それからすぐに帰宅したけれど会話はほぼなく、私は子猫と共に二階に上がって、ご飯も食べずに早々に寝たのだった。




「おはよう。ご飯、まだなんですよ。ちょっと待ってくださいね」

「……ん」

 何事もなかったかのように、ジルは私に挨拶してきて、無視してほしかったわけじゃないし、気まずくなりたかったわけでももちろんないけれど、ちょっと拍子抜けた。今日はしっかりポケットに入れたケータイを見て、天気をチェックする。少し寒くなりそうで、どうやら夜には雨が降るようだった。

「美咲」

 ご飯を用意し終えたジルが、私の目の前にこぶしを二つ突き出した。

「選んで」

 昔、消しゴムとかこうやって隠して、『どーっちだ』ってしたなって、そんな昔のことを思い出す。直感で右手を選ぶと、彼はその手をほどいて、その中にあった小袋を私の手のひらに置いた。小学生の修学旅行で行った京都に、こんな感じのにおい袋とか売っていたような気がする。ためしにつまんで匂いを嗅ぐと、茶葉のいい匂いがした。

「これは?」

「おまじないです」

「なんの?」

「秘密」

「なにそれ」

 と思わず笑うと、ジルも同じように笑った。昨日の事なんて、なかったみたいだった。けれど昨日入りそびれたお風呂の代わりにシャワーを浴びようとして、そこにあった漬け置き用のバケツを見、私は思わず、脚の力が抜けてしゃがみ込んだ。

 昨日、ジルが着ていたパーカーが、中に入っていた。袖の先が赤黒く染まっていて、そこに漂白剤の、白々しい白が浮いていた。……あの猫は、死んだんだ。あの時はまだかすかにぬくもりが残っていたあの身体は今は土の中で、朝の寒さで冷たくなっている。

 一人で勝手に気持ち悪くなって暫くそのまましゃがみ込んでいたけれど、ふと視線を上げた先にある時計が七時を指していて立ち上がった。(それでも私は生きていくんだなあ)って、猫が死のうと、人が死のうと、生きていくんだなあと思った。




 肘をついた吉田さんが、唐突に「ケーキ食べたい」と言い出した。

 四時間目の、今日は調べものがメインの授業だった。あまりに突然の発言に、一同一瞬話をやめるも、いつものことか、という感じで調べものを続けていた。

「ちょっと無視? 酷くない?」

「佐久間さん、便覧持ってる?」

「持ってる。ちょっと待って」

「ねえったら」

 数ヶ月に一度。というか、一つの季節に一回はこういうことが起きるらしい。春先も急に「今日ピザ取りたくない?」といって、昼休みひっそりと家を抜け出して学校に一番近い彼女の家に出前を取って、三十分で食べてまたいそいそと学校に戻る、なんてこともした。それはそれで楽しかったけれど、正直午後の授業は早食いのせいでおなかがグロッキー状態だったのを、私はまだ忘れていない。中学も同じだった子たちは完全に無視できるみたいだったけれど、初めて同じクラスになって、慣れきっていない私はちろり、と彼女を見てしまった。

「佐久間は食べたいよねケーキ。甘いもの好きって言ってたよね?」

「え、ああ、そうだね。好きだよ」

「佐久間さん、これ一瞬付箋付けていい? てか相手しちゃダメ。調子に乗るからね」

「田村辛辣……」

 肘をついて両掌で顔を支えた吉田さんに、田村さんは「はあ」と短く溜息を吐いた。

「あんたね、夏休み急に夢の国行きたいって言いだしてその日の夜行バスに乗って、また次の日の夜行バスに乗って帰ってきたの忘れた? あれ次の日模試だったのに超グロッキーだったじゃん私達」

