第四十三話 ハイジ、犬と一緒に見送る
福ちゃんがエバ先生にどう説明したのかわからないけど、授業の時の振る舞いを見る限りタロのことは吹っ切ったんじゃないかと思う。
もっとも今はタロの方がしんどいらしくて、それどころじゃなさそう。春から初夏にかけては、産卵期を迎える魚の潜水調査が続いてものすごく忙しくなるんだ。去年もそうだったけど、この時期は体力的にすごくハードなんだろう。普段から少ない口数がもっと少なくなるのは仕方ないかな。
「タロ。ご飯のお代わりは?」
「んー。いい」
「お刺身はまだ食べるでしょ?」
「あるなら欲しい」
女子にとってスイーツは別腹っていうけど、タロにとってはお刺身がそうなんだろうな。
「おばあちゃんは?」
「もうええ」
うーん……。おばあちゃんは、もともとあまり量を食べないんだけど、好物のお魚まで食べなくなってきたなあ。わたしが来た頃より元気なくなったし、ちょっと心配。
「おばあちゃん、調子悪そうだけど大丈夫?」
「疲れただけじゃ」
「洗い物とかやっとくから、すぐに横になったらいいよ」
そっと顔を上げたおばあちゃんが、儚げに微笑んだ。
「のりちゃんは……ええ子に育ったのう」
「ええー?」
強い強い胸騒ぎがした。なんで……突然そんなことを言うんだろ?
◇ ◇ ◇
絶対にそんな日は来ないと思っていた別離。それは……突然やってきた。
ここんとこ、朝に海藻を採りに行かなくなっていたおばあちゃんの朝はゆっくりめで。朝一番に起きるのはわたしになってたんだ。わたしが台所で朝ご飯とお弁当の支度をする音を聞きつけて、寝坊したって言いながら起きてくることが多かったの。
でも。その日は、おばあちゃんが起きてこなかったんだ。どうしたのかなと思って、おばあちゃんの寝室を覗いた。いつものように寝てる……と思ったんだけど。身体がぴくりとも動いてない。慌てて、口のところに手を当てて息を確かめた。
「息……してない。お、おばあちゃん! おばあちゃああん!」
絶叫しながら、おばあちゃんを揺すった。布団は、暖かくなかった。おばあちゃんの形を保ったまま、冷たくなってたんだ。
「おばあちゃん! おばあちゃあああん!」
おばあちゃんの枕元に突っ伏して、絶叫を繰り返した。わたしの叫び声を聞きつけて、タロがぶっ飛んできた。
「どうした!」
「おばあちゃんが、おばあちゃんがあ!」
おばあちゃんの手首を握って脈を確かめたタロが悔しそうに顔を歪め、スマホを持って家を飛び出していった。
「救急に連絡する!」
◇ ◇ ◇
「のりちゃん。気ぃ落とさんようにな」
おばあちゃんが亡くなって発生するいろいろな事務仕事をわたしの代わりにこなしてくれた小野さんが、居間にへたり込んでいたわたしに声をかけてくれた。でも、返事ができない。動けない。
人っていうのは、こんなにも突然にいなくなってしまうものなのか。悲しいも、悔しいも、辛いもない。底が見えない不在の奈落。わたしは……まだ落ち続けていた。
「朝じゃ。のりちゃん、起きんさい」っていう声。「いってらっしゃい」っていう声。「おかえり」っていう声。「おやすみ」っていう声。
いつまでも当たり前のようにそこにあって、いつまでも聞けると思っていたその声が。これほど突然に、きっぱり取り上げられるなんて……思ってもみなかった。
わたし以上にショックを受けてたお母さんが、わたしの横で泣きじゃくっている。今まで感情的に取り乱す姿を見たことがなかったから、お母さんが無制限に放射する悲しさが余計胸に突き刺さる。
「な……んで。こんなに……突然……なんだろね」
「うん」
お母さんは、おばあちゃんの具合が悪かったことをずっと案じていたんだろう。お盆や秋祭り、年末に何度かこっちに来て、おばあちゃんの説得を続けていたのは知ってた。最後までお母さんの誘いを断り続けたおばあちゃんは、こうなることをもう覚悟していたんだろうか。
去年のお盆に、お母さんが言ったこと。それが何度も頭の中でこだまし続ける。
『一緒になることより、独りになった時にどうするかを考えなさい』
タロと夫婦になる契りを交わしたこと。それは、独りでなくなる喜びと同時に、独りにされる恐怖も連れてくる。お母さんが警告したのは、そういうことなんだろう。
お母さんは一人娘だったし、わたしも一人っ子だ。どこかにいつも孤独感を抱えていて、だからこそ一人にならない生き方を選択しようとする。
プライドを持って仕事をこなしてたお母さんが、お父さんの転勤が決まった時にあっさり仕事を辞めたのを見て不思議だなあと思ったんだけど。お母さんにとっては、お父さんとの生活が全てで、それ以上も以下もなかったんだろう。
タロとの離別には、絶対に耐えられそうにない。でも。タロとの約束を果たしても果たせなくても、離別は来る。事実として来てしまう。
ねえ、おばあちゃん。わたし、どうしたらいいんだろう?
◇ ◇ ◇
最後のお別れを済ませ、家を出たおばあちゃんの亡骸は、軽く、小さくなって家に戻ってきた。
やっとおじいちゃんの隣に戻れた……そんな晴れやかな顔をしたおばあちゃんの遺影が、わたしたちを見下ろしている。わたしはじいさんと一緒に魚を腹一杯食うけん、あんたらはもう心配せんでええ。そう言われてるみたいだ。
葬儀の間片時もわたしの側を離れなかったタロが、遺影を見上げ、つぶった目の端からずっと涙を流し続けていた。タロは、おばあちゃんと一緒に過ごした日々をどんな風に振り返るんだろうな。
小さい潮騒の音が、心をかき回す。いなくなったおばあちゃんの代わりに。いつまでも。
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