第二十四節 後の祭りと特別飛行
物の例えとは時に奇妙だ。
よく引き合いに出される物の中に、「山の天気は変わりやすい」という事実がある。無論そんな話、僕自身は一度も聞いたことが無い。しかし何処で身に着けたのか、記憶の中にはそんな不思議な格言が残っている。
ひっきりなしに屋根を打つ音。
辺りが暗くなり始めた途端に、空模様が怪しく移り変わっていった。そして今ではご覧の有様、雨音以外は何も聞こえない。
この喧しい静寂の中に取り残されれば、あの言葉にも幾度となく語られるだけの正しさがあるように思えてくるものだ。
「あら、まだ寝ていなかったのね」
オオタカの声。
振り向くと、ブラウンの寝間着姿をした彼女がそこに立っていた。
「ずっと雨がうるさくてね…」
「そうかしら? 私はむしろ眠りやすいと思うわ」
「…じゃあ、君はこんな時間に何を?」
「喉が渇いただけよ。でも、先客がいるなんて思ってなかった」
肩を竦め、僕から斜め前の椅子に腰を掛ける。
「喉が渇いた」と言う通り、彼女の手にはコップが握られていた。
…全く嫌な思い出だ。コートが濡れていないか、つい触って確かめてしまう。
「…飲んだら寝るの?」
「そう思ってたんだけど、目が冴えちゃったわ。貴方が嫌じゃないなら、少しおしゃべりしたい気分ね」
「まあ、大丈夫だよ」
どうせ僕も暇をしていた所だ。
”やるべきこと”なら無くもないけど、こんな夜更けにやる気はない。
それに、空っぽな会話をしていれば自然と眠くもなるというもの。なるべく早く寝るために、怠惰な眠気を叩き起こしてやろう。
「ありがと。…ところで、その本は?」
「推理小説だよ。ざっくり言えば事件が起こって、それを探偵が解決するお話」
題名は『狐色の研究室』。
あらすじは……別にいいや、中身を詳しく語るつもりはないし。
オオタカはこの本に興味がある様子で、前のめりになってまじまじと表紙を見つめている。ちなみに表紙は無地の黄色だ。
「…珍しい?」
「ええ、本なんてこの辺りには殆どないもの」
ホートクに本なんてある訳ないじゃん! …って感じ?
まあ、”殆ど”だから少しはあるよね。
だとしても、ヒトの居なくなったこのパークにそう多くの文明が残されているとは考えにくい。ホートクまでの道中にも、一目見て人工物だと分かる物はラッキービーストしか存在しなかった。
ただ、人が住むために造った都市とは事情が違う。動物園は自然が大事だ。
普通の動物園と比べてしまえば、このパークはあまりにも広大だけれど。
…あぁ、話が逸れたね。
ともあれ、見るも珍しい本にオオタカの目は釘付けになっている。
「…読んでみる?」
「いいのっ!? じゃあ借りるわっ!」
控えめに差し出すと、ひったくるように奪われた。
――パラパラ、ページをめくる音。
流れゆく時間を忘れ、”会話がしたい”という先程の発言も忘れ、夢中になって活字をなぞる。月の代わりに輝く瞳は、到底読書をしていると人のものは思えない。
さて、僕も何か飲んでこようかな。
慣れない廊下に迷いつつ、温かいココアをなみなみと注ぐ。
「…あ」
カップを片手に僕が戻ってきた時、オオタカは机に突っ伏して寝てしまっていた。開かれたままの本のページが、若干の湿り気を帯びてほの暗く張り付いている。
「あはは、こうなっちゃったか」
推理小説は小難しいもんね。こんな夜中に読んだなら、きっと睡眠薬なんかよりずっと効果的に人を眠らせるはずだ。
ページが濡れてるのは……あぁ、コップの零れたお水だね。
僕もそろそろ寝ようか。
ココアを飲んで、テーブルを綺麗にしてから。
「ごめん、なさい……」
「…え?」
寝言。
涙ぐむ様な謝罪の一言。
その理由に、僕は心当たりがある。
「別に、気にしなくていいのに…」
スカイレースが終わっていたという事実は、それを楽しみにしていたクオに大きな衝撃を与えた。このちほーを訪れた目的が丸々一個消失したのだから、それは当然の反応だろう。
しかし時期が悪かった。
事実を知ったタイミングのみならず、僕らがここを訪れたタイミングも。
―――昨日。
そう、昨日に終わっていたのである。
なんと恐ろしいすれ違いを起こしてしまったのだろうか。
これが一か月前なら話は違っていた。
残念でこそあれ、「まあ仕方ない」と呑み込むことが出来ていただろう。「ゆきまつりとかあったし、運が悪かったね」と笑い話で終わらせられた。
しかし実際は昨日である。
もっと急いで、いきなりすぎる予定を一日でも早めていたら、観戦だって普通に出来ていた。
クオは大層落ち込んで、更にちょっぴり拗ねて”るるぶのようなもの”を寝るまで読み漁っていた。
―――そう、案外前向きだったんだよね。
ともあれ僕の思惑が裏目に出たのは事実で、オオタカの発言がクオにダメージを与えたことも事実。
だけど何と言おうと、悪いのはこの巡り合わせだ。
「これが、後の祭りってやつなのかな…」
空っぽのマグカップと芯から温まった身体。ふぅと吐いたら瞼も重い。
「…潮時かもね」
立ち上がる。
部屋は何処だったっけ。
廊下の途中で寝ないように気を付けないと。
窓が光る。
轟音に背筋が凍る。
「やれやれ、なんでこんな時に…?」
冴えてしまった目をこすり、忘れた本を取りに行く。
「おやすみ」
―――「狐色が空を染めている。明日はきっと晴れだろう。」
小説のとある一節を読んで、今日見た夕焼けを思い出す。”裏切り者”と毒づいたとて、この雨模様は変わらない。
布団に入ると聞こえる声が、今夜は雨に流される。
案外オオタカの言うことも正しいのかなと、音に溺れて、眠りに就いた。
§
翌朝。
雨露が木の葉の上を走って落ちる。波が
まだ足元は悪く、散歩には適さない。
だけどクオはお構いなしに走りまわる、脚へと泥が飛び散るのにも気を留めず。
「わーい、わーい!」
喜びの舞。
雨上がりの神楽。
「もう、あとで洗濯が大変だよ?」
「だって…だってっ!」
パタパタと尻尾が躍る。
もはや止めても聞かないね、気が済むまで放っておこう。
そのうちに、僕は洗い物の準備でもしておけばいいかな?
