第2話 『S・U・G・O・I イラストレーター』

 

 前日までの土砂降りはどこへやら、その日の空は澄み渡るような晴天で。

 首筋をくすぐる風の温さに夏の息吹を感じながら、わたしは学校へ行こうと玄関を出て――門のすぐ横に立つ一人の女性に気づいた。

 ほぼ同時にわたしに気づいたらしく、女性がこちらへ振り返った。

 初対面でもわかるほど緊張で顔を強張らせながら、その人はわたしの名前を言った。


「ユーリさんっていますか?」


「ユーリはわたしですけど」


「え」


 それが、わたしとお姉ちゃんのファーストコンタクトだった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「ちょ、ちょっ、ちょっと待って?」


 そこでモカちゃんに止められた。モカちゃんはシワの寄った眉間に右手をやって、左手はわたしに向かって突き出して『待て』をかけている。


「なにモカちゃん。いまから話そうとしてるのに」


「なにじゃないわよ! なんであなたとフィーネさんの馴れ初めから話し始めてるの? いったい何時間かかると思ってるのよ」


「……六時間くらい?」


「具体的な数字を聞いてるんじゃないっての! そんなんしてたら日が暮れるわ! あとモカちゃんって呼ぶな!」


 バン、と机に置かれた右手によってコーヒーの水面がゆらゆらと揺れる。危ないなと思いつつ、わたしは反論する。


「じゃあモカちゃんもお姉ちゃんのことフィーネさんって呼ぶのやめてちゃんと名前で呼んでよ」


「いやよ。あの人はあたしの神様だもの」


 ”フィーネ”とは、お姉ちゃんのネット上での活動名のことだ。

 お姉ちゃんはイラストレーターをやっていて、なんとその道のプロなのだ。にわかには信じがたいことだけど、SNSではフォロワーも沢山いる、らしい。

 そしてフィーネに対するネット上での評価はモカちゃんの言う通り、神にも等しい。


『二十一世紀最高のイラストレーターの一人』


『氏の作品にあるのは”KAWAII”だけではない』


『神秘的な芸術性を秘めている』


『抜ける』


 ……などなど。

 

 モカちゃんも世界中にいるお姉ちゃんのファンの一人だ。でも、作曲とイラストってなにか通じるところがあるんだろうか。


「出たよモカちゃんのお姉ちゃん崇拝。いくら敬ってもお姉ちゃんはあげないもんね!」


「いらんわ! あたしが欲しいのはあなた……って、この話いったい何度目よ」


「……五十回くらい?」


「だから具体的な数字は聞いてないっての」


 頭痛でもするのか、モカちゃんは右手を頭にやりつつため息をつく。


「はぁ……それで? フィーネさんがおかしいってのはどういうこと?」


「お姉ちゃんが家を出たの」


 わたしがそう言うと、モカちゃんが固まった。

 たっぷり数秒固まったあと、ゆるゆると首を振るモカちゃんから「聞き間違いよね……」なんて言葉が聞こえる。それからこちらを向いて、ニッコリ笑った。


「ごめんなさい。あたしちょっと疲れてたみたい。もう一回言ってく」


「お姉ちゃんが家を出たの」


「ウソでしょ!? あのフィーネさんが!?」


 オーマイゴッデスと叫びながら机にバンバン手をついて頭を抱えるモカちゃんは、今にも中身をぶちまけそうになっている卓上のコーヒーに気づいていない。


「モカちゃん! コーヒーがこぼれる! コーヒーが!」


「えっ? あっ、きゃあ!」


「あー言わんこっちゃない。ほらこれ使って」


 案の定、机の上にコーヒーの中身が飛んだ。

 服にもコーヒーが飛んでしまったモカちゃんにハンカチを渡して、わたしは紙ナプキンで机の上を拭いた。

 

「ああ、ごめんなさい。あたしとしたことが取り乱したわ」


「モカちゃん割とよく取り乱すけどね」


「だまらっしゃい。それでどうしてフィーネさんは家を出たの? 今どこ? 何ヶ月ぶり? っていうかサインもらえる?」

 

 ハンカチで服のシミを取りながらも矢継ぎ早に質問をしてくるモカちゃんをまあまあと宥めて、わたしは一つ一つ答えていく。


「打ち合わせがあるんだって。今は出版社じゃないかな。えーと、最後に出たのが去年の学園祭以来だから……四ヶ月ぶり、かな? あとサインはもらえないと思う」


 お姉ちゃん、モカちゃんのこと苦手だし……と小さく付け加えるとモカちゃんがぐわーっと言いながら頭を抱える。


「どうして! あたしはこんなにもフィーネさんを愛して敬っているのに! この愛の重みが伝わらないなんて!」


「重すぎて底が抜けてるんだって。お姉ちゃんの引きこもってる理由、モカちゃんと出くわしたくないからってのもちょっとはあると思うよ」


 図らずも恋敵として立ちはだかってしまった上に、その相手(わたし)をとってしまったのだ。よっぽど肝が据わっていないかぎり、顔も合わせたくないと思う。

 恋敵だったのに今でも尊敬の対象として見られるモカちゃんの方がおかしいのだ。

 けれども当の本人はというと、わたしの言葉にらんらんと目を輝かせ始めている。


「あたしがフィーネさんの行動原理の一部に……? それってもう実質フィーネさんの一部なのでは」


「そうだねーすごいすごい。それで。お姉ちゃんが打ち合わせで家を出たんだけど、わたしの見立てだと、それだけじゃない気がするんだよね」


「それだけじゃないって?」


 モカちゃんの問いに答えようとすると、途端に朝の痛みが去来する。

 ギュッと胸元の服を握りしめて、最悪の予想をなんとか口に出す。


「……お姉ちゃん、本当に家を出ていっちゃうんじゃないかなって」


「どうしてそう思うのよ」


「だ、だってぇ……」


 泣きそうになりながらも、わたしは理由を話し始める。



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