020120【ジツゾン】

 成績は優秀だった。

 物心ついた頃から、家庭教師がいて一日が永遠に続くんじゃないかと思うほど退屈だった。

 また、勉強以外にもピアノやバレエ、日本舞踊に至るまで隙間を縫うようにスケジュールが管理されていた。私にはそれが普通だった。

 確かに、放課後の校庭で陽が落ちるまでドッチボールをすることに憧れが無かった訳ではない。しかし、それは他の人の話であって私ではないのだ。

 この町には既に役目を終えた火の見櫓がある。周りの建物が軒並み低いため、その鉄塔だけが突き抜けていた。ただし、建設されてからもう大分年月を経ているためか倒壊の恐れがあるとされ、地域の住民からは早急に取り壊すよう声が上がっていた。

 その櫓は自宅の窮屈な勉強部屋からでも、ピアノ教室からでも、私が閉じ込められている部屋の窓からは必ずと言っていいほど見ることが出来た。

 私はその櫓にジツゾンと名前を付け、大変可愛がった。当時、家庭教師の女性から丁度サルトルの実存主義について学んだところだったためだ。火の見櫓として建設されたのにも関わらず、その意味を失い、ジツゾンはきっと存在意義について悩んだはずだ。そこで自ら選択し、勝ち取った意義が私に寄り添うという事だったのだと、いささか乱暴な解釈をしていた。

 ジツゾンは雨の日も、風の日も、私が朦朧とする意識の中でショパンを演奏する時でさえ片時も離れることはなかった。

 なんと愛いやつなのだろう。

 そうやって、少しづつ年月が経っていった際に私の成績は徐々に落ちていき、遂には平均点に近いところまで行ってしまった。才能の限界だったのだと思う。家族は落胆し、遂には一切の投資を断つことが決定された。つまり、ある日をきっかけに、もう習い事や勉強を一切しなくて良いということになった。

 そう告げられた日の夜、私は早めにベッドに入った。窓からは変わらずジツゾンが不安そうにこちらを覗いていた。

 起きたのは、まだ空が白みはじめて若干星が見えている頃の時間であった。

 私は身支度を整え、家を出た。

 向かった先はもちろんジツゾンのところである。

 下に立ち、梯子に足を掛け、登って行く。

 息を切らしながら登った。

 下を見ると足がすくむので、ただ一段づつ必死に登り続けた。

 空が明るくなってきた時、やっと上に着く事が出来た。ちょうど陽が昇る時間だった。地平線が細かく揺れはじめ、次第に太陽が頭を覗かせた。町は照らされ、遠くの方から影が無くなっていき、遂にはジツゾンの全てを照らした。

 途端に、下から鉄琴を弾くような音がした。

 それまで組まれていた鉄塔が折り畳まれるように下から崩れていった。それと同時に、心地よい音色が反響しており、まるで演奏のようでる。

 振動は殆どないのにも関わらず、目線の高さは下がっていく。エレベーターかと間違うほどだ。

 そして最後には、軽く跳べば地面に着地が出来るほどまでになって演奏は止まった。

 ジツゾンはその役割を終えたのだ。

 私は頭の中で先程の音色を響かせながら、清々しい気持ちでその場を後にした。

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