第百六節 食べ物よりも恐ろしい恨みが存在するのか否かについて
翌日。
寝泊まりの為に貸し与えられたコテージを後にして、僕たちは雲間を裂いて横殴りに降り注ぐ雨のような朝日を浴びる。
太陽が山を越えた直後の時間に相応しく、空気はとても冷たい。
眠気覚ましの洗顔をするために近くの川まで足を運んで、冷水できつく頬の締まった口腔に蜜柑の粒を放り込む。
橙色の果汁と共に溢れた酸っぱさが唇を縛り付けた。
綿雲よりも軽い朝食を済ませたのち、目的地は昨日の楽屋だ。スピカが朝早くからインターホンを鳴らして、僕たちを呼びに来ていた。彼女には人の心というものが存在しないのだろうか。
昨日に出会ったばかりながらも、彼女が持つ真面目な性格の一端は垣間見た。
しかし、だからと言って安眠を邪魔しても良いものだろうか。
果たして、どんな理由であれば?
霧のような眠気に苛まれ、適当に返事をして、肝要な話の中身を聞き忘れてしまったことが悔やまれる。お陰で起きてからずっと、その一点が気掛かりで朝の安息も儘ならなかった。
これでは逆恨みも極まりないが、もしも適当な用事での呼び出しだったらぶっ飛ばして二度寝をしよう。
うん、それがいい。
楽屋の扉を粗雑に開けて、直後に耳朶が驚くのだった。
「来ましたね! では早速、最初のお仕事と参りましょう♪」
「えぇ、まだ早朝なんだけど…」
部屋にカチコチと響く秒針の音。
遮る音すらない程の静謐を練り上げる小鳥の囀り。
なんて美しい朝に奴隷の如く働かねばならぬのか。
それが疑問で仕方がないのだ。
「ソウジュくん、すぐに行きましょう。今日の分のお仕事を早めに終わらせてしまえば、あとは寝てても問題ないんです!」
スピカは尤もらしく聞こえるが正しくもないことを言う。
……いや、別に理のある言い分でもないのか?
てんで分からない。
少なくとも僕の頭の中には一つのアイデアが浮かんでいた。
「じゃあ逆に、午前中ずっと寝てても問題なくない?」
「そうだそうだー」
「ほら、クオもそう言ってる」
頭がすっきり、あの朝焼けのように晴れるまで寝かせて欲しい。
叶わぬのならばせめて、あと五分くらい。
「むぐぐ…」
クオと僕の波状攻撃を受けて唸るスピカを見ていると、このまま押し切ってしまえば二度寝にありつけるような予感もした。だが、既に冷水に醒めてしまった頭が、その愚行を押し留めるのだった。
僕は呟く。
「まあいいよ。どうせもう起きちゃったし」
「本当ですかっ!?」
驚いて硬直したスピカ。
話が進まなくてまどろっこしい。
「行かないなら本当に二度寝するけど…」
「行きますよ、今すぐにっ!」
「あっ、ソウジュのおてて引っ張っちゃダメっ!」
スピカが僕の手を引いて行こうとする。邪魔をするべく、クオが逆の手を握って引き剥がそうとする。互いに逆方向の力を受けている僕の身体は、ひょんな切欠で裂けてしまっても可笑しくない。
(引っ張りが強くて痛いけど、まあ眠気覚ましだと考えれば……)
もう寝れないよ。
こんなんじゃ。
「はぁ…なんだろな」
恨むべくは、こんな状況を招いたジャイアントペンギンなのだろうか。
僕たちは仕事場へと歩き続く。
§
痛みに耐えること十数分。
辿り着いた最初の仕事現場は畑だった。
スピカ曰く――どうやらここで、ジャパリまんや他の食料品を製造するための野菜や果物を栽培しているらしい。別段、特別な場所ということもなく、他のちほーにもそれぞれの区画の食糧を担当する農耕地があるという。
僕たちの今日の仕事は、収穫の手伝いをすることらしいのだけど……。
「これって、今日で終わるタイプの仕事じゃないよね…?」
文字通り、畑がある限り際限なく。
力仕事なんて滅多にやりたくないのに。
「いいえ、何も心配は要りません。そもそも収穫は交代制ですし、皆さんに次のシフトが回ってくる前に終わりになる筈ですよ。ですからこれは、今日でお終いです」
……終わりになる筈?
引っ掛かる言い方だな。
何か裏がありそうだ。
「あれ」
猜疑心を頭に燻らせながらも辺りを見回すと、見知った人影があった。
「ブラックバックたちも来てたんだ」
「あのお三方には、夜明けから仕事をしてもらっています」
平然と言い放つスピカに戸惑う。
僕らより早く起きて働く子がいるなんて夢にも思わなかった。
どうせなら、今朝はもっと夢を見ていたかった。
「大丈夫なの? 体調が心配になるけど」
思わずそう呟くと、聞こえていたのか返事があった。
「オレたちは元気だぜーっ!」
「夜行性だし、大丈夫…!」
「……という訳だ。案ずるな友よ。我らが女神たちの微笑みの為ならばこの命、惜しむ筈も無い」
考え直せよワーカホリック。
絶対に寝た方が幸せのためだ。
「こんな仕事、機械にでもさせればいいのに…」
「ふふ、前まではそうしていたんですけどね」
意味深に微笑んだスピカを問い詰めると、あっさり彼女は事実を吐いた。
「ライブの準備のために人手……というかロボット手を割いたら、収穫班のラッキービーストさんが居なくなってしまったんですよ。だから、こうして助力を募って収穫を進めている訳です」
それはそれは、大層なライブですことで。
深刻な人手不足とあれば、ジャイアントペンギンが騙すような真似をして僕らを動員した理由もさもありなんと言える。
「ふはははは! 素晴らしい、素晴らしいぞ……!」
ブラックバックを見ていると、例えストレートに頼んだとしても普通にOKだった気がするけれど、まあ最早過ぎたことである。
「ジャイアントペンギンさん曰く、『昔はもっといた』そうなんですが、最近になって数が減ってしまったようで……」
ふーん。
ラッキービーストも減るもんか。
妖精じゃあるまいし、そりゃそうなんだけど。
「まあ、段々動ける数も減ってくのかな」
「どうにも、そんな理由ではなさそうですけどね…」
「……えっ?」
「ああいえ、何でもないです。頑張って収穫しましょう!」
「…そうだね」
裏がありそうな様子だったけど、ひとまず放っておくことにした。
「ソウジュっ、 一緒に集めよっ?」
言われなくても。
どうせ一緒になっちゃうよ。
「私も一緒でいいですか?」
「……むぅ」
やはりスピカもやって来た。
これ見よがしに腕を掴んで斜め後ろを歩いている。
一瞬、畑に来る道中の引っ張り合いが再燃するかと危惧したのだが、今度は二人とも大人しくしてくれて助かった。
「ノルマの管理は私の担当ですから、しっかり役目を果たしますよ!」
「そっか、ありがとう…」
ぎゅっと締め付けられた右腕。
握り潰されそうなほどの力で固められた左手。
撫でて機嫌を取ることすら叶わない状況の中、僕はクオと腕を絡めるようにして、耳に軽く息を吹きかける様に囁くのだった。
「我慢してね、少しだけだから」
「えへへ、仕方ないなぁ…♥」
「…うっ」
クオの緩んだ頬を見て安心するのも束の間、却って微妙に力を増していく手に僕は呻き声を隠せない。
ただ薄れていく手の感覚を名残惜しむだけ。
「さあ、どんどん掘りましょう!」
こんな状況にしたスピカの掛け声に、この時ばかりは安堵して仕方がなかった。
肝心の仕事の内容については、特にコメントはない。
手順を覚える必要もない単純な作業。
収穫した野菜をそれぞれの籠に放り込む虚無の時間だ。
……と、思ってたんだけど。
「ソウジュ、おっきいの取れたーっ!」
「すごい、こんなに育つんだね」
クオに大きな野菜を自慢されたり。
「見てくださいソウジュくん、こんなふうに真っ赤なものは甘味が強いんですよ。ひとくち食べてみませんか?」
「えっ、叱られたりしないかな…?」
スピカにトマトのつまみ食いに誘われたり。
「ねぇソウジュ、これ美味しそうだよね。ほら、あーんして?」
「あ、あーん…」
イチゴを食べさせてもらったり。
「ソウジュくん、これも一口…」
「トウモロコシじゃん、せめて茹でてよ」
何故か穀物の生食を勧められたりして。
そして二人に詰め寄られる。
「ソウジュ!」
「ソウジュくん♪」
「二人とも、もうノルマは達してるんだけど…」
クオとスピカのやる気が凄すぎて、僕が碌に仕事をする前に必要な分の野菜が揃ってしまった。
更にスピカといえば、『ノルマを管理する』などと言っていた割に真っ先に忘れて収穫に没頭していたし、中毒物質でも漂っているのだろうか。
それはさておき
余りにも暇で、また眠くなってきちゃったねぇ。
仕事がこれで終わりなら、ようやっと二度寝にありつけるけど…。
息を切らしながらスピカが戻って来た。
「…お、お疲れさまでした。
後で回収に来るので、置いといて大丈夫ですよ。
あぁ……なんでこんなに疲れてるんでしょう…?」
きっと張り切り過ぎたんだよ。
そう伝えると、スピカはバツが悪そうに笑った。
「そうですね、やりすぎました」
疲れ切った笑みのあと、きょとんと口を丸めてスピカは僕に訊く。
「これから寝るんですか?」
「そのつもりだけど、他にも仕事があるのかな」
「いえっ! そういう訳ではなくて、その…」
手の平を顔の前でパントマイムのように動かし、わたわたと元気よく慌ててみせながら、裏返るようにしゅんと静まり返って、頬を染めながら言う。
「もし午後にお暇だったら、一緒にお祭りを回りたいなぁ……なんて」
「まあ、そういうことなら…」
「暇じゃないよ、クオが一緒にいるんだもん」
別に用事も無いし、お祭りくらい良いかなぁと思ったんだけど。
シュバッと前に出てきたクオに断られてしまった。
クオったら、僕がスピカと一緒に居るのも厭なくらい嫌いになっちゃったの?
……クオの気持ちも、案外よく分かんないもんだね。
「そ、そうですか…」
案の定、スピカは落ち込んだ。
いやはや、クオがごめんね。
「あ、でも…」
「行こ、ソウジュ!」
「えぇっ…?」
何か慰めの言葉でも掛けてあげようとしたら、腕を引っ張られてスピカの姿が段々と小さくなっていく。そのまま何も言えぬまま、僕はコテージに引き戻された。
そして仕方なく、ベッドに入る。
案外目が冴えた気もしていたがそうでもなくて。
僕はすぐに眠りに落ちた。
そして。
残された畑では。
「―――あまり押しが強くても良くありませんし、今日のところは諦めましょう。それにしても、厄介なキツネがくっついているものですね。私がもっと早く、彼と出会っていれば…」
辺り一面に真っ赤を広げて、朝焼けのすっかり垢ぬけた空を見上げていた。
「……恨めしい」
イチゴをぺろぺろとなめながら、噛み殺して。
食べ物に、行き場のない恨みをぶつけていた。
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