「あそこまでのことはしないってば。したいなら、付き合うけどさ」

「したくないです」

 なかなか楽しそうなことが、夏に起きていたらしい。それでもしっかり付き合ってあげている田村さんは、やっぱり良いひとであった。強制連行だったのなら、申し訳ない。

「放課後でいいからー。お昼に食べに行こうとは言わないよ」

「当たり前でしょ」

 先生がいなくなったタイミングでケータイを取り出し、ケーキの美味しさと景色の美しさで有名な、海辺の喫茶店の営業日を調べ始めた。誰々いく? という具体的な計画を立て始めたタイミングで、私はみんなに代わってできるところまで作業を進めようと、ノートを取り出した。

「私と田村は確定でしょ。知佳、今日暇って言ってたよね。星野は?」

「ごめん、生徒会の仕事」

「そっか。佐久間は?」

「え、わ、私っ?」

 ワクワクした視線を向けられて、私は今日も無理かな、と言いそうになって、やめる。普段の家事は、ほとんどジルがしてくれてる。連絡して遅くなると伝えたらいいだけだ。けれど、なんだかそれが酷く悪いことのような気がして、気が進まない。

 けれどここで断ったら、私は本当にこの人たちと友達になるつもりがないみたいだった。これまでと同じように断るだけなのに、今断ったら、私の気持ちがこの人たちと本当に仲良くすることを許さない気がした。

「待って。聞いてみるよ」

「おっけ。佐久間さんって甘いもの好きなの?」

「うん、でも人並かな。めちゃくちゃ食べるってわけじゃないよ」

「ああ、なんかわかる。コーヒーは牛乳だけで飲みそう」

「それは無理だよ」と言って困った顔をすると、けらけらと笑われて、私も笑った。先生が帰ってきてまるでずっとちゃんと作業したように装っていたら、プリントを提出するように求められて、昼休みのほとんどを、それに費やすことになってしまうことを、私たちはそのちょうど二十分後に知る。




「ジル、今日遊びに行きたいんだけど、いいかな」

「分かりました。夕飯はどうしますか?」

「い、家で食べる!」

「無理しなくていいんですよ」

「無理じゃないし。それに遅くにお母さんから電話があったらどうするの。誤魔化しきれないよ」

「わかりました。今日は夜雨が降りますから、気を付けていってらっしゃい」

「ん」

 そう言って、お土産にケーキ買って帰るよ! と言おうとした瞬間に、「あ、猫吐いてる。じゃあ」という声で電話が切れた。何よぉ、せっかち。と呟いて、ケータイをポケットに戻すと後ろからがばっと肩を抱かれて情けない声が出た。

「誰と電話してたの?」

「お、お母さん」

「ふうん……。てか昨日一緒にいたあの眼帯の人、どういう人なの? バンドマン?」

 バンドマン、と言われて思わず、ゴテゴテに化粧をして、首を振りながらギターを弾いてるジルを思い浮かべて、あやうく吹き出しそうになった。違和感がなさそうなのが、彼の恐ろしいところである。「違うよ。うちの居候なの」と答えると、吉田さんはふうん……と腕を組んだ。

「ま、いいや。いいって?」

「うん。でも夕飯までには帰る」

「それは全然! 私も七時からバイトだし」

 じゃあ行こう、と彼女は何かのバンドのリストバンドを巻いた手で私のそれを引いて、昇降口に連れて行く。もう田村さんも、原さんも待っていたらしく、もう靴を履いていた。自転車を置き去りに学校のすぐそばにあるバスに乗って、最寄駅から二つ先。その徒歩五分圏内に、その店はあった。

 海風が私達のスカートを揺らす。こっちの方が、少し地元よりも寒い気がした。メニューが外に置いてあって、今日のお勧めはガトーショコラらしい。それを見ている私の背中を、吉田さんがぽんと叩いた。

「さっむい。早く入ろ。中で実物見なきゃわかんないって!」

 そう言って叩いた背中を押し、彼女は私にドアを開けるように促した。お洒落な外観にふさわしい、木の枝の形をそのまま使ったドアの、取っ手という表現で正しいのだろうか。とにかくそれを引くと、中も随分可愛かった。あちこちに木製のものを使った、あったかい雰囲気のお店。緩やかな、カフェ特有のジャズミュージック。といっても大人っぽ過ぎない音楽。私はすぐにこの店が気に入ってしまったのだった。

