『Quo Vadis?』
「……まあ、そう落ち込まないで。そのうち出てくるさ」
「うん…」
俯いたボクの肩を、叔父さんがソファ越しに優しく叩く。それでも不安を拭えないボクの姿を見て、更に慰めの言葉を掛けてくれた。
「ひかりちゃんだって、偶には1人になりたい時もあるってことだよ」
重ね重ねの言い分も、段々と苦しいのではあるまいか。何故ならば、ひかりが部屋に籠ってしまった理由は火を見るよりも明らかなのだから。だから幾ら元気づけられても、ボクは自分の責任を感じざるを得ない。
ひかりのことを傷つけてしまって。
叔父さんの励ましも素直に受け取れなくて。
自分が本当に情けない。
「……あー」
バツが悪そうに、叔父さんの声がリビングに響く。
「長く一緒に暮らしていれば、ケンカだって起こる。
君に悪気が無いことは、ひかりちゃんが一番良く知ってるはずだ」
悪気…か。
果たして無かったと言い切れるのだろうか。
たとえ本当に善意が始まりだったとしても、他人の考えを無理に変えさせようとするなどという、そんな行いに対して。
受け入れ難い考え方も全てひっくるめて、ボクの妹なのに。
「さあ、このコーヒーを飲んで。仲直りはその後でも悪くない」
「…いただきます」
「うん、召し上がれ」
カップを手に、真っ黒な液体に口を付ける。
すると、口腔いっぱいにブラックコーヒーの苦みが広がって、痺れるような感覚が傷を塞いでくれるような気がした。
普段はこんなの飲まないけれど、どうにも今日はこれが落ち着く。
「にしても、2人とも大きくなったなぁ。あの頃からボクは全然変わって無いのに、君たちはすっかり大人になってしまった」
「叔父さんも変わったよ。なんというか、その……味のある雰囲気になってる」
「ハハハ、そうかな?」
そう言ってニコニコと笑って、お菓子に向かって伸びる手を止める様子がない叔父さんは、まだ見た目とは一致しない子供っぽさを持っている。きっと今後も、彼が彼である間は、それが変わることはないだろう。
「元気でいてくれて、本当によかった」
勿論それと同時に、途轍もない懐の深さも兼ね備えているが。
「一時期の君たちは、揃いも揃って危うかったよ」
「あ、あはは、そうでしたか…?」
ううむ、それはいつ頃の話だろう。
ボクの精神が特に不安定だったのは、やはり大学生の頃だろうか。将来への不安も抱えていたし、モノを考えられるようになって、過去の出来事が余計に頭をちらつくようにもなっていた。
ひかりもその頃は、事あるごとに部屋の家財にカッターナイフで傷を付けていた記憶がある。あの刃がいつか彼女自身に向けられるのではないかと、ボクは非常にヒヤヒヤしていた。
……まあ、とんでもない兄妹だったのかもしれない。
「『2人暮らしをする』って聞いた時も、正直不安だったよ。もしかするとそのまま、行方を晦ましてしまうんじゃないかって」
叔父さんがそう考えるのも無理はない。
過去にひかりが一度、家出をしてしまったことがあるから。
「そういう不安もあったから、余計に家探しに躍起になってたって訳さ」
聞けば聞くほど胸が痛くなる、恐ろしい思い出話だ。
それならばこのブラックコーヒーの方が、ずっと、親しみやすい味をしている。会話のショックを誤魔化すためなら、甘い飲み物を用意した方が良かったかもしれないけどね。
……でも、美味しかった。
「……ごちそうさまです」
「うん、美味しかったろう?」
「はい」
良い豆を使っているのかな、コーヒーには疎くて分からない。
「気に入ってくれて良かった。これもお土産として置いていくから、是非ひかりちゃんと一緒に味わってくれたまえ。あぁ、だけどあの子はブラックだと飲めないんだったっけ?」
ボクは頷く。
「昔から、ひかりは甘いモノが大好きだから」
「ふふ、そうだったね」
なんてことはない、よく知っていること。
それを改まって確かめて、お互いに笑いあった。
その後は堅苦しい話もあまりせず、他愛のない世間話をして時間を過ごした。
しばしば壁の時計を眺めて今の時間を確かめては、ひかりが部屋から出てくるのを待ち続けた。
「……そろそろ時間みたいだ」
だけどついに、叔父さんが帰る時間になってしまうまで、ひかりが姿を見せることはなかった。
「じゃあ最後に、本命のお土産を渡すとしよう」
「…えっと、これは?」
叔父さんの懐から出てきたのは、一つの封筒。
中身は薄く、何か紙のようなものが入っていると思われる。
「ずっと山に籠っていても飽きが来る頃だろう。そろそろ秋だし」
「あ、あはは…」
「一緒に行ってくると良い、きっと楽しいと思うよ」
取り出してその正体を確かめて、ボクは目を丸くした。
「……何から何まで、ありがとうございます」
こんなもの、手に入れるのに相当苦労しただろうに。
「それじゃ、また。元気でね」
「叔父さんもお元気で」
なんと、名残惜しいことか。
ボクは叔父さんを外まで見送って、彼の後ろ姿が地平線に吸い込まれて見えなくなるまで、その向こう側に沈んでいく紅い夕日を見続けていた。
「ひかりも、挨拶くらいすればよかったのに」
ケンカなんて、しなければよかった。
§
「…ひかり、まだ出てこないや」
叔父さんと別れて、部屋に戻って数時間。
日が落ちて、電灯が必要になる時間になってもひかりは現れない。
大丈夫かな、お昼ご飯も食べていないのに。
いよいよ心配になったボクは、彼女の部屋までやって来た。
しかし、明かりを付けている様子がない。扉の隙間を覗いても見えるのは暗がりで、耳をくっつけて様子を探っても物音一つ聞こえなかった。
「これって、寝てる?」
それでも、入るべきだろうか。
普段ならそっとしておくけど、今夜は少し事情が異なる。
「……ちょっと、気が重い」
ひかりも同じ気持ちかな。
だから、出てこないのかな。
それなら別に構わない。
でも、ちょっとでも違うなら。
この亀裂が更に広がってしまうまで放っておくわけにはいかない。
ひかりは掛け替えのない家族なのだから。
意を決して、僕は扉を叩く。
「ひかり、起きてる?」
名前を呼んでも、返事がない。
こんなことは滅多にない。
たとえ真夜中の時間帯に、どれだけぐっすり寝ていても、ボクが名前を呼んだらすぐに飛び起きて返事をするのがひかりだ。正にそれが奇妙ではないかという感想は置いといて、ひかりにとってはそれが普通だった。
「…ひかり?」
それが今日はどうだろう。
声を掛けても返事一つ寄こさない。
この際強引という謂れを受けようとも構わない、押し入ってみようかとドアノブを捻ると、いとも容易く扉は開いた。
そういえば普段から、ひかりは鍵を掛けてなかったっけ。
(流石に、今日は掛けてると思ったけど…)
少々気が引けるが、開いているなら入ってしまおう。
せめて、晩御飯だけでも食べてもらわなくては。
僕は部屋に入った。
「……いない」
中はもぬけの殻だった。
少しも探る必要すらなく、誰の気配もしなかった。
空っぽだった部屋の様子を確かめた僕は、玄関に向かった。
「どうして、気付かなかったのかな」
ひかりの靴が無くなっていた。
きっと、外に出てしまったのだろう。
行先は、きっと……。
「―――行ってみようか」
出所の分からない確信と、まだ抜け切らない気まずさを一緒くたに携えて、特に急ぎでもないのに踵を潰した靴を履いて、僕は家を出た。
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