第3話

(3)



 娘の小さな靴音が通りの人ごみをかき分けるように進んで行った。確かに店主の言うとおり路の通りを二つほど南に行くと赤い煉瓦が見える。

 煉瓦の壁に黒い板の上にかけられた白い十字架があった。基督教会だった。

 娘はその壁に沿って歩き、電柱にかけられた一枚の木の看板を見つけた。看板には「島洋画研究所はこの奥」と書いてあった。

 そこで教会の建物は無くなり、小さな幅の路地の入口を挟んで隣に木造の種苗屋が見えた。

 娘は白い帽子の鍔を少し上げて視線を店の軒先へと送る。軒先には黒いプラスチック製のポットに入った苗と色とりどりに花が置いてあり、総髪にした店の若い女の売り子がお客の相手をしていた。どうやらこの時期に何を植えたらいいのか、そんな相談を受けているようだった。

 娘は視線を天井へと送った。そこには二つの建物の細い空間を埋めるようにアーチが掛けられている。

 娘は目凝らしてそのアーチを見た。細い黒い鉄線で出来たアールヌーボ調のアーチだった。大正の時代の頃に流行ったものだと分かった。

 今度は視線をそのアーチの下に伸びる幅の小さな路地の先へと向けた。路地の先は昼間なのに薄暗く途中で路地が折れているのか、暗闇だった。

 娘の背には人が行き合う声や靴音が聞こえたが、その路地の奥からは何も聞こえず、ただ静かな沈黙だけが蹲っていた。

 娘は立ち止まっていたが、意を決したように一歩その奥へ進もうとした。その時、隣の種苗屋の女の売り子の声が突然自分の耳に聞こえた。

「ねぇ、あなた島洋画研究所へ用事があるひと?」

 娘は突然のその声に少し驚いて、売り子の顔を見て返事をするのを躊躇っていると「ちょっと待って」と売り子が娘に言って店の軒先から向日葵を幾つか取って新聞に包み、娘の前に差し出した。

「ねぇ悪いのだけど、瀬戸君にこの向日葵持って行ってくれない。私、涼子っていうの、そう言ってくれれば分かるからさ。さっき研究所に戻る時にここに彼が立ち寄ってね、この向日葵を持ってきてくださいと言われたのよ。悪いけど、今私忙しいから、ね?」

 娘は差し出された向日葵を手にとった。受け取る娘を見ると解け始めた黒髪を片手で結い上げヘアバンドで素早くしめ「お願いね」と言って客の方へと行ってしまった。

 娘は向日葵の包を持ったまま、暫く去った店の売り子を見ていた。彼女はもう自分には関心が無いように店を訪れた客と話し込んでおり、自分の商売に熱中しているようだった。

 娘は手にした向日葵の黄色い花弁を見てそれを胸に押し付けると、そのまま路地の暗闇の中に足を踏み入れた。

 路地の暗闇の中に向日葵の黄色が浮かんだ。向日葵の黄色は心を灯す明かりだと、娘は思った。

(確かにあの売り子は、私に瀬戸君と言った。兄の絵を買った人は確かに画材屋の店主が言ったとおり、この暗い路地の奥にいるのでしょう)

 娘は静々と一歩一歩進んだ。進みながら先ほどの画材屋の店主の言葉を思い出した。

(潜った路地はL字型に折れているからその路地の先に小さな庭、そう箱庭が見える・・・、そう今確かにL字型の路地を折れようとしているから、その先に箱庭が見えるはず)

 娘は路地を折れた。

 するとその先に一筋の光が差し込んでいるのが見えた。その光の先を暗闇になれた目が追っていくと、どうやら路地の先は小さな扉があってその小さな小窓から光が差し込んでいるのが分かった。

 娘はその扉の前まで行くと光の差し込む小窓が自分の目線より少し高いところにあるのが分かった。

(外はどうなっているのだろう)

 娘は窓の外の風景を見るため、少し背伸びをした。

 窓の向こうに白い壁が見えた。視線を動かすとその白い壁際に背の低い色とりどりの小さな野辺の花が見え、短く刈られた黄緑色の草を飛ぶ小鳥達と小さな木造の二階建ての建物が見えた。

 色とりどりの小さな花にその建物は囲まれていた。

 よく見るとその建物の壁も黄色い塗装がされ、箱庭全体が何とも愛らしい芸術作品を思わせた。

(大阪の猥雑な街の路地にこんな場所があるなんて)

