第17話 オリンピック、ブロクハイゼン選手の「韓国は犬を大切にしてください」
平昌オリンピックで、競技のほかに、もう1つ、社会に疑義を投げかけた事件があった。
オランダのスピード・スケート代表選手、ヤン・ブロクハイゼン選手が「韓国は犬を大切にしてください」と発言したことがきっかけで、世界に大きな波紋を投げ掛けた。
銅メダル獲得後の会見ということもあり、韓国のネットユーザーは「レイシスト(人種差別主義的)で異文化に無知である」と反論したほか、韓国の犬食についての議論が交わされる先駆けとなり、悲喜こもごも、様々な議論が錯綜した。
お話は、波及効果を保ちながら、アメリカ代表、フリースタイルスキー男子スロープスタイルに出場した、ケンワージー選手にも伝わり、彼は食用の「犬工場」から犬を90匹救出するなど、思わぬ展開を見せることになった。
韓国の犬を食らう習慣は、知る人なら誰でも知っていて、新宿の大久保界隈、韓国料理屋でも、犬の肉が食えることは、それとなく噂で伝わっていて、常連さんが、今日、あの肉、食べられる?
と聞けば、店主がそっと料理して皿の上に盛り付けてくれる、隠された幻の料理といえる。
私は犬食いの文化について、あえて真っ向から否定するつもりはありませんが、戦中の日本でも、食べ物に困った時期は犬を食べたと聞いていたし、古代飢饉の際にも犬を殺して食べたと伝え聞いていたので、さしたる驚きもなく、ただそれらは食べるものがなかった時代のことで、今のように豊富に食べ物が有り余る時代とは一線を画すのかなとも思っていた。
かなり昔になりますが、母親が2匹の犬、赤い毛の犬、白い犬を連れて散歩していた時、少し、よたった爺さんに声をかけられたそうで、その赤い毛の犬と、酒一升と交換しないかと言われ、当惑したと言っていた。
爺さんは、赤い毛の犬は美味しいんだと平然と答えたそうで、殺して食べるのだと聞いた母親は、ぞっとして、その場を走って逃げてきたと、当時、私に話して聞かせた。
これだけ食文化が発達する中で、あえて犬や猫を殺し、食べる必要はないようにも思いますし、犬を愛好する人からしてみれば、犬を食べる文化は、到底、受け入れられるものではないでしょうし、聞くだけで耐え難い苦痛を伴うことでしょう。
これと似たような食文化としては、クジラやイルカの追い込み漁の問題がある。
クジラを食べる文化がある日本に対し、クジラを食べる文化のない海外では、なんてかわいそうなことをする野蛮な民族なんだ、いたるところで日本人へのバッシングへと発展した。
イルカの追い込み漁も、縄文時代の真脇遺跡(石川県)や入江貝塚(北海道)、稲荷山貝塚(神奈川県)、井戸川貝塚(静岡県)などの遺跡から、イルカの骨が見つかっていて、千葉県では縄文時代早期の約1万年前から沖ノ島遺跡(館山市沖ノ島)でイルカ漁の痕跡が見つかっており、谷向貝塚(南房総市)、稲原貝塚(館山市)の遺跡からも、イルカの大量の骨が見つかっている。
古代の日本人からしてみれば、クジラやイルカを食すことは文化であり、大切なタンパク源だったはずだ。
韓国人からしてみれば、すべての人が、犬の食文化を肯定していないにしても、それは昔から伝わる文化なのだと言う人も大勢いることだろう。
また、なぜ牛や豚、魚の命が軽んじられ、殺生され、牛や豚を殺すことが許され、クジラ、イルカを殺すことが悪だとされるこについても、明確に否定の材料を並べることができる識者はいないように思われる。
これは大変、難しい問題を孕んでいるように思う。
なぜ、牛や豚を殺すことが許されて、犬、クジラ、イルカが許されないのか、私には説明がつかない。
できれば、犬も豚も牛もクジラも、殺すことなどないようにしてもらいたいと思うけれど、人間はご存知の通り、食べないことには命をつなぐことができない。
動物の尊い命を頂戴し、動物を殺め、その肉体を体内に取り入れることにより、辛うじて神様から命をつなぐことを許されているにすぎない。
犠牲の犠の字、犠牲の牲の字も、牛偏がつくのは、牛は古代のユダヤ時代から、祈りのミサで牛を殺して祭壇に牛の血をかけ、祭ってきたからである。
古代のユダヤ人は牛を食べた。
その文化がシルクロードを伝い、古代ユダヤ人と共に、日本人が牛や豚を食べる文化へと発展した。
古代、牛や豚を解体する、えた、非人と呼ばれた人達は、実は、古代ユダヤ人の子孫ではないかという由縁が、そこにある。
食用の牛や豚にだって、言葉を喋れないだけで、彼らにも命があるわけで、意思もあれば心だってある。
彼らが人間のペットとして成り立たないから、愛情を受けて育ててもらっていないから命を軽んじられているだけで、もう少し体が小さくコンパクトにまとまっていて、散歩などに連れて歩ける動物だったら、また違った展開になっていたのかなとも思う。
話は変わりますが神事で、馬を極度に興奮させて、坂道を走って登らせる行事を見たことがありますが、これらは動物愛護団体から動物虐待だと言って何度も繰り返し、クレームがついたそうです。
馬は興奮のあまり、足を骨折したりして、最後には安楽死させられる運命にあるのですが、なぜこんなことをさせるのか、毎年海外から非難を浴びるらしい。
これも古代から続く神事だといってしまえばそれまでですが、日本の文化に関係ない人からしてみれば、動物虐待にしか見えないと思います。
私的には、そんな野蛮なこと、する必要がないように思いますが、みなさんはどう思われます?
これと同じ意味を持つ、犬の殺処分の問題も、命を粗末に扱う点において、同じような印象を受けます。
ペットショップや、ブリーダーが無理に繁殖させた犬や猫も、幼い頃に買い手がつかなければ、いずれ死を受け入れる運命にある。
そこには人間のエゴが常に見え隠れし、人間は、全ての生き物の頂点に君臨しようと、もがき続け、お金になるかならないか(需要があるかないか)ですべてを判断してきた。
人間は全ての動物たちの生存権を手中に収めようと画策し、魚の漁獲量の調整をし、遺伝子組み換えの食べ物、遺伝子組み換えの動物たちまで、この世に創りだした。
頭が人間で、うろこを持った体、足が4本ある、尻尾を持つキメラな動物たちの誕生も、いずれ近いうちに現実化することでしょう。
人々は最強の遺伝子を求め、そしてその代償として自らの破滅へと向かっているのかもしれない。
人間が大病を患った時、もう1人のダミー人間、カプセルで培養した言葉の話せない人間から、臓器移植の提供を受ける日が、近いうちに、訪れるかもしれない。
彼らは、臓器移植のためだけに育てられ、用済みになれば殺されてしまう、そんな人間のスペアのような、人工培養され、カプセルで育てれた人間が、時を待たずして医療現場に送り込まれるかもしれない。
文化だからという理由で犬の食文化を容認しますか?
それとも今すぐ、やめさせるべきだと思いますか?
クジラやイルカの問題も、一筋縄ではいかないように思えます。
それらは、すべてその国の文化に根付いていて、遺伝子組み換えの生物誕生と同様、命の軽視に向かっていくように思えてならない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます