第百三節 瑞々しい青色と、頬を染めた桃色
「着いたぞ、ナカベだッ!」
全身で喜びを表現するブラックバック。
そよ風に運ばれて水の匂いが鼻をくすぐる。
川のせせらぎが陽の光を散らして、僕たちの来訪を歓迎してくれていた。
(…ピクニックをしても楽しそう)
とはいえ、まだここはちほーの境。
荷物を置いて落ち着ける場所までは、もう少しだけ掛かりそうな予感だ。
―――ナカベちほー。
リクホクを挟んでカントーの北西に位置するこのちほーは、池や湖などの、豊かな水のある地形が多く点在していることで知られていた。
ナカベに出る水の多くはリクホクの森の地下を通ってナカベに入り、この地域の植物のみならず、ここに住む多くのフレンズ達の生活を潤している。中でもその恩恵を多大に受けているのは、やはり水棲の動物のフレンズだろう。
ペンギンアイドルがこの地に拠点を置く理由の一つにもそれがあるらしい。
『水の汚れは心の汚れ』と、関係者の誰かがインタビューに答えていた新聞のスクラップをブラックバックが所持していた。
肝心の内容よりもむしろ、それが出てきたファイルの分厚さに驚愕するばかりだったが。
新聞を仕舞いながらもトークは止まらない。
「PPPの美しいパフォーマンスの源流は、ナカベの美しい川の流れにあるのだ。水の一滴ずつに美の女神が宿り、天衣無縫の加護を彼女たちに与えている」
ブラックバックは今日もいつも通りだった。
「あれれ、お泊まりするのはどこだっけ?」
「もっと歩いた先だから、少しだけ我慢してね」
「おんぶしてよぉ~」
もたれかかるような声で甘えてくるクオ。
横から押されては歩けない。
僕は上から彼女の体重を感じることにした。
「はい、これでいい?」
「えへへ…♪」
ふわふわした尻尾の悪戯を脚に受けながら、雨上がりのようにじっとり濡れた土の上を歩いていく。
「そういえば、ライブまでは後何日あったかな?」
「丁度一週間だ。祭りを楽しむには十分な時間があるぞ」
「お祭りっ!? そんなのあるのかっ!?」
嬉しそうに開いたタスマニアデビルの口の中、真っ白い歯がキラキラと光を跳ね返して輝く。
ブラックバックは首を縦に振って、祭りについて語り始めた。
「彼女たちのライブには当然多くのフレンズが集まるからな。屋台や出店がたくさん準備されて本番の前から会場は大きな盛り上がりを見せる。PPPのライブを存分に堪能するつもりなら、祭りを見逃すなど悪手極まりない。……中には、ファングッズが景品になっている屋台もあるのだぞ?」
調子の衰える様子なき熱弁。
そこらの浅い川が干上がってしまいそうな情熱だ。
(すごいなぁ…)
僕はまだ、このノリについていけてないんだけどね……。
「とにかく、一週間はゆっくりできるってことか」
「ゆっくり……寝てる?」
「いや、それは違うけど」
クオったら、ぐうたらキツネになってしまって。
僕の方も、案外悪くないと思ってしまうのが空恐ろしい。
この調子では旅を終わらせてホッカイに帰ったが最後、二度と神社から一歩も出ないような生活を送ってしまいかねない。
……それでもいいのかな?
まあ、未来のことは未来に考えるとして。
「ここらで一旦休もう。
起きてから歩きっぱなしだよ」
いつの間に、背中の上で眠りこけていたクオを木陰に寝かしつけて、初夏のような熱い日差しと涼しく爽やかな風に吹かれながらジャパリソーダを胃に流す。ピリッと痺れる痛い甘みが胸を締め付けた。
……それは勘違いで、本当は隣に眠るクオの所為だったかもしれないが。
二口目の炭酸は喉を潤しただけだった。
§
―――葉が頬を擦る感触で、僕は瞼を開いた。
天井の海を見上げると眩しい穴が多少浮いていて、立ち上がって眺めると若干沈んで、結局どれくらい眠っていたのか判断がつかない。
若葉の上で談笑していた三人に尋ねてみても返答は要領を得ず、クオがまだ夢から覚めていないことだけが確実だった。
クオのまるいほっぺた。
突っつけばうなる。
引っ張ればうめく。
そして唇を……いや、これはやめておこう。
流石にその一線を越えると、加減が利かなくなってしまう様な予感がしたのだ。
せめて、クオの意識のある時じゃないと……。
「……じゃないと?」
いやいや、そういう問題でもないだろう。
本質はその、キ…くちづ……そう、そういうこと自体にあるのであって。
例えクオに意識があろうがなかろうが関係はない。
そう、どちらにしても。
(じゃあ、別に…)
…パチンッ!
自制の掌。
(はぁ、危ない)
頭がおかしくなりそうだ。
「おい、どこに行くのだ?」
「ちょっぴり散歩。クオが起きたら教えて」
「わかった」
僕は来た道を少し戻って、湖のほとりに沿うように歩く。
水面の揺れる綺麗な景色に心が洗われるようだった。
(適当に歩き回ってれば、少しは頭も冷えるでしょ…)
落ち着いたら戻ろう。
しかし今はダメだ。
クオを見ているだけで胸が痛い。
へびつかい座の力があれば、すぐにでも治せたのだろうか。
微妙に痒いところに手が届かなそうな気もするが。
どちらにせよ、今更リクホクに戻ってこの症状を治療して貰うことなど出来はしないので、泉の波打ち際に腰掛けて自然回復を待つ。
そして水と言えばそういえば、サンカイのメリは元気にしているだろうか。
旅の中で散々お世話になった『
……果たして何度、この力に救われてきたことか。
だからまた会う時のためにも、彼女へのお礼を用意しておきたい。
ナカベの綺麗な水も悪くないかもしれないね。
特に透き通った池を見つけて汲んでいこうか。
飲み終わった増強剤の空瓶を手に取ったその時だった。
(……ん?)
少し先の林から声のような音が聞こえた。
続いて、木葉の騒めきと木の幹が折れるような破砕音。
明らかに只事ではない。
(誰か、セルリアンに襲われてる…?)
もしそうだったら助けなくては。
僕は石板を手に林へと向かうのだった。
§
「きゃっ、セルリアン!?」
華奢な悲鳴を上げた少女。
ひどく驚いて尻もちをつく。
「いたた…逃げなきゃ…っ!」
スカートについた泥を払って、セルリアンとは逆の方向に走り出した。
白と青の学生服を身に着けた少女、桃色の髪の毛が揺れる。
表情は彼女を襲うセルリアンのように真っ青だった。
走る姿にフレンズのような特徴は見えない。
ケモ耳も尻尾も無い完全なヒトの姿。
彼女は何の変哲もない乙女だった。
…だった。
「どうして私がこんな目に…」
愚痴への答えは待っていない。
あんなのはただの災害だと知っている。
無事に逃れるか、食われるかだけの二択。
彼女には、後者の運命が近づいていた。
「あっ―――!?」
木の根っこに足を引っ掛けて少女は転んだ。
背後からセルリアンが迫っている。
「はっ、はぁ…っ!」
とがった枝の先で脚を裂かれてしまった。
背後で木の砕ける音がしている。
「……やだ」
自分はただ、近道をしようとしていただけなのに。
背後に死の匂いが漂っている。
肩に手を掛けた静謐な怪物。
―――死んだ。
少女は目を閉じた。
「『
だけどいつまで経っても、セルリアンの牙が少女の肌に突き立てられることはなかった。不思議に思った彼女が目を開けて振り返ると、その瞬間から少女の運命は変わった。
角のような槍を手にセルリアンを吹き飛ばす少年。
真っ白いポニーテールを宙に浮かせ、次の瞬間には風のように林を駆け抜け、醜悪なセルリアンに天誅を下す。
彼は紛れもなく救世主だった。
「かっこいい…」
「下がってて、セルリアンは僕が倒すから」
「は、はいっ…!」
思わず声が上ずるのを感じた。
水たまりが赤く染まった顔を映していた。
セルリアンを翻弄する美しい姿に見惚れた。
お姫さまのピンチに颯爽と現れ、一瞬にして危機から救い出す。
彼はまるで、真っ白な王子様のように見えた。
(み、見つけちゃったかも…!)
この瞬間から、少女の運命は歪み始めた。
「……君、怪我はない?」
「はいっ、ありがとうございましたっ!」
いとも容易くセルリアンを倒し、そんな優しい言葉を掛けてくれる彼に、少女の動悸は収まる気配を見せなかった。
「あの、貴方は…」
一刻も早く名前が聞きたかった。
そうでなくては、狂ってしまいそうだった。
少女の世界は刹那、全てを拒絶して無音になった。
―――声が聞こえた。
「…僕? 僕はソウジュ、よろしくね」
「……私は、スピカです!」
二人は自己紹介を交わす。その時の少女の顔が果たしてどれほど恍惚としていたのか、彼女は終生知ることは無いだろう。
落ちた心を追い掛けても、伸ばした手は決して届かない。
さあ、彼方に血みどろの夜が待っている。
くれぐれも、見逃さぬ様に。
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