「いらっしゃいませ。何名様ですか?」

「四人です。あ、先にケーキ見ちゃっていいですか?」

「かしこまりました」

 ショーケースに案内された私たちは、おもわず「おお」とも「わあ」ともつかない小さな歓声を上げることになった。色とりどりのケーキがそこに並んでいたからだ。

「知佳は、やっぱりチョコレートケーキ?」

「うーん。でもそれこの前食べたんだ。ミルフィーユにしようかな。でもこの季節のフルーツタルトっていうのも、おいしそう」

「前来たの?」

「うん、委員の先輩たちに連れてきてもらったの」

 えへへと柔らかく笑うと、でもなあとまた悩み始めた。無理もない。チーズケーキやチョコレートケーキ、ミルクレープにショートケーキ、タルトにミルフィーユ、なんてどこのケーキ屋さんにも置いてあるものも勿論そうだが、他にもたくさん変わったケーキがあった。そしてどれも、とても美味しそうなのだ。吉田さんが、よしと呟いて(呟きにしては、少し声が大きかったので、ただ言ったとする方がいいのかもしれないが)、みんなのほうを振り向いた。

「きーめた。先頼んで、席取っとくね!」

 そうして紅茶といちごのタルトを頼んで、二階に消えていった。

「タルト……私が頼もうとしてたのに。何か言ってから注文しなよね」

 そう愚痴っぽく、けれど仕方のない可愛い妹に言うような口調で田村さんが言って、私に「そうでしょ?」と同意を求める。「そ、そうだね」私も同意して、それからまたショーケースに向き直った。

 結局、他の二人がそれぞれ、ミルフィーユとショートケーキ、ココアとカフェオレを、そして私が最後まで悩んでガトーショコラとミルクセーキを頼んで、二階に上がる。

 たっぷり二時間、うるさくなりすぎない程度にしゃべって、食べて、表情筋が筋肉痛になりそうなくらい笑ったけれど、ミルクセーキはジルの作ったほうが美味しかった。

 また来ることを約束して学校のバスに乗り込むと、お母さんからメールが来た。『明日朝帰る』ということらしい。急に現実に引き戻される。

「美咲、どうしたの?」

 急に画面を見て固まった、成り行きで美咲とよばれることになった私に原さんが心配そうに話しかけてくる。「あ、いや、なんでもないよ」なんでもなくなるのだ。非日常は終わり。もう次に遊びに来れるのは、いつになるのかわからないのだ。校門で、自転車を取りに行く原さんに手を振って、私は改めて家路につく。

(ミルクセーキの作り方、ジルにまた、ちゃんと教えてもらわないと)

 それからちゃんと、昨日はきつく言ってごめんって、晩御飯のこともごめんって謝って、それからいろいろまだ話してないことたくさん話さなきゃ。それでお別れは、きちんとしよう。幽かに夕飯のにおいがする。カレーの匂いだ。ほんの少し気合を入れて、鍵を開け、家に入る。

 ……けれど出迎えてくれたのは、子猫だけだった。

「ジル?」

 リビング、キッチン、和室、二階の私の部屋、お母さんの部屋、貸していた空き部屋、物置部屋。

 お風呂、裏の小さなベランダ、トイレ。

 それから、それから、扉という扉。例えばクローゼットの中まで調べたけれど、どこにもジルはいなかった。それどころか、昨日の夜までは確かに敷いていた空き部屋の布団、出していた机。貸していた服。そういうものが全部、元あった場所に一ミリたがわず置いてあった。ただカレーと猫だけを省いて、日曜日のお母さんが来る以前の私の家に戻ってしまったみたいだ。

 初めから、ジルなんていなかったみたいだ。

「行っちゃったんだ……」

 鞄を置いたら力が抜けて、ぺたん、とキッチンに座り込む。食器棚に置いてあるマグカップは四つで、うち一つはジルに貸していたものだった。置きにくかっただろうに、元あった奥の方にそれはあった。口の中に、ミルクセーキの味がよみがえって、気が付いたら私の視界が揺らいでいた。その目の中にたまった涙が頬を伝いそうになって、私はぐっと天井を見た。泣きたくなかった。駄目だ。どうするべきか考えよう。どうしたかったのか考えよう。まだ、まだ――泣いちゃだめだ。ちゃんとさよならって言うまで、泣いちゃ駄目だ。というか、泣くようなさよならにしちゃ、絶対駄目!

 ポケットからハンカチを取り出して、私は馬鹿みたいに上を向いたまま涙をぬぐった。そのまま、またローファーを履いて、傘だけ持って、家を飛び出した。

「行ってきます!」

 行ってらっしゃいと応えるように、猫はにゃあと鳴いた。




 降り出した雨に構わず、私は持ってきた傘もささずに走った。あんまり長距離走が得意な方ではないけれど、それでも信号で少しずつ休憩しながら、私は走った。何処にいるかとか、魔法を使われていたら追いつけないなんて考えなかった。ただ足の赴く方に走った。

 そうしたら、私は昨日の、猫を埋めた公園に来ていた。

「ジル」

 来た時と一緒の、あの蝙蝠傘みたいな恰好で、けれどフードを頭にかけないで、その色素の薄い髪を濡らしながら、彼は花壇の端を目の前に立っていた。

「ねえ、ジル」

 その後ろに立ってもう一度名前を呼ぶと、彼はゆっくりと振り返った。

「美咲」

 そのジルの顔は、笑ってはいなかったし、そして怒ってもいなかった。ただ、酷く痛そうだった。

「少し、俺の話を聞いてくれますか?」

 痛そうな顔で、それでも彼は言うものだから、私は何も言わずにただ頷いた。彼は一瞬だけ、目じりを下げて無理に笑った。けれど私がそれに表情を変えなかったからか、彼はすぐ、表情を戻した。

「俺はもう何年も、ずっといろんな場所を旅していて、一人になってしまったんです。俺にはいろんなことができたけれど、それでも出来ないことのほうが沢山あって、沢山ありすぎて、……だから、一人になってしまったんです。俺は、旅をしないといけないから、誰かと一緒に生きることはとても難しいんです」

 なにか言葉を掛けたかったけれど、私は何も言えなかった。けれど何かしたくて、手に持っていた傘を広げて、大きすぎる彼の身体がもうこれ以上雨に濡れないように、その下にそっと入れた。それから、できるだけ、笑顔になった。さっきまでケーキを食べていた時みたいに。あんまり上手じゃないかもしれないけれど、よかった。

「……ねえ、ジル。帰ろう」

 そう言って、私はもう片方の手を、すっと彼に差し出した。

 彼は私の顔と、それから手とをゆっくりと見比べて、それからたっぷり三十秒(いや、もしかすると十秒だったかもしれないし、一分だったかもしれない)置いてから、彼は私に向けてゆっくり、指の先を向けた。私は待ちきれずにその手を掴み、ぐっと寄せる。男の人の手だった。酷く冷たい手だった。

 でも生きてる。

 酷く冷たい、血の通った生きてる手だった。




 家に帰って、お風呂に湯を入れて、ジルを先に入れて、その間にカレーを温め、私もシャワーを済ませた。そのあと温めたカレーライスを二人で食べた。ジルは相変わらず、ほんの少ししか食べなかった。でもこの前は一口も食べなかったから、そう思えば食べている方なのかもしれない。食べ終わったのを見た彼は冷蔵庫からマグカップを取り出した。プリンだった。そんなの作ってる暇があったらメモの一つくらい残しなさいと言いたかった。電話の一本寄越しなさいと言いたかった。でもそれは、まあ、プリンと一緒に飲み込んだ。

「ねえ、もう一回ミルクセーキのレシピ教えてよ」

「材料はプリンとほぼ一緒ですよ」

「いい」

 ちゃんと覚えたいの。と私はキッチンの作業場に材料を揃えていく。それから、念のためメモ帳と、ボールペンも。ジルはくすくす笑いながら、冷蔵庫から材料を取り出す。この前と何ら変わりなくゆっくり説明しながら作ってくれた。その合間に、私はメモを取りながらさりげなく言う。

「ねえ、あの猫に名前付けていいかな」

「……いいですよ。どんな名前にしますか」

「ドレ、なんてどうかと思うんだ」

 彼は作業を止めて、まじまじと私を見て、それからふっと笑った。「気づいてたんですか?」気づくに決まっている。馬鹿にしていたのだろうか。酷い奴だ。

 ジルを無視して、今日からあんたはドレだよー、と猫に話しかける。まだ返事なんてしない。そのうち、するようになるのだろうか。まだ分からない。

「はい、できましたよ」

 そういって彼はマグカップを私に差し出した。受け取って、こくりと一口。どうやっても、違うのだ。

「美味しくなあれって、魔法をかけているんですよ」

 ここまで違うと、そうなのかも、って思ってしまう。

 それからは、明日以降の話はしなかった。私達はお互いの過去の話をして笑った。古い今日は終わり、新しい今日がやってきて、それから時計の長針が、二回りする頃、私達は眠った。

「おやすみなさい」

 ジルにかける、最後のおやすみなさいだった。




 金曜日の朝は、少し、雨が降っていた。

「……おはよ」

「ええ、おはようございます」

 トーストに、スクランブルエッグとレタス、それから少しのケチャップを挟んだサンドイッチ。それからスープ。これならまあ、忙しい朝でも真似できるだろうか。卵にはマヨネーズを入れればふわふわになるなんて、知らなかった。

 来た時と同じ黒い服を着たジルは私の前の椅子にまた腰かけて、ミルクティーを自分の分、それから私の分置いた。それを一口飲んで、ほうっと息をつく。

「美咲は何時に出るんですか?」

「八時」

「そうですか」

 彼は少しだけ目を伏せて、マグカップを両手で包むように持って、その中身に視線を落としたようだった。

「それまでには、この雨も止むでしょう。……では俺は美咲が出るその少し前に、此処を出ます。悪いですが、食べ終わらなかったら食器は自分で洗ってくださいね」

「いいよ、気にしないで」

 お別れの挨拶をしなきゃいけないらしかった。

 私も、スープのスプーンに映る自分の目をみた。歪んでいるせいか、なんだかすごく泣きそうに見えて、はっとして目を逸らした。

 それから、静かに、ばれないように大きく息を吸った。

「ありがと。……ごめん。他にどういっていいのかわかんなかった」

「いいえ。こちらこそ。急に転がり込んでしまったのに」

 くすくす、と私は笑った。

「やだな、なんか他人行儀」

「湿っぽい別れは、あまり好きじゃないんですよ」

「ジルにとっては何度目かわからない別れかも知れないけれど、私達にはそんなに、友達とのお別れってないんだよ」

「……そうですね。そうでした」

 別に、会えなくなるから友達じゃあなくなる。そういうわけではないと思う。そんなに友達が多いわけじゃない、むしろ片手で数えて、指が余るくらいなんだけれど。というか、昨日ケーキを食べに行ったみんなのことを、私が勝手に、もう友達だと思い込んでいるだけなんだけれど。

 彼女たちが、もしも友達だとして、私が彼女たちと友達でいたいって思っていて、彼女たちが私と友達でいたいって思ってくれている限りは、きっと友達なんだろうって、経験不足ながらに思うのだ。勿論、その逆も然り、なのだけれど。

「ジル、また遊びに来なよ」

 勿論、そういう自論を展開する野暮な気にもなれず、私はそう言った。

「ええ。また」

 そう彼は答える。なんだか耐えられない。私はふと振り向いて時計を振り仰いだ。七時四十五分。ジルはおんなじものを見て、それからさてと、と立ち上がった。それから黒い上着を手にした。

 行ってしまうのか。なんだか変な感じだ。もうずいぶん、日常になってしまっていたらしい。けれど寂しい気持ちを、誤魔化す気にはなれなかった。なかったことにしたくなかった。

 玄関までそろそろ着いて行く。猫、もといドレも私についてきた。名残惜しいのだろう。

 ジルは背中を丸めて、見たことのない素材でできた革靴を足に巻き付けて立ち上がった。それから、思い立ったように振り返った。

「な、なに」

「忘れ物です」

 そう言ってにっこりした彼は、私の両手を攫って、そっと持ち上げた。私の手と、ジルの手の間を、キラキラした金のような、銀のような、白いような、不思議な光が通ったような気がする。びっくりしてジルの目を見ると、色素の薄い片目の向こうも、その不思議な光みたいに、きらりと光った気がした。

「魔法の力、お裾分け。これで美味しいミルクセーキが作れます」

「ばか。いいよ。使わなくっても、美味しいの作れるように練習する」

「楽しみにしています」

 そうやって猫を撫でた。「お前も太りすぎないようにね。ええと、ドレ」そういったその手とドレの頭の間にも、光がふわっと通ったように見えた。それから屈めた体を元に戻して、最後にもう一度にっこりして、私もにっこりして、「じゃあまた」と言って、雨のちょうど止んだ朝の光に、消えていった。




 追いかけるような気にならなくて、私はくるりと踵を返し家の中を探索し始めた。あんまりのんびりしていると、遅刻しそうだったけれどお構いなしだ。

 キッチンには、もう一人分の食事。お母さんのものなんだろう。スクランブルエッグはお皿に取り分けられて、ラップに包まれてる。スープもスープ皿に。お鍋やフライパンは、元あった位置に何事もなかったように佇んでいる。

 テーブルの上には私の朝ごはん。といってもパンが一欠けらだけなんだけれど。それに手を付けようとして、やめた。先に二階を見たかったのだ。パタパタと二階に上がって、彼に貸していた部屋へ。やっぱり、何もかも、いなかった時と一緒だった。

 昨日の夕方とまるっきり一緒なのに、なんだか心はまるっきり違った。ふと手を見ると、なんだか内側から輝いているみたいだった。

 ジルは確かにいた。

 そうやって一階に降りて、また朝食の続きを始めると、玄関から「ただいまぁ」という間抜けた声が聞こえてきた。

 お母さんが帰ってきたみたいだ。最後のひとかけを口に運んで、紅茶で飲み込んだ。それから荷物を運びに、私は玄関に急ぐ。

「美咲ぃ、ただいま。……あ、猫!」

「ドレっていうの。飼っていいでしょ?」

「いいけど、ちゃんとあなたがお世話するのよ? それより美咲、見て! 虹!」

 そう言って玄関の外をお母さんは指さした。眩しくて目を細めて空を見ると、なるほど淡い虹が掛かっていた。

 ああ、きっとジルは、あの虹の向こうに行ってしまったんだ。なんだかそんな突拍子もない、幻想的なことを思えてしまった。まあ、五日間も魔法使いの話に付き合っていたんだから、仕方ないかな。

「あ、お母さん」

「なに?」

 きっと、ずっと先、ジルがこの家に来たら、私はきっと同じことを口にするだろう。いいや、したいし、する。

「……おかえりなさい」

 高校生になって、部活も、今はしてない。恋をすることも、なかった。

 けれど、魔法使いの友達も、放課後に遊びに行く友達も、いる。




 他に何を、望むことがあるだろうか。

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いつかの雨宿り 亜寿 @AJU_Kmsr

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