「…変わり身が早いわね」
口を横に広げ、オオタカは苦笑いを浮かべる。
「メリハリがしっかりしてるのが、クオの性格だからね」
「まあ私も、これで気が楽になったわ」
元から別に気にしなくて良かったんだけれど……まあ、彼女の中で上手く落し処が付いたらしいし、蒸し返すのは止めておこう。
斯くいう僕もホッとしている。
水端から前途多難な旅だけど、何も悪いことばかりじゃないと今朝実感した。
そしてそれが、クオが楽しげに舞い踊っている理由でもある。
話はおよそ一時間前。
みんなで朝食を取っていた時のこと―――
「――ところで、そこの二人は?」
真っ先に完食し、少女が口を開く。
彼女の名前はハヤブサ。空における最速のフレンズであるらしい。
「……相変わらず早すぎるわね、よく噛んで食べた方が良いわよ」
「質問に答えてくれ」
たしなめる声にハヤブサは眉をひそめて、ハクトウワシは慣れたような口調で笑う。
「はいはい、全くせっかちね。じゃあ、本人たちからお願いして良いかしら?」
「あぁ、うん」
僕たちは順番に、簡単な自己紹介をする。
「僕はソウジュ。そしてこっちが…」
「クオだよ、よろしくねっ!」
「ああ」
そして全員が朝ごはんを食べ終わった後は、僕たちを話題の中心に据えた雑談が始まる。
ホッカイの気候、旅に出るまでの経緯、旅に出て何をしたいのか……等々。
彼女たちにとっては珍しい来客だ、色々と話を聞きたくなるのは当然のことだろう。しかし改めて問い詰められると、パッと答えが浮かばずに詰まってしまうことも。
これからの旅先、身の上を話すことも少なくは無いはず。
最低限はすんなりと言えるよう、答えの準備をしておこうと感じた。
そして話題はホートクと、スカイレースに移る。
「…なるほど。それは不運だったな」
すると当然、その話も出る。
そっと顔を伏せるオオタカ、昨日の寝言を思い出す。
「だが惜しかったな。もしも私と同じくらいのスピードがあれば、ホッカイからでも間に合っただろうに」
「無茶言わないで。貴女と同じ速さなんて無理よ」
「だろうな、私は何よりも速い」
「…じゃあどうして言ったのかしら」
漫才調のやり取りの後、話題の中心は再びクオへ。
「で、これからどうするんだ?」
「確かに。最初の予定は崩れちゃったよね」
視線がクオに集まると、えへんと彼女は胸を張る。
「えへへ、クオはめげないの! ちゃーんと昨晩、ホートクでの新しい計画を練ってたんだからっ!」
テーブルの下からメモ帳を出す。
勿論アレから取っている。
「まずはロープウェーでしょ、それに灯台、あと山頂近くの電波塔っ!」
「……見事にスカイレースのコースを辿ってるわね」
前向きかと思えば未練たらたらだった。
目的が潰れても諦めない辺りは、ある意味ポジティブとも言えるかな…?
「でも良いと思うわ。スカイレースのコースも、なるべく景観が良くなるように工夫されてたらしいから」
「観光にはうってつけ、って訳だね」
ホートクの景色も楽しめて、スカイレースへの欲求もそれなりには満たせる。うん、悪くないんじゃないかな。
「……ひとつ、提案してもいいだろうか」
――とそこで、ハヤブサから横槍が入れられる。
「幾らコースを辿っても、誰も飛んでいないのでは寂しいだろう」
「まあ、それはそうね…」
「だからオオタカ、ハクトウワシ。
それは、願ってもない申し出だった。
「い…いいのっ!?」
「最速の飛行だ。見失わないように気をつけるんだぞ?」
「わーい、やったあっ!!」
クオのテンションは急上昇。
このまま雲を突き破り、有頂天まで飛び上がりそう。
きっと、ハヤブサが飛ぶよりも速く。
「ありがとね、ハヤブサ」
「礼にはまだ早い。それに、お前にもしっかり見てもらうからな」
「……うん、楽しみにするよ」
―――こうして、スカイレースの
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