第四十二話 ハイジ、犬の代わりに謝る

 部長として新入生のオリエンテーションを仕切り、入部試験の監督をして、最初何回かの部会をこなしたら、もう五月も半ばになっていた。ゴールデンウイークも、こっちに親が来たからのんびりはできなかった。部活の大波を越すまでの間はまるで芸能人みたいなスケジュールで、勉強以外の自分の時間はなかったかもしれない。


 エバ先生のことはずっと気になってたけど、三年になってからは担任でなくなってたし、福ちゃんもわたしがどういう状況かはわかってたんだろう。あれはどうなったって急かされることはなかった。


 全員の研究テーマが決まって、それぞれの部員や班が動き始めて、やっと一息。


「ほへー……。やっぱ、部長ってはんぱないわ」

「しんどそうだね」

「しんどいー。部員50人以上の部のトップってのは、ほんとにしんどい」

「でも、わかってて承けたんでしょ?」

「もちろん。喜んでではないけどさ」

「はっ。そんなもんでしょ」


 クララと別クラスになっちゃったのは寂しいけど、一年の時によくつるんでたマリと再会。昼休みの弁友はもっぱらマリだ。マリは、クララよりずっと乾いててシニカル。でも、べたべた感がないからすごく付き合いやすい。

 そう感じるのは、学年が上がってみんなの性格の輪郭がはっきりしてきたからなんだろうか。個性が固まることイコール成長ならわかりやすいけど。必ずしも、そうじゃないと思う。

 いいものも悪いものもいっしょくたの丸見えだったのが一年の頃。その中から何を外に出して何を隠すか選ぶようになってるのが、二年経ったわたしたち。そんな風に思える。見えている外形が整ってソリッドになっても、全体としては変わってない……そういうことかなーと。


 エバ先生もそうなんじゃないかな。外から見てすぐにわかるケバさを引っ込めただけで、全体としては変わっていない。外に出せなくなった露出欲求を持て余していて、それが感情の重石になる。


「のりー、福ちゃんから呼び出しー、放課後に保健室って」

「ほーい」


 やっぱり来たか。


「健診で引っかかったん?」

「いやー、ストレス性胃炎の相談。今はまだましだけど」

「おいおい」


 呆れ顔のマリに手を振って、自分の席に戻った。もちろん、今のは言い訳。話の中身はあっちだろう。


◇ ◇ ◇


「ふむ」


 福ちゃんが、わたしの説明を聞いてシブい顔をしてる。もうちょいまともな言い訳しろよって。でも、嘘を言ってもしょうがない。


「匂い、かい」

「そうです」

「アレルギー?」

「近いですね。過敏症っぽい」

「でも、挨拶くらいはしてるんでしょ?」

「離れていれば」


 腕組みして考え込んでいた福ちゃんは、腕組みを解いて身を乗り出した。


「じゃあ、無臭になればアプローチできるってことかい?」

「アプローチは。でも、エバ先生は……いやエバ先生だけでなくて、誰もタロとはまともに会話できないと思いますよ」

「口数は少ないけど、温厚そうだし、礼儀正しい。水試の黒部さんも高評価してるんだろ?」

「ええ。でもね」

「うん」


 それは、エバ先生のためじゃない。わたし自身の覚悟のためでもあった。もう一度、タロとの間の大きな障壁をしっかり意識しておくことにする。


「タロには、好き嫌いっていう概念がほとんどないんです」

「はあ!?」


 福ちゃんが、そんなのありえんだろっていう表情でのけぞった。


「どういうこと?」

「物に対する好き嫌いはありますよ。お魚が好き、匂いの強いものが嫌い、眺めのいい場所が好き、テレビが嫌い。でも、人に対する感情としての好き嫌いが、見えないくらい淡いんです」

「人付き合いっていうことだけでなく、恋愛でも、か?」

「もちろんです」


 じろじろとわたしを見回していた福ちゃんが、正面から突っ込んできた。


「拝路さんは、それで我慢できるわけ?」

「まさかー」


 それは、タロと一番最初に会ってから今までずっと変わらない不満であり、恐れだ。でも、えら呼吸しかできない生き物に、陸上で肺呼吸しろっていうのは理不尽なリクエストでしょ? その人に使えるコミュニケーションツールを尊重して、自分を同じレベルに揃えないと、タロとは付き合えない。


「もちろん、わたしがこうだったらいいなっていう理想とか欲求はあります。でも、それが相手から返ってこないってことがわかってるなら、別の交流法を考えるしかないですよね?」

「うーん、なんとも解しがたいなあ」

「すいません。タロからの直接説明はたぶん無理。いや、タロに話してもらってもいいんですけど、理由がエバ先生には絶対理解できないと思うので」

「好きでも嫌いでもないってわけじゃなく。そもそも好悪の概念がない。そういうことね」

「はい。エバ先生がタロの話を聞いたら、悪く解釈しちゃうと思う」

「断りたいから変な言い訳を……ってことだな」

「はい」


 福ちゃん的には、しょうがないと思ってくれたんだろう。突然追求の矛先がわたしに向いた。


「で、拝路さんは、そんな愛情音痴の彼でも好きということなのね」


 福ちゃんの容赦ない突っ込みを、薄笑いで切り返した。


「好きです。どうしようもなく」


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