第2話
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瀬戸が消えていった日差しの中から小さな優しい靴音が画材屋の軒先を潜ってきた。
靴の音主は白い帽子を深く被り、肩から白いハンドバッグを下げている。
青いワンピースを着た若い娘は新聞を見ていた店主に帽子の鍔の下から透き通るような声音で「ご店主さん・・」と声をかけてきた。
店主は娘の声に振り向くと「嗚呼あなたですか」と言って読んでいた新聞を閉じて娘の顔を見て残念そうに呟いた。
「お嬢さん。残念ですがね、あの青い絵は、つい先程売れてしまいましたよ」
それを聞いた若い娘は帽子の鍔の下に出来た薄い影から輝く瞳で店主を見た。
「ご店主さん、あの青い絵、いえ私の兄の描いた絵を・・誰に売られたのですか?」
店主は娘の輝く目を見て、それが涙であることが分かると声の調子を落として言った。
「いえ、店の奥の倉庫は一杯でしたからね、棚の下の方に置いていたのですよ。それも出来るだけ人目につかないように床のほう、そう、そこの棚の下にね。そうしたら、そこに一人の眼鏡を掛けた青年が現れてそれを手にして暫く見ていると買って行かれたのですよ。お嬢さん、そんな怒った目で私を見られても、駄目ですよ。だってあの絵はれっきとした売り物なのですから。私がちゃんとお金を払って買ったものなのですからね、当然欲しい人がいれば売りますよ」
「それを私に売っていただけるようにお願いしたはずです」店主はそれを聞くと、ぷいと横を見た。
「売ってしまったものは仕方ありません。売られたくなければ、お嬢さん、あなたが昨日来たときに買っておけば良かったのです。こちらも商売です。来るか来ないかもしれないあなたを待つより、待ち人来る時に売ったほうがいい。だってそうでしょう、あなたが来なければあの絵は売れなく、私は絵を買った代金を回収する機会を来るか来ないかわからないあなたの将来に賭けなければならない」
店主は娘に向かってそう言うと、横を見た。
「それは、昨日も言ったように私もこの絵について確認しなければならないことがあって、それがわからないと兄のものだと断定できないと言ったはずです。それを確認するために友人に連絡しなければならないのでせめて一日は売らないで欲しいと」
店主は銀縁の眼鏡を取ると、かけ直して娘を見た。
「しかし、売ったものはここにはないのですよ、お嬢さん」
それっきり店主は黙り、閉じた新聞を広げて娘を無視した。娘は嗚呼、と言うとその場に蹲り顔を細く白い手で覆い泣き始めた。
店主はそんな娘に背を向け、新聞を読んでいたが流石にうなだれている若い娘に対する同情と約束を反故にして絵を売ってしまった自分に対する後ろめたさを感じたのか、開いていた新聞を閉じると娘に言った。
「お嬢さん、絵を売った以上、あとは絵を買ったご本人と話をされたらどうですか。その青年はこの近くの島洋画研究所に通っている瀬戸群という青年です。場所は教えてあげますから、そちらに行って当人同士で話をしてみたらどうですか」
若い娘はそれを聞くとハンカチを取り出し、瞼に当てて涙を拭くと赤くなった潤んだ瞳で店主を見て帽子を取った。白いうなじまでかかる黒い髪が、頭を下げるとゆっくりと頬に触れた。
「教えて下さい、その島洋画研究所は、どこにあるのですか。私、これからそこへ伺い直接その方とお話をしたいと思います」
店主は帽子を取った娘の顔を改めて見てその美しさにほぉ、と心の中で一声ついた。
黒く長い睫毛が涙の滴に反射して、それが一層娘の美しさを引き出していた。
映画の女優になってもこの娘ならその道で一番に成れるのではないかと、店主は思った。
そんな思いにはっとした店主は思い直したように近くに置いてあった万年筆と紙を手に取り、慌てて地図を書いた。
地図に書かれた洋画研究所の場所はこの店から南に二つほど通りを下った小さな基督教の教会と隣の廃墟ビルの間に延びた路地の奥にあった。
「お嬢さん、この路地は小さな幅の石畳の路です」
店主は万年筆の先でトントンと叩いた。
「見落としてしまわないように。その路地はこの赤煉瓦の教会の横にあるから、教会を目印に行くといいでしょう。その近くまで行けば洋画研究所の看板が出ているはずです。看板は電柱にぶら下がっていますから、よく見るように。そして路地は教会と隣の建物、そう種苗屋との間に出来た小さなアーチの下にあるので、それを潜って行きなさい。潜った路地はL字型に折れているからその路地の先に小さな庭、そう箱庭が見えるはずです。その小さな箱庭の中に島洋画研究所はあります」
娘は店主の話す語感や言葉遣いから先程とは違った優しさを言葉の端々に感じ、親切さに深く頭を下げた。
店主はひとつ咳をして言った。
「売ってしまって悪かったとは私も商売をしている以上言えないが、約束を反古にしてしまった点は否めない。ですから一応売った先を教えることで帳消しにさせていただきたい。後は嬢さんがあの向日葵の絵を回収できるかどうかは、まぁ、運次第ということになるでしょうが」
そう言うと店主は万年筆を置いて座り直し、眼鏡の縁を動かして娘に微笑すると新聞を開いて記事に目を落とした。
「ありがとうございます」
娘の透き通る声が店に響くと店主は小さく喉を鳴らし、後は黙ったまま途中になった新聞の野球の記事に目を落とした。
既に娘の靴音は店から消え、通りを出て南へと向かっていた。
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