 娘がそう心で呟いたとき、箱庭を横切る小さな影があった。

 よく見ると小さな白猫だった。猫は草の上を調子よく歩いていたが扉の向こうにいる自分を感じたのか、耳をピンと垂直にして首を上げて立ち止まった。

 娘は扉を開けた。

 扉を開けると、小さな風が娘の頬を撫でた。

 そして草花に反射する檸檬色の陽の光が被った帽子の下の瞼を照らしてゆくのが分った。

 娘は瞼を閉じて白く細い指の左手でそれを遮るようにすると、自分の全身を陽光が覆うまで暫くそこに居た。

 どこかで小鳥の鳴く声が聞こえる。

 娘は閉じていた瞼をゆっくりと開いた。自分の青いワンピースの裾が見えて、先程の猫が自分の足にじゃれつくように寄り添うのが見えた。

 娘はしゃがむと向日葵の花弁を瞼の近くに寄せ、猫の喉元を指でくすぐった。猫はそれに気持ちを良くしたのか、低く鳴いて娘にじゃれついた。

 手に抱えた向日葵の黄色が、娘の瞼に反射して色を残す。

 その色が残る間、娘は暫く猫とじゃれついていたが、やがて立ち上がると建物の扉に向かって歩き出した。

 猫は娘の去る姿を見ていたが、駆け出すと歩き出した娘の後を追い抜いて建物の扉の横で開いている窓の側まで行って、そこで娘の方を振り返った。すると鳴き声をひとつ上げると窓を飛び越して室内へと飛び込んだ。

 娘は静々と歩いて建物の扉の前に立った。

 猫の鳴く声に混じって男の声がする。

「おや、ドガ。どうしたの。今日はいつもよりご機嫌だね。お隣の花屋の涼子さんが来た時より機嫌が良いじゃないか」

(ドガですって、あの猫ちゃん)

 娘は笑いを噛み締めるようにして口元に手を当て、そっと扉に耳を寄せた。

 娘は扉の向こうで猫の鳴く声が終わるのを待って、ゆっくりと扉を二度叩いた。

 扉を叩く最後の音がしてから数秒後、扉がゆっくりと開いた。

 扉が開くと室内から伸びる影が青いワンピースの裾に触れる。影がゆっくりと娘の頬に伸びてゆき人物の輪郭を整えると、やがて帽子の下の娘の瞳に届いた。

 影を避けることなく、娘は青年の影を瞳の奥に吸い込んだ。

 娘の瞳に所々絵の具で汚れた白いシャが見え、視線をゆっくり上に動かすと眼鏡を掛けた青年の細い切れ長の瞼が見えた。

 その瞼の睫毛の下で黒い瞳が娘を見ている。

 青年の黒い瞳は驚きが溢れていたが、その瞳は春の冷たい湖水の底に漂う清らかな清水のような透明さを娘に感じさせ、それは同時にこの青年の持つ人格の清らかさを心に深く印象づけさせた。

(悪い人ではない)娘は思った。

 青年は少し驚きながらも娘に向かって言った。

「失礼ですが・・・、この研究所の方では無いようですね。僕は瀬戸といいます。いま東京へ出張されている島悌次郎先生の代わりにこの洋画研究所の指導員をしているものです。あなたは絵画を学びたい方ですか?」

 瀬戸はそう言うと、娘の被った帽子の奥を覗くようにして少し背を屈めた。

 美しい娘だと思った。

 帽子の鍔の影の下で長い睫毛の奥に輝く瞳が見える。瞳の奥に何か秘めた力があるのか、瞳の奥から放つ情念がまるでゴッホの星降る夜の渦巻きのように瀬戸の心を掴み、一瞬にして瀬戸の心を鎖の様に縛り上げた。

 瀬戸はそれを避けるように少し視線をずらす。視線は外したが、その先に娘の白い頬が見えた。白い肌は真っ直ぐに伸びた鼻梁と繋がり、その先にボッティチェッリの描いた女神のような唇が檸檬色の陽光の中で輝いていた。

 逃れ難い美しさだ、

 いや、娘の美しさは完璧だと瀬戸は思った。

 それだけではない、

 直感が告げた。


 彼女を描けないだろうか、自分の手